引用二件

一件目は「ぞうを消せ」 ジム・ステインメイヤー 河出書房新社
僕は子供時代をアメリカ中西部で過ごしたが、秋が来ると紅葉の不思議に魅せられた。とくにカエデは、この世のものとは思えないほど不思議な紅色をしていた。緑の葉がどうしてこんな色になるのだろう。学校からの帰り道、道ばたのカエデの葉を拾い上げて大切に取っておいたことを思い出す。それで何かをするつもりはなかった。もちろんん、大人はそんなものに興味がなかった。大人にとって、それはかき集めて燃やさなければならないものだった。
四年生のころだったか、葉の葉緑素が秋になって死ぬから紅葉し、あのように鮮やかな色になるのだと科学の授業で教わった。謎がすっかり解けたから、もう悩まないでよいのだと思った。
皮肉にも、科学のせいで僕らは物事を深く考えなくなって、関心をなくしてしまいがちだ。むろん、何かを当然のことと受け入れるのは悪くない。誰でも毎朝目覚めるたびに重力に支配されていること確認などしないように、すべての物事に絶えず好奇心を抱いていたらこの世は耐え難くなってしまうだろう。それでも、、色づいた葉と四年生のときのことを思い出してみると、なぜ葉が紅く染まっていくのか、じつのところは理解できていないのだと今でも認めざるをえない。もし僕がたしかにそれを客観的に捉えられるようになっているとしても、わかっていないことには変わりない。僕が教わったのは、それをすっかり理解している科学者たちにとっては道理にかなうということだった。僕が学んだのは、葉に興味をもつことをやめる方法だったのだ。ところで、葉は「意識して」赤くなるのだろうか。それとも気づかぬうちに赤くなっているのだろうか。科学法則があるから葉が紅くなるのか、それとも紅葉するから法則が生まれるのか。四年生のとき、ちょっと高尚な科学の命題を与えられたような気分になった。今は、科学のせいで何かを考える大切さをすっかり忘れてしまったように感じる。

二件目は「簪をさした蛇」 中谷宇吉郎
科学の本質論にはここでは振れないことにしても、本統の科学というものは、自然に対する純真な驚異の念から出発すべきものである。不思議を解決するばかりが科学ではなく、平凡な世界の中に不思議を感ずることも科学の重要な要素であろう。不思議を解決する方は、指導の方法も考えられるし、現在科学教育として採り上げられているいろいろな案は、結局この方に属するものが多いようである。ところが不思議を感じさせる方は、なかなかむずかしい。
物象の何年生だったかの教師用に、秋の山へ児童をつれて行くと、楓だの漆だのが美しく紅葉している。その葉の色の美しさを示して、自然界の美に驚嘆するように児童の情操を涵養せよというような意味の説明がある。しかし本統の驚異はなかなかそう手軽には感じさせられないものである。それに注文通りの秋の山など、そうざらに見つかるものでもない。もっとも紅葉の美しさに注意を向けさすことが悪いと言うのではない。それもたいへん結構なことであるが、それだけで、という意味は、その系統に属する各種の指導だけで、驚異感の方は片がつくと思っては不充分であろう。
近代の専門的な教育法のことは知らないが、私には自分の子供の頃の経験から考えて、思い切った非科学的な教育が、自然に対する驚異の念を深めるのに、案外役に立つのではないかという疑問がある。幼い日の夢は奔放であり荒唐でもあるが、そういう夢も余り早く消し止めることは考えものである。海坊主も河童も知らない子供は可哀想である。そしてそれは単に可哀想というだけではなく、余り早くから海坊主や河童を退治してしまうことは、本統の意味での科学教育を阻害するのではないかとも思われるのである。
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by zam20f2 | 2011-06-05 16:16 | 文系 | Comments(0)
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