二つの舞台裏の話を比べてみる

レーザー光をゴーグルなしの人の間を飛ばしまくる先週の土曜日の番組にあきれ果てて、そちらの話を先に出してしまったけれど、これは、その前の週の話。

批判するにも値しないと書いてしまった「大科学実験」であるが、驚くべきことに、日経サイエンスの元記者さんをはじめとして、あの番組に好意的な人が世の中に存在する。まあ、大人のサイエンスリテラシーが低いことで有名な国であるので、悲しむべきことではあるが、驚くべきことではないのかもしれない。とはいえ、そのままだと、サイエンスリテラシーがあがる望みすらないので、なにがダメかについては書き続けようとも思う。まあ、そのうちに、あきるかもしれないけれどね。

さて、今回のスピンの話、角運動量保存則を扱っているけれど、話の後半は、どう考えても、撮影するためのスタントの人の苦労話になってしまっている。つまり、楽屋ネタである。それをみながら思い出したのが、数十年前の「たのしい科学」の2本足のコマはたたないという楽屋ネタの話である。今回は、この二つの楽屋ネタの話を比較して、なにが違うのかを考えることにする。
たのしい科学の2本足のコマは、コマを使ったモノレールの模型を作る裏話である。シリーズの一つとしてモノレールを取り上げたものがあって、その時に制作当時から50年前にイギリスで作られたという、コマで車体を安定させた1本レールのモノレールの模型を作る時の裏話という筋になっている。

このモノレールは普通のモノレールと違って、普通の鉄道に使うようなレールを1本だけ使って車両を運行するものである。そのままだと、あっという間に車両は横転してしまうので、それを防ぐために車両に大きなコマが取り付けてある。ご存じのように回転するコマは倒れずにまわるので、その力で車両が転倒するのを防ぐのである。
本番の前日に、モノレールの模型ができて、それにコマを取り付けて試運転をするのだけれど、期待に反して模型は倒れてしまう。ここから、倒れない模型を作るまでの物語が始まる。
模型チームはモノレールが倒れてしまう理由を探るために、まずは手元にある本でコマモノレールの記事を探しまくる。しかし、残念ながら、そんなものは見つからない。困り果てながら、チームの一人が、コマの下に車輪が一つの物を作ると、それは何の問題もなく立ち、そして、傾斜した1本レールを下っていく。そこで、2輪のものを作ってみると、それは倒れてしまう。
ここで、チームは、1本足のコマは立つけれども、2本足のコマは立たないのではないかと考え、2本足のコマを作ってみると、確かにそれは倒れてしまう。
この発見の理由を探るために、コマに関する文献を探すと、コマが倒れないのは、倒れる方向に垂直な味噌スリ運動があるからであることを知る。
番組では、ここで、ジャイロゴマを使って、コマの性質を2つ紹介している。一つは、回転するコマには回転軸の方向を保つ性質があること、そして2番目は回転軸を傾けようとする力に対して、直角方向に回転軸が動くこと。この2番目の性質から、実際にコマの味噌スリ運動の様子をコマのスローモーション画像とあわせて示している。

これから、コマが立つためには味噌スリ運動ができることが必要なのだけれど、2本足のコマは味噌スリ運動ができないために倒れることが推論され、二本足の上に足の広がっている方向に動ける関節をつければ、味噌スリ運動ができるので、コマは倒れない筈だと議論が展開する。実際に関節をつけたコマは倒れず、足の代わりに2輪にしても倒れず、そして、ようやくモノレール模型の完成となる。

この13分ほどのストーリーを通して、視聴者は、コマの場合は1本足だと立つけれども、2本足だと立たないこと。その理由は2本足では味噌スリ運動ができないこと。コマには回転方向を保つ性質があること、そして、回転軸に力を加えると、それと垂直に回転することを理解する。また、物事を調べる手段として、様々な(決して一冊ではない)本を調べることがあることも理解する。その上で、理屈通りに物事をやれば、思った通りの結果がでることも目の当たりにする。
番組の最後のナレーションでは「科学というものは実際にやってみなければ進歩しない」というせりふが使われているけれども、確かに思いこみの間違いに気がつくためにはやってみることは一つの有効な手段である。


もちろん、最初の2本足が倒れたのは「やってみてわかった」ことなのだけれど、その後のプロセスは、科学の法則をきちんと調べて適用する課程であり、その結果は「やってみなくてもわかること」を確認する作業になっている。

一方、大科学実験の方は、最初の映像で人が足を広げたり狭めたりして回転速度が違っているのを見せた段階で、最後の実験で示そうとしたことは、余すことなく示されている。つまり、最初の画像をのぞいて、番組中に科学的な意味での新たな発見や知識、そして科学的な感動はいっさいない。
では、残りの時間で行われていることは何だったかといえば、ディレクターの頭の中にあった、科学的には何の価値も付け加えない映像を実現しようとするプロセスの舞台裏である。単に回転体を大きくするために、最初は橋を渡すけれど、その上を人が歩行するのが困難なので、ロープを上るようにする。そこには、なんら科学的な意味はない。それどころか、科学的な意味を減じる道具立てになる。というのは、画像を見た人はわかると思うが、大きな輪を4本のロープで中心からつるような構造を作るのだけれど、その輪はみた感じからすると、鉄のパイプを使っており、それなりの質量がある。このため、人が回転中心に移動しても、輪の部分が存在するために、それほど回転速度があがらない。番組も最後で申し訳のように、同じ時間あたりの回転数が番組も最後で申し訳のように、同じ時間あたりの回転数が5回から9回になったとしているが、この数字には全く意味がない。というのは、モーメントがどのように変化したかと対比して、回転数の変化が初めて意味を持つのであり、単独では「早くなりました」という文言以上の意義が存在しないからである。
こうしてみると、見終わった視聴者の頭の中には、ロープを上ってタイミングを合わせる苦労は残ったとしても、なにがどう早くなるのかといったことは残らないだろうと思う。

個人的には番組のタイトルに「科学」という文字がないのだったら、別に文句を言おうとも思わない。しかし、これを科学番組として放送する態度は許し難いものだと思っている。

3月31日の日経サイエンスのブログによると、ディレクターは、大規模実験を見て「バカなことをやっている」と笑いとばすことを期待しているようだけれども、番組を見ていてでてくるのは失笑もしくは苦笑い、そして、この50年の日本の科学番組のレベルの低下に対する心からの悲しみである。

やってみて考える「たのし科学」から、やってみるけど考えない「大科学実験」、科学はどんどん、自分で考えてやるものでなく、細切れの知識として、眺めるものになっている。日本の平均的科学リテラシーは低下し続けるであろう。
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by zam20f2 | 2011-06-27 22:15 | 文系 | Comments(0)
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