「イカの魂」、昭和60年11月に発行された本である。 こんな本を取り上げると、足立ファンはもとより、足立倫行さん自身から、「どうせなら『日本海のイカ』を取り上げて欲しかった」などという突っ込みがあるかもしれない。確かに「日本海のイカ」は「人、旅に暮らす」に続くノンフィクションで、後の「人、夢に暮らす」などに続く、足立さんの本流の本なのである。一方、この本は、「日本海のイカ」の取材時に得た資料をベースに、もちろん、その後の取材を加えた足立さんとしては異色の本である。 この本の裏カバーに次のような文言がある。 「イカからテレビが出来る!? -こんな驚異的な話をご存知か。イカの内蔵から工業用の肝油を精製する過程では、粉末のコレステロールを作り出すことが出来る。そのコレステロールからは、従来の電卓・液晶テレビなどに使われている液晶とは全く違ったタイプのコレステリック液晶が出来るのだ。それは、熱・電圧などにより七色に色彩変化する摩訶不思議な代物。もし、この特性の瞬間的な制御が可能となれば、紙と同じ厚さのカラーテレビの誕生も夢でない。今やイカは最先端バイオ・インダストリーの主役でもある。」 これが、世の一部に流通している「液晶テレビの材料にイカが使われている」という伝説の起源ではないかと思っている。イカの液晶テレビについては、この本の他にも、「中学か高校のころにコンピュータ雑誌(多分I/O)で読んだ記憶がある」という現在30台半ばの人の証言もあるのだけれど、計算すると、昭和60年よりは少し後になるので、文献としては、イカの魂が最初である可能性が高い。もっとも、上の内容は、日本化学飼料のインタビューで出てきた話で、その中で工場長の板垣は「13年前に開発して販売を始めた」と述べているし、液晶開発の初期にはコレステリック液晶を用いた表示装置などの研究も行われていたので、その中からイカのテレビの話が出た可能性もある。これは、今後の検討事項である。 さて、イカと液晶に関しては イカの肝から液晶を作る派とイカのスミから液晶を作る派 イカのスミ自体が液晶である派とイカのスミ(か肝)を原料に液晶を作る派 がある。足立の本によれば、コレステロールはイカの肝油を精製する過程で生じるダーク油から取れるという。肝派に有利な情報である。ちなみにダーク油は「黒っぽい油」と記されているので、このあたりからスミという伝承が発生した可能性がある。鯣烏賊の腹を割いたことがある人なら、イカの肝に比べるとスミ袋は遙かに小さいのはご存知だと思う。もちろん、含有量の問題はあるけれども、資源としては肝の方が価値がありそうである。 イカのスミ自体が液晶であるかについては、多分違うと思う。というか、昔にその話を聞いて顕微鏡で見たけれど、違っていたような記憶がかすかにある。まあ、適当な記憶なので確実な自信はないが。確実なところで話をすると、コレステロール自体は液晶にならない。カルボン酸とのエステルなどにする必用がある。一方、生体内では、コレステロールは適当なエステルとして存在もしているので、生物中のコレステロール化合物がそれ自体で液晶性を示す可能性は皆無とは言えない可能性が残る。 さて、上の引用文には「液晶テレビなどに使われている液晶とは全く違ったタイプのコレステリック液晶」という言葉が出てくるが、残念ながら熱力学的にはコレステリック液晶は、液晶テレビなどに使われているネマチック液晶と同じものである。そしてまた、全てのコレステリック液晶がイカから作られるわけではない。コレステリック液晶は、確かに、コレステロール誘導体から作り出され、ネマチック液晶とは見た目がかなり異なっているために「コレステリック液晶」と命名されたのだけれど、普通のネマチック液晶にキラルドーパント(非コレステロール化合物)を混ぜれば、コレステリック液晶になる。それ故、キラルネマチック液晶という呼び方もなされる。この液晶を用いた電子ペーパーなども開発されているけれども、そこではイカ(あるいは生物)由来のコレステロールは使われていない。というのは、コレステロールエステルは化学的にそれほど安定ではなく、デバイスの寿命を考えると使える材料ではないためである。液晶ディスプレイには添加剤としてコレステリック液晶が混ぜられることもあるが、液晶業界に昔から係わってきた人に聞いても、そのコレステリック剤としてイカのコレステロールが使われたことはないようである。 以下2015年12月追記 コレステロール誘導体は液晶表示に使える材料ではないときっぱり書いてしまったのだけれど、 のメルクの人の記事を読むと1990年台には、ノナン酸コレステロールがTN液晶の添加剤として使われていたそうである。 となると、液晶TVにイカが使われていたかもしれないという事になるのだけれど、現時点では、どちらとも断言できない気分でいる。 液晶材料といっても、時計や電卓などに使われているものと、最近のディスプレイに使われているものでは要求される性能が異なっていて、違う分子構造のものが使われている。テレビはパーソナルコンピュータのディスプレイに使われているものは、抵抗値が高いことが必要で、そのために結合が切れる可能性のあるエステル結合などは含まない構造が主流となっている。それを考えると、これらの用途用にはコレステロール誘導体は使いにくい。しかし、90年台にはSTNの液晶テレビも存在していて、それなら、コレステロール誘導体を使っていても驚かない気がする。 これまで、パネルメーカーの人や大学で液晶ディスプレイを初期からやっている人に聞いた限りでは、イカを使うなんてことは聞いた事もないという話だったのだけれど、コレステロール誘導体を添加剤として使っていることを知っていたなら、完全には否定しなかったのではないかと思う。こうなると、液晶材料のメーカーの人に、何用の液晶まではコレステロール誘導体を使っていて、その誘導体は何から作ったものかを聞かないといけない訳だけれども、あんまり聞きに行く先が思い至らず、どうしたものかと思っている。
by zam20f2
| 2009-10-11 09:55
| 液晶系
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