「にじ」のこころざし

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創刊にあたって
藤田 圭雄(編集人)

★プロメテウスが天上の火をぬすんで来てくれた時から、人間の世界には新しい創造の仕事がはじまった。考えること作り出すことが人類の生活を刻々に向上させて行った。神秘と呼ばれ不思議に感じられている自然のとざされた幕を一枚一枚めくり上げ、すべての物の本当の菅あを、この二つの目でしっかりと見とどけるだけではなく、あらゆる精巧な機械の力によってその本質をつかまええ行くのであった。人間が人間であることの誇りも喜びも、それは科学的ないとなみの上に立ってはっきりと考えられることではないだろうか。
★この雑誌は、少年少女諸君に、科学的な知識をあたえるだけの目的でつくられているのではない。単に科学の専門的な知識を求めようとするのならば、それはそれぞれの部門の系統たった深い研究書が沢山にあるだろう。この雑誌でも次号から、そうしたそれぞれの道に進もうと志す人々への、良い道案内の本を紹介して行きたいと思っている。しかしこの雑誌はそれよりももっと幅の広い別の使命を持っている。それは諸君の科学への志諸君の科学の勉強への正しい心がまえと、にごらない瞳の輝きをあたえることである。文学に志す人も、音楽を一生の仕事と考える人も、その人が文化人として、人類の進歩のために少しでも役立とうと考えるならば,知っていなければならぬ事実とその考え方のすじ道をはっきりとしめそうというのがわれわれのこの仕事の根本的な希望であり努力である。
★科学は近よりにくいものでもないし、わからないものでもない。しかし求めようとしなかったり、わかろうと努力しない人のためには全くの他人である。科学的な真理を、やさしく面白く解説する-ということがよく言われる。しかしそんなことは出来ることではない。ルールを知らないで野球を見ているようなもので、いつまでたっても本当の面白さもたのしさもわいては来ない。まず諸君はルールを覚える努力をすべきである。ルールをしっかりと覚え込めば、それから先のたのしみは無限に広い。この雑誌は諸君にはむずかしく感じられるかもしれない。しかしこれは科学への道に入って行くためのルールである。日本を代表する世界的にも立派な科学者の方々が、誰にでもよくわかる言葉で諸君に話しかけている。しかし決して面白おかしくしようとしたり、むずかしい点をぼやかしたりはしていない。
★まちがった政治のおかげでどん底に沈み込んだこの国を美しく輝かしい国にもり上げて行かなくてはならぬ諸君は、科学的な正しさで常に澄み切った頭をしていなくてはいけない。この雑誌は科学ずきの少年少女諸君だけのものではない。あらゆる分野に進んで行こうと志す、すべての人々の毎月毎月の良い友だちでありたいと思う。
★少年少女諸君に喜びとたのしさを贈り、豊かな明るい心をやしなう雑誌「赤とんぼ」とともにあわせて読んでほしい。政治家が政治のことだけより知らなかったり、文学者が文学以外に無関心だったり、世の中のことを何にも知らない科学者を大学者のように思ってありがたがったり、そういう片輪の人間が出来るところに国の不幸が生まれる。
★「赤とんぼ」と同様、この雑誌も諸君の雑誌だ。希望があったら遠慮なくどしどしと言ってほしい。諸君のまじめな研究のためにはいくらでも頁をさこう。そして諸君と共にこの雑誌を育てて行きたい。

創刊号の編集後記は編集人の藤田圭雄(たまお)によるものだ。彼は早稲田の独文出の編集者・児童文学作家で、意表をついたところでは、レオ・レオーニの「あおくんときいろちゃん」の訳者でもある。
編集後記を読むと、その志と方向性に驚かされる。彼は、この雑誌を単に知識を与えるものではなく、考え方やそのルールを身につけるものとしており、そのために、読者に努力をする要求もしている。藤田がこのような考えを抱くようになったのは、おそらく中谷宇吉郎などの影響があるのだろうと思うのだろうけれども、それにしても文系の人が、ここまできっちりと科学することを示しているのには、驚かされるのである。
創刊号の記事は中谷宇吉郎の「虹」の他に、矢野健太郎の「図形の話」(目次や本文表題は円形の話となっているが、これは第2号でお詫びとともに訂正されている)、「宇宙のつりあい」(鈴木敬信)「オモチャの材料に空カンを」(山村弘)、「時速3000キロ」(葉山俊)、5分でできるカンズメボイラー(大窪譲)などがある。
矢野の図形の話は、科学の知識というよりは、幾何学の話であり、創刊号では終わらずにその後も連載されている。個別の科学知識よりも、それを理解するためのルールになることをきちんと伝えようとする意図が感じられる連載である。また「宇宙のつりあい」にしても、宇宙の歴史とこれからに関する子どもたちの議論に関する意見を求められた伯父さんが子ども相手に会話をする話なのだけれど、知識を一方的に伝えるのではなく、「事実に基づかない議論は意味がないといった」考え方に関する話を交えて文章が進行していく。
藤田は、にじの想定読者は小学校5・6年以上としている(これは翌年2月号の編集後記に記されている)。その上で、きちんとした専門家が読者にでも分かる学術用語ではない平易な言葉を使って、すぐには理解できないかもしれない概念や考え方を伝えることを意図している。たとえば、宇宙のつりあいの著者の鈴木にしても(中谷と矢野については、改めて紹介する必要すらないだろうと思う)、東大理学部出身の天文学者で、国立科学博物館・海軍水路部などをへて後に東京学芸大学教授になっている。他の著者については、きちんと調べていないけれど、このような、コラム的な記事も専門家が書いているところからすると、基本的にはその道のプロフェッショナルが記事を書いていると思ってよいと思う。もちろん、専門家だからと言って、書いてあることがすべて正しいとは限らない。また上記の鈴木の記事でも現在の知識からみればおかしい点もあるように思える。しかしながら、専門家が少年少女向けに中間ライターによる水増しなしに、考え方も含めて科学記事を書いているのはとても凄いことだ。藤田は、科学の成果を消費するだけの人ではなく、科学を作っていく人を育てることを明確に意識している。

目の前の物事に対して、自分の持っている「科学」的な事柄を当てはめて使うためには、何らかのレベルまでは、その事象を統一性をもって論理的に理解している必要がある。それが藤田の記すルールだ。とりあえず、全部は理解できなかったとしても、すごいことがあるという認識は、より広い世界があることを人に伝え、先へ進んで行く事へとつながる。逆に、物事を正確さを代償にして、易しくし、その場で分かったような気分になるような教え方をすることは、人をその地点に立ち止まることで満足させ、深い理解への妨げになる。これは、決して子ども相手だけの話ではなく、大学における物理教育を扱った「科学をどう教えるか」(丸善)の中にも、「授業を「おもしろおかしく」することは学生の学習意欲を駆り立てることには必ずしもならない。実際そんなことをしても学生たちの心に、授業をテレビ番組と同じような、考える必要のないものと見なす思い込みを受け付けてしまう可能性がある。」と記されている。「大科学実験」のような科学のエンターテイメント化も同じで、科学の消費者を育てることはあっても、作り出すことに人を向かわせることはできない。

一方で、藤田はある特定の分野のみに偏ることを戒めていて、「にじ」の読者に対しても少年少女向けの文学雑誌の「赤とんぼ」の購読を勧めている。確かにそこには、営業的な配慮がないとは言えないかもしれないけれど、その後の号の編集後記でも、科学や工学の分野の中に限っても、その一部に偏るべきでないことは記してある。その背景には第2次世界大戦の後で、健全な人を育てることに対する強い意志が感じられる。

にじは昭和22年の10月に創刊されたものの残念ながら翌23年の12月で終わった。後継雑誌として「科学少年」が翌年1月から始まったが、それは(おそらくは藤田の実業之日本退社と同時に)その年の3月に終了している。昭和22年には2号しか出ていないので、全部で14冊、後継雑誌を入れても20冊に満たない短命な雑誌だった。しかし「まず、きちんとしたルールを学べ、それには努力が必要だ」という藤田からのメッセージは今でもとても重要だ。

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by ZAM20F2 | 2012-08-04 08:13 | 文系 | Comments(0)
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