「地震予知を考える」を考える(にわか地震談義:番外編2)

にわか地震談義では、近い将来に東京で3月11日以上の揺れに見舞われるか、見舞われるとしたら、どのような地震によってであるかを素人なりに考えてみようとしている。まあ、専門家の方々も、3月11日の地震よりマグニチュードが1程度小さい余震が起こる可能性があるので注意が必要であると言っているけれど、その余震が余震域のどこで生じるかで、東京の揺れは激しく異なる。南の端だと、下手をすると3月11日以上の揺れになるのではないかと思うけれど、テレビに出てくるような専門家で、そこまで場所を踏み込んで発言をする人はいないように思う。

ところで、地震の予知ができるかについては、専門家の間でも責任追及をおそれてか、予知が困難であるという人が増えているようだけれども、その中で、予知の可能性を主張し続けているのが茂木清夫氏である。というわけで、専門書ではないけれど、何をすればどの程度の予知ができると考えられているのかを眺めるべく、表題の岩波新書を眺めてみた。

読んでみての簡素を一言でいうと、学問的な意味での地震予知は可能だけれど、社会的に意味のある地震予知は不可能というところである。

本の中で、茂木氏は、一本の紐が引っ張られてちぎれる過程でも、紐の一部が伸び出してから破断するので、紐全体を見ていれば、どのタイミングでどこから破断するかが予知できると主張している。そして、歴史的にいくつかの地震をあげて、予兆と思われる事柄を整理して、それらの事柄をきちんと評価できれば次回には事前に予知が可能であると議論を進めている。

その一方で、茂木氏は、地質構造は複雑であり、しっかりとした観測態勢が行われていない時にしか地震が生じていない場所では、予兆の評価が困難であること、同じ場所でも完全に繰り返しで地震が起こるとは限らないことも記している。

紐の例に戻るなら、一本の紐を引っ張りながら観察していて、一箇所が伸び始めてそこから破断すると思っていたら、別のところが突然に切れることがあり得るというわけである。

と言うわけで、茂木氏の言っていることを普通の人にも分かるように言い換えるなら、地震が予知できると宣伝したお陰で、随分と観測網ができたので、地震予知はまだできないけれど、今度地震が起きたときにはデータが随分と集積できるので、その次の地震の時には、有る程度は予知ができるけれど、同じに起こらないこともあるから外れることもある。ということになる。地震の繰り返し周期が100年から1000年程度であることを考えると、茂木氏の主張はあと100年~1000年は地震予知はできないし、その時になってもあたるとは限らないということになる。まあ、学問的には地震予知はできると言っても良いかもしれないけれど、日常センスからは地震予知は不可能であると言って良いレベルの話である。

どうも、茂木氏は、学問的な地震予知と日常的な地震予知をごっちゃにして議論を進めてしまっている印象がある。本の中で、茂木氏は国会に参考人として出席した時に、地震予知には慎重な発言をしたと主張して、国会答弁のその部分を引用している。「もっとも前兆のあらわれる程度も、それからあらわれかたも地殻の状態によってちがいまして、決して単純なものではないようであります。」これが、該当する部分なのだけれど、この前の発言がどうなっているかというと、「日本におこった過去の地震を調べてみますと、もし今日の水準の予知技術をもってすれば予知することができたにちがいないという地震がいくつかございます。したがいまして、地震は予知できる可能性がおおいにあるということはまちがいのないことであります。」となっている。この流れを読めば、留保付きだけれども地震予知は可能であると主張しているとしか理解できない文脈である。この後の東海地震についても留保付きで予知可能という主張をしているとしか読めない文言が続いている。茂木氏は東海地震の判定が黒か白かしかないことを問題として判定会議の役を降りたはずだけれど、上の国会答弁を眺めてみると、その時の担当の役人さんは「お前が国会であんなこと言ったから、あの法案が出来たのに、今さら何やってるんだ」と思ったのではないかと感じてしまった。 話は変わるが、茂木氏の「とらわれずに考えよう」によると、有馬朗人氏は、2005年4月10日に日経にこの本の書評を出し、その中で、「文部省の依頼で地震予知計画に関する外部評価報告書の座長をして、ネガティブな評価を記した報告を出したが、茂木氏の本を読み、地震予知の研究を進めるべきだと思った」と言うようなことを記しているらしい。もちろん、有馬氏が座長をしたときには「地震予知を考える」は出版されていなかったが、有馬氏の文言を素直に読むと、有馬氏は座長でありながら、ほんの半日ぐらいの読書で得られる程度の情報すら持たずに、外部評価委員の座長を引き受けて、ネガティブなコメントを出した上に、その影響に対する自己批判をすることなく、新聞の紙面で対外的な、アリバイ工作をしていることになる。これは、有馬氏が文部大臣としてゆとり教育を推し進めた後で、それと反対とも思えるようなことをその後にやっているのと重なる行為である。なんと申しますか、有馬氏のこういうところを好意的に「懐が広い」と言う人もいるようだけれども、率直な人間なら「煮ても焼いても食えない狸親父」と感じるしかないだろうと思う。それにしても、茂木氏は、この書評に対して、まともな情報も無しにネガティブなコメントを出したことを怒るどころか「このようにまともな書評をいただいたことに感謝すると共に」と記している。根っからの善意の人なのか、それとも、昨日の敵であろうと明日のメシの種になるなら手を結ぶ人なのか判断に苦しむところだ。
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by zam20f2 | 2011-04-12 08:15 | 文系 | Comments(0)
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