抽象への飛翔

科学教育の議論において、体験はほぼ無条件に推奨すべき善なるものとされているように思う。 理科嫌いの議論においても、日常的な体験と科学を結びつけることの重要性がよく指摘される。

本当にそうだろうか。科学的な概念というのは、むしろ、個々の現象から切り離されて抽象化されることにより、一般性を得た理論となりうる物だ。理科と科学が別物だったら問題はないけれども、理科は科学につながる道だとしたら、いずれは具象から抽象へのステップを切らなければならない。

人間には発達段階がある。もちろん個人差もあるだろうけれども、順をおった論理的な思考が可能になったら、具象から抽象へのステップを切り初めてもいいはずだ。

うろ覚えの記憶だけれど、歴史は小学校高学年にならないと学習できないと聞いたことがある。逆に言うと、小学校高学年になれば、時系列にそった事象の流れ、因果関係が理解できるようになるということだと思う。というわけで、小学校高学年から中学校になったら、具体性を離れた科学の教育が始まって良いのだろうと思う。

「理科離れしているのは誰か」における河野氏の記述によると、中学校で理科がつまらなくなる理由が中学1年と2年で違いがあるという。中学1年では上位の理由としてあがっていない計算の存在が中学2年では割合を増すのである。計算とは数学的な過程である。ただし、理科で使われる数学は、すでに学習している内容である。ということは、計算があるから苦手ということは、具体的な物事を計算に持ち込む過程、すなわち、物事の抽象的・理論的理解の過程に困難があるように感じられる。

そういえば、数学も理科系とされる科目である。そして、数学においては、体験が数学の理解に必須であるという議論はされていないように思う。理科も事情は同じだ。博物学的な分野をのぞいては、理解の難しさには抽象化が関連しており、体験で解決できる問題ではない。

例えば、原子や分子、さらにはイオンなどという概念は日常的な直感から切り離されたところにある。実験を通してそれを直接触れることは容易ではない。しかし、日常をこえたこれらの概念から、射程の長い演繹によって日常の説明ができる。それが科学の醍醐味である。

小学校低学年やそれ以前における体験の重要さを決して否定する気はない。しかし、中学より高学年においては、単純に実験がとか、体験がといった言葉からは脱却した方が、問題点ははっきりするのではないだろうか。
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by zam20f2 | 2010-04-25 15:27 | 文系 | Comments(0)
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