CASEと現実の間(1)

何度か採り上げたことのあるCASEは、ピアジェの説に基づいて科学的な認知方法の習得を加速するプログラムだ。修得を加速するとなると、極東の島国では必要な知識を教え込むような方向になりそうだけれど、CASEでは生徒間の議論による葛藤と、オープンエンド(ある結論に収束して終わるような形態でない)という特徴がある。

CASEのやり方を極東の島国にある「仮説実験授業」と比べてみると、生徒間の議論による葛藤という点は類似しているけれど、実験の前に仮説をもうけていないことや、ある結論にいたって大団円にしないあたりに違いがある。これは、仮説実験授業が概念を学ばせようとしているのに対して、CASEは方法を習得させようとしているところからくる違いかもしれない。

この前、見学したCASEの授業はFair Testの項目で、プラスチックと金属製の筒(長さ3種類、太さ3種類)が用意されていて、その一方の口を手のひらで叩いた時の音が何によって定まるかを実験で確かめるという内容だ。実験では一度に2つの筒しか持ってこられないという制限が課されている。で、4回ほどの試行を行った後に(結果は配布された紙の表の中にまとめる。まとめ方は、どの条件を変えたかと、結果がどうだったか示すようになっている)、「長さが音の高さにどのように影響するかを明らかにしているペアはありますか」といった質問に対応する試行があったかなどを考えていく。実験事実としては、パイプの長さのみが音程に影響することを見いだすわけだけれども、それより、複数の変数の中で1組のみを変化させないと正しい比較ができないことを体験するような作りになっている。ただし、シート自体には、変数を1組のみ変えるべきということは明示的には示されておらず、あくまでも学習者が論理的に判断して理解する作りになっている。また、最終的に「一変数のみを変化させる」などという結論はなく、やりっ放しという印象の終わり方になる。

さて、今回の授業を見て意外だったのは、試行にあたって、ほとんどすべての生徒さんが一変数しか違わない(例えば、材料と長さは同じで太さだけ違う)ペアを持ってきて比較を行っていたこと。つまり、この時間に学ぶことが想定されている内容が既に身についていたのだ。

それを意外だと感じたのは、もう少し年を取った人々が実験をする際に、一変数しか変えずに実験をするという概念が必ずしも身についていない例をある頻度で見ているからだ。北緯38.1度の街で、「物理スイート」の発表をしていた人から、このあたりの事情について「極東の島国では小学校5年生で、実験条件の統制に関する内容を扱っているけれども、振り子の授業の中で、明示的に扱われていないので、必ずしも身についていないようだ」というような話を聞いて、CASE的なことをやる必要があると再確認した気になっていた。

今回見学した場所の対岸の島でCASEをやっている人に聞いてみたら、そこではCASEを小学校でやっているけれど、今回見た課題に関しては、6年生で比較時には1組の変数のみを変えることが認識されているという。そうしてみると、極東の島国の理科教育も捨てたものではないかもしれない。

というわけで、結論としてはCASEにより深い認知は可能かもしれないが、極東の島国の理科教育も捨てた物ではないと話が続きそうな感じになっているのだけれど、実はここまでが話の前置きである。その後に見学した課題研究発表でどんでん返しが待っていたのである。

課題研究発表を行ったのは、CASEの授業を受けてきたはずの生徒さんである。それにも係わらず、多くの発表で、実験条件の統制がされていなかった。それを目の当たりにした瞬間に、より一般的な話として、実験条件の統制ができない人は実験条件の統制という概念を知らないのではなく、知ってはいるけれどもそれを直面する問題に当てはめられないのだろうと思い当たった。

科学的方法ではなく知識に関しては、習ったはずのことが実際に使えないという批判は多くなされているように認識している。それは、知識を活用する方法が身についていないためと理解されていて、だから考えることを学ばせる教育が必要であるという流れになっていたように理解している。教育の専門家ではないので、間違いはあるかもしれないけれど、報道などを通して伝わってくる話はこんな感じであり、そのために実験などを増やして自分の手で経験して考える機会をという話になっていたと思っていた。しかし、今回の経験は私に関する限りこの信仰を打ち砕いてしまった。実験や議論などを通して修得したはずの方法論だって、使えるような形で定着しないのだ。

CASEにしても仮説実験にしても、授業で行う以上は、整理された状態で一つの問題を浮き立たせるような形で生徒さんに呈示せざるを得ない。そうじゃないと限られた授業時間中では、ターゲットを絞れずに混沌の中に授業が終わってしまう。一方、実際の研究では整理されていない状況を科学的方法論が適用出来るように整理する必要がある。いや、それ以前に目の前にある事柄から、何が当面の議論に関係のある意味のある事柄であるのかを抽出しておく必要がある。

課題研究をやった高校生さん達は、混沌とした状況から必要な情報を抽出して整理する能力に問題がある可能性が高い。この点は、授業で習う知識が条件が明示的に示されて機械的に公式等を当てはめればよい状況(ペーパーテスト)では使えるけれど、違う文脈の中で出てくると使えないというのと同じ点が問題になっている。

繰り返しになるけれども、知識にしても考えるための方法にしても、それを修得したあとに、新しい状況下でそれを使うためには、その時に対峙している外界を知識や方法が使えるような枠組みで切り取るかという、まったく異なった種類の能力が要求されているのだろうと推測される。
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by ZAM20F2 | 2012-10-28 17:50 | 文系 | Comments(0)
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