CASEと現実の間(2)

世界をどのように切り取って整理するかは、いわゆる「フレーム問題」に関連する能力だろうと思う。私の理解の範囲で簡単に言うなら、見えている世界から、当面の事に関係のある事柄とない事柄を振り分け、関係のある事柄をある枠組みの中で理解するプロセスの話だ。こうなると、話は科学教育なんかの分野を超えて人間の発達過程で、世界認識をどのように得られるのかという問題になってしまう。科学は人間の営みの一つである以上は、これは、当然の成り行きではあるのだけれども、問題としては非常に難解なものになってしまう。

人が世界を見る枠組みについては、これまでは知識の習得により枠組みが得られるということが、それなりに信じられていたような気がする。出典は定かではないが、物理の問題を解くのに、初心者は運動方程式などの個々の法則を使おうとするのに対して物理学者などの習熟者はエネルギー保存則などから問題を考えるようになるという話がある。また、学習が進むにつれて、問題を解くのに対してよけいな事を考えなくなるとも言う。

この話は調査結果であるので、事実であろうとは思う。しかし、この結果から「物理の知識を学ぶ事により理解の枠組みが形作られる」という結論は出せない。というのは、同じような物理教育を受けても、同じ枠組みでは考えられない人もいるからだ。おそらく、実際に起こっていることは「物理的な考えの枠組みを(物理を習う以前に)持っている人が物理学者として残っていく」ことではないかと思う。

空気中でボールを落とした時に、風切り音などを無視して真空中の落下を見られる人だけが物理学者になれるのであって、それ以外のことに目が向いてしまう人は、物理学者にはならない。こんな事を書くと、ボールを見るのは自明の事だという反論がでてくるかもしれないけれど、それは決して自明ではない。

前に取り上げた自閉症の東山さんの本を読むと、彼にとって、すべての音は等価であり、ある特定の音声が自分に向かって話しかけられていると『普通』の人が理解できるのかが分からないという。たしかテンプル・グランディンの「動物感覚」の中にも、目で見たものが等価に頭に飛び込んでくるという記述があった。特定の物に無意識にでも注意を向けるというのは脳の機能の一であり、決して自明な物ではない。

そしてまた、ボールに着目できても、その後の理解の枠組みが違っていると物理学者にはならない。そしてまた、異なった枠組みで世界を見ていることを相互に認識するのはとてつもなく困難である。何しろ、それは、ユークリッド幾何学の世界の住人と非ユークリッド幾何学の世界の住人の対話のような物であるのだから。

ユークリッド幾何学の世界の住人と、正の非ユークリッド幾何学の世界の住人との対話で、お互いに他の公理系があるとは思っていないものとしよう。彼らが三角形の内角の和を測定して180度を超えた場合に、ユークリッド幾何学の世界の人は測定に問題があると判断する。一方で、非ユークリッド世界の人は、世界の曲率が測定されたと判断する。両者の言っていることは合致せず、相互理解は不可能だし、前提としている公理に違いがあることを認識しない限りは、論理展開により合意に至ることは不可能である。

ユークリッドと非ユークリッド世界では、数少ない公理の一つが違っているだけだから、議論により公理の相違点に行き着くこともできるかもしれない。しかし、現実世界を区切る体系は、より多くの公理のようなものから成立しており、また相違も複数箇所あるだろうから、それを明らかにしていくことは非常に困難であろうと思う。

平均から大きく外れた人では、普通の人との間の公理体系の違いが大きいために、食い違いが目立つこともあるように思うけれども、普通の人の間にも公理体系の違いは存在すると考えるべきである。個々の人間は、物事を理解するために、その人固有の枠組み(μパラダイムとでもいうべき)を持っている。そして、そのμパラダイムの凸凹から、ある人はボールの落下をみて物理学者になり、別の人は詩人になる。

ここで、驚くべき事は、人の数だけμパラダイムがあるにも関わらず、多くの人は程度は別として相互に理解した気になっている。これには2つの理由があると思われる。一点目はハードウェア制約により相互のμパラダイムに共通点が多いこと。これはチョムスキーの生成文法の言い換えだけれども、思考の形式枠のある部分は生得的なもので脳のハードウェア構造から定まっているので、人の間で共通しているという考え方だ。もう一つは言語が中間翻訳機能を持っているため。たとえば、物理に関する英語で書かれた本を日本語に翻訳したのを読んでも物理の内容を理解できるが、これは、言語が、ある概念を運ぶコンテナの役割を果たしているためである。もちろん、言語の伝達は不十分なので誤解が生じることも多々あるけれども、それでも多くの場合は曖昧さも含めて内容の伝達が行われていく。

μパラダイムも、クーンの言うパラダイムのように、不変のものではなく、あるタイミングで転換が起こる。非常に大きな転換が起こると、悟りが開けたりするし、それほど大きくないと目から鱗が落ちたりする。μパラダイムの転換にともない、自己の経験の持っている意味合いも、時間をさかのぼって変化する。これは、ディケンズのクリスマスキャロルでスクルージが体験したことである。逆に、大きな体験をしても、自己の経験の意味をさかのぼって再形成することがないのなら、その体験は、その後の生き方に影響を及ぼすことはあっても、即時的な悟りは引き起こさない。

話をそらしてしまったけれど、科学的な事柄を扱う場合に限定して話を進めるなら、μパラダイムは階層構造を持ったものであり、より上位のμパラダイムの中に、複数の小さなμパラダイムが存在しているように思う。

話をさらに元に戻すと、実験条件の統制などを目の前の現象に当てはめるためには、目の前の現象を、妥当なμパラダイムの元で取り扱わなければならない。そのためには、まずは目の前の現象を説明できるμパラダイムを見つけ出さなければならない、しかし、それは、フレーム問題に属するようなことで、μパラダイムを見いだすための一般戦略は(おそらくは)存在しない。ただ、認知科学の本などを斜め読みした限りでは、人は、いくつかの戦略で、μパラダイムを順繰りに適用して、使えそうなものを無意識のうちに探しているような印象がある。ここまでの話は「外界を知識や方法が使えるような枠組みで切り取るかという、まったく異なった種類の能力」をμパラダイムという言葉で置き換えただけという印象のものになっているけれども、μパラダイムという考え方の引き出しと、それが階層構造にあると考えると、引き出しの数を増やして整理するための方策ということについては、少しは戦略を立てやすくなるのではないかと思う。
(この項、次は少しあきそう)
[PR]
by ZAM20F2 | 2012-10-30 07:26 | 文系 | Comments(0)
<< comment on CASE... CASEと現実の間(1) >>