楽しい科学実験は理科好きを増やせるか

楽しい科学教室や科学ショーに関する疑問メモ 少し前の話になるが、竹橋の科学技術館で開催されたの科学の祭典を覗きに行った。もっとも、実験手引書ももらい損ねたし、個々のブースの人に話しかけたりもせずに会場を一回りしただけなのだけれど。
 会場を巡って感じたのは、ブースを出して展示や実演をされている方が、科学好きを増やそうと、ボランティアとして熱心に活動されていること。そして、そこに来ている多くの子どもが楽しんでいること。しかしながら、子どもたちに科学的な思考をすることの楽しさが、ほとんど認識されていないであろうこと。たぶん、この経験は多くの子どもたちにとって、夏休みの楽しい1日の経験になっても、学校でやっている理科を好きになることにはつながっていかないように思える。いや、それどころか、学校でやっている理科から遠ざける危険性すらあるのではないかと思う。
 こんなことを書くと、主張に根拠があるのかと問いつめられそうなので、個人的な経験を紹介しよう。昔、ちょっとした成り行きで、小学5年生に科学の話をすることになった。そこで、液晶の話をしようかと小学校の先生に意見を伺ったところ、「結晶が溶けるときに液晶を経て液体になるのは一般的なことか」との質問を受けた。「細長かったり平べったい分子で起こることで、普通の分子は直接液体になる」と答えたら、「それなら、小学生に液晶の話をしないでくれ。彼らは中学になって物質の三態を学習するけれども、そのときに例外を知識としてのみ知っていて、それをひけらかされると中学の先生はやりにくいだろう」とのアドバイスを受けた。その先生からは、「子どもを科学館につれていって、液体窒素などを見せると目をキラキラさせて楽しむ。だけど、学校に戻ってくると、それは遠い世界のことで、学校の理科の授業にはいっさいつながらない。そうじゃなくて、学校の理科に直接つながるようことをやってくれるとありがたい」とも話された。そのときに小学生にした話が、先生のリクエストをどのくらい満足したのかは分からないけれど、アドバイスは頭に残っている。
 思いで話をもう一つ続けよう。小学生の頃に、コンパスと定規で正5角形を描く方法を教わった。中学の数学の授業の時に正5角形を描くことになったので、その方法で描き始めたら、それに気がついた先生が「その方法は正しい方法だが、その方法で描いた図形が正5角形であることを証明できるか」と私に尋ねた。否と答えると「自分で証明できるようになるまで、その方法は封印して、自分で原理的に正しいことが分かる方法で正5角形を描いてください」とおっしゃった。それ以来、いつかは証明をしてコンパスと定規で正5角形を描けるようにしようと思いつつ、すでに、方法を忘れかけ、未だに正5角形は分度器で角度を測って描くしかない身の上なのだけれど、自分で説明できない知識をむやみに使うべきではないという教えは頭にしみこんでいる。
 個人的には、日常的な科学の学習へのつながりを配慮し、知識の体系と繋がらないような、飛び越した知識は慎重に扱うというのは非常に重要なことであり、それを無視すると、子どもを科学から遠ざけることにすらなりかねないと思っている。それ故に、科学教室などの出し物や展示にしても、妙な飛び越しや、雑学としての知識として科学を示してはいけないというのは厳密に守られるべき事柄であると信じている。しかしながら、今回の科学の祭典、それからWeb上の多くの子ども向けの科学を楽しもう活動をしている人のサイトを眺める限りでは、ほとんど意識されていない印象がある。むしろ、系統的な科学の学習とは異なる、楽しいトピックス的なことにテーマが集まる傾向があるように感じている。
 この物言いに対して、まずは興味を持ってくれることが第1で、また、科学的な事柄に関する不思議さを感じる心を育てることが重要なのであるので、不思議さを演出する展示や科学ショーに意義があるという反論もあろうかとおもう。しかし、この反論は少なくとも、今回少しばかり見た科学ショーと称するものを見た限りでは反論として意味を持たないと感じている。
 今回眺めた科学ショーの中で、2つの形状のことな瓶の上にアルミ箔をおき、片方の瓶と同じ瓶を笛のようにならすと、同じ瓶の上のアルミ箔だけが落ちるという芸があった。残念ながら、観客はなにが見るべきところでなにが起こっているのかあまり理解できなかったので、演者の一人が、片方だけ落ちるのがすごいことで、これは共鳴によると解説していた。しかし、この解説でなにが分かるというのだろう。そして、共鳴という言葉のみでこの現象を片付けてしまったら、家で同様のことを試みる子どもにしても、親になぜかを問うて悩ませたあげくに、聞きかじった「共鳴だよ、そんなことも知らないの」という科学のかけらもない理由付けを親に言って分かったつもりになっているのが関の山ではないだろうか。これは、科学的な思考を育てることにはマイナスの効果はあってもプラスの寄与はない。そして、そこで得られる不思議さは、その理由を追及しようとしないという点において、心霊現象を不思議がるのとなんら心の働きにおいて違わないものである可能性がある。
 不思議さを育てるというが、大切なのは、畏敬の念がその先にある不思議さだと思う。もっとも、これは私のオリジナルではなく中谷宇吉郎が簪を挿した蛇の中で記しているようなことなのだけれど。
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by zam20f2 | 2009-09-06 18:39 | 文系 | Comments(0)
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