伝道師のM型ライカ

Sam Furukawa氏の講演を聴く機会があった。



早口の英語で、人の生活に関連するデジタル表示関連技術の動向や将来について多彩な内容が語られていた。もっとも、50分の講演時間のはずなのに、最初のスライドで本人が示した講演予定時間は80分になっていて、40分過ぎ頃に司会者から残り時間を告げられたときに、「まだ1/3しか行っていない」という言葉に続いて、早口の日本語になったりしたのだけれど(その後、また早口の英語に戻った。それにしても、40分たって1/3だと講演時間は120分と思っていたということになるので、本人の最初の提示とも合っていない)。

その晩、バンケットに表れたFurukawa氏はデジタルのM型ライカを下げていた。そういえば、写真が趣味だったと聞いたことがあるなぁとその時は思っていたのだけれど、翌日ぐらいから、微妙な違和感を感じるようになった。

Furukawa氏の話の中にデジタルミラーが取り上げられていた。顔面認識技術により、デジタルミラーの前の人を切り出して、服に関しては色や物を変えたのを合成してディスプレイに表示して、いわば自宅にいて服を試着して選べるような話である。これは、ある意味、人の空想力を不要にする技術である。また、最近の顔面やシーン認識により撮影状況を最適化するカメラなどは、人の判断を不要にする技術である。あるいは、電子ブックは紙の本にある、本の内容とは別の感性的な事柄、印刷の臭いや活字の美しさを排除する技術である。Furukawa氏が伝動している技術は、利便性や直接性を実現する一方で、人の五感が直接にかかわる、手がかかるけれど楽しいものを切り捨てているような印象がある。

さて、Furukawa氏の持っていたライカであるが、これは、フィルムをCCD素子に変えただけのようなカメラだ。フィルムライカと比べてシャッターチャージは電動になっているし、また、(多分)自動露出だと思うけれど、人がレンジファインダーをつかって構図をきめて、ピントを合わせて、そして、絞りを決めて撮影する必要がある。自動化からはもっとも遠い位置にあるデジタルカメラだ。どう考えても、フィルムカメラに未練を感じる人が、カメラの操作をすることに楽しみを感じながら使うカメラであって、顔面やシーン認識などを語るデジタルの伝道師が使うカメラではない。まあ、現時点でシーン認識のあるデジタルカメラの撮像素子サイズは小さいし、レンズもそれなりのものだから、レンズの味わいとかボケぐあいなんて逃げ口上もあるかもしれないけれど、それこそデジタル技術によりどうにかしなければならない部分何じゃないかと思う。
密かにではあるが、Furukawa氏が自分で伝道している世界に本当に住みたいと思っているのか疑問を感じてしまった。

Furukawa氏の中では、少なくとも意識されている範囲では、デジタルミラーに自分の姿を写すことと、M型ライカを使うことの間には矛盾はないのだろうとは思う。それこそ、デジタルミラーに写った自分の姿をM型ライカで撮していても驚きはしない。しかし、そこには人が行くべき方向が見えていない気がする。取り敢えず、出来てしまったこと、出来うることを楽しんでいて、それが必要なのかそして、それによって我々が何を失うのかについては明示的には意識されていないように思える。もちろん、そんなことを考え始めたら伝道師ではいられないことも確かなのだけれど。
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by zam20f2 | 2009-12-11 21:56 | 文系 | Comments(0)
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