「子どもの論理」はあやまっているか

ネットをふらふらしていたら「なぜ、子どもは理科嫌いになるのか」というテキストに行き当たった。 2007年3月に立教大学で開催された立教大学理学部現代GP第2回枠ショップで山梨大学の松森先生により行われた基調講演である。
この講演録を見ていたら、子どもの論理という話がでてきた。「木が揺れると風が発生する」といった子どもの主張のまつわる論理である。因果関係が逆転したように思える主張に関して、子どもに理由を聞くと、1、無風状態で木が揺れるのが見える、2、木の揺れる音が聞こえる、3、風が感じられるという観察結果に基づく論理的な推論なのであるという。松森氏は、このような子どもの考えを非科学的として捨て去らせるのではなく、「少しずつでも非科学的なものから科学的なものへと再構成していこうという営み、これこそが理科教育が目指すべき方向性の一つである」と記している。

困ったことに、私にはこの「子どもの」論理のどこが科学的に間違っていて非科学的な部分を含んでいるのかがわからなかった。松村氏は、光と音と風の速度が異なることを認識していないことが、木が揺れて風が起こるという誤った論理展開を子どもがしてしまう原因なので、それぞれの速度が異なることを認識させれば正しい論理に行きつくような議論をしている。でも、その議論は誤っている。こんなことを記すと不思議がられるかもしれないが、木を扇風機に替えて考えると議論の誤りが明白になる。

扇風機が回るのが見え、音が聞こえ、そして風がやってくると、人は「扇風機が回ったから風が生じた」と考える。起こっていることは木の場合と同じなのに、異なる解釈をする。ところで、この時、実は扇風機はコンセントにつながっていなくて、外の風が扇風機を回しただけかもしれない。この場合は、風が吹いて扇風機が回ったが正しい解釈になる。

空想をたくましくすると、木だと思ったのは、実は木の形をした人工物で、葉っぱを同じ方向に動かして風を作る装置であるかもしれない。この場合は木が揺れて風が起きたが正しい解釈になる。遠目からは、ただの木なのか、人工風発生装置かの区別は困難であり、現物を確認しない限りどちらが正しいかは論理的には定まらない。

というわけで、大人が「子どもの論理」をその場で間違っていると感じるのは、単に日常的な経験から、その辺りに木の形をした風発生装置がおいてある可能性は極めて低いことを知っているからであって、論理的な帰結ではないのである。同時性という概念を持ちこんでも、扇風機の例を考えれば、論拠にならないことは明白である。論理的には、大人も子どもも同レベルにいる。

というわけで、松森先生は誤った論理で子どもを説得しようとしてる。論理的に誤った議論という意味で松森先生の論理性は子どもの論理よりも劣っている。おそらく、多くの子どもは速度の違いを持ち出した説明にだまされて納得してしまうだろうけれども、その納得はむしろ、自分の頭で考えることを放棄した非科学への道である。
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by zam20f2 | 2010-04-18 12:38 | 文系 | Comments(0)
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