comment on CASEと現実の間

知り合いの方から「CASEと現実の間」についてのコメントを頂いた。コメント欄は字数制限で入らなかったそうなので、こちらに上げることした

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大変興味深く拝見しております。当方もこの問題を考えていますので,言葉が通じるか不安なのですけれども,思うところをコメントさせていただきます。

>実験条件の統制ができない人は実験条件の統制という概念を知らないのではなく、知ってはいるけれどもそれを直面する問題に当てはめられないのだろうと思い当たった。
>実験や議論などを通して修得したはずの方法論だって、使えるような形で定着しないのだ。

「実験」でも「授業」でも生徒さんが能動的に行うのであれば,使えるような形で定着し,生徒さんが「やらされている」という気分で内容をトレースしていくのであれば,使えるような知識で定着しないのではないかと当方は考えています。つまり,「実験」という概念は教師の立場からは,「生徒さんが主体的に取り組み自然界の法則性を体験によって抽出して理解する」というようなものと想定しているのだけれども,それは生徒さんが興味をもって主体的に取り組んだ場合にだけ言えることで,「実験をやれと言われたからやった」という生徒さんには,「一方的に話を聞かされる授業」と変わりがないのだろうと思います。

パソコントラブルに見舞われたとき,自分で解決しようと努力する人と,そのような努力を一切せずに周りに聞いて解決する人がいる。前者は種々のトラブルに対処できるような人に成長していき,後者は周囲に迷惑をかけ続ける人であり続ける。前者は自分で対応できることが大事だと思っているフシがあり,後者は目の前の不快を取り除くことが第一優先と思っているフシがある。

オリエンタルライスという謎のおいしい料理がでてきた。これを自宅でも食べたいと思いながら平らげる。このときにも二種類の人間がいて,前者は材料を観察して記憶しながら味わい,食べ終わる頃には自分なりの作り方を完成させている。後者は無心に食べ,レシピを入手してその通りに作ることしか考えない。

運良くレシピを入手できた場合,前者はそのレシピを何度か読んでイメージを作り上げ,あとはレシピを閉じて調理する。後者はレシピの通りに計量してレシピに書いてあるような手順で作る。前者は,最初は失敗するかもしれないが,数回もしないうちにオリエンタルライスが作れるようになる。後者は何度作ってもレシピがないと何もできない(と思い込んでいる)。前者は完成形のイメージを持っており,観察と味見を繰り返しつつ,そこへ持っていく。後者は出来上がりのイメージがない。順番に混ぜれば自動的にできあがると思っており,観察も味見もしない(フィードバックがかけられない)。

前者のようなタイプ(Aタイプとする)が有機合成のような実験を行うと周到な準備と段取りで効率のよい実験条件の統制がなされた動きをします。後者のような(Bタイプとする)人が同じ実験を行うと,フローチャートの通りに「書いてあること」をやろうとしますが,そこに書かれていない準備や段取り,単位操作のコツがわからずに失敗を繰り返すこととなる。もしBタイプにAタイプと同じレベルの結果を期待するなら,Aタイプには2ページのフローチャートで済むところを,Bタイプには100ページほどの実験解説書-それはガスバーナーの点火方法から説いてある類の-が必要になるかもしれない。

自分の持っている知識や方法や経験を常に何かに適用して世の中を解釈し問題解決を続けるAタイプ人間は,恐らくそのような行為を一種のパズル解きのような感覚で日々行っているのであり,小さな解決にポジティブな感覚を持っていて(つまり脳内で報酬として認識されていて),だからその営為が続くものと思われる。対して問題の切り分けができていないBタイプ人間は,恐らく状況把握や問題の切り分け,そういった高次の活動による問題解決の体験が不足していて達成感の喜び(報酬)を得たいとは脳が認識していないものと推測される。

Aタイプを俗世間の言葉で言うならば能動的・自発的であり,Bタイプは受動的ということになるかもしれません。そしてAタイプにとっては,「授業」でも「実験」でもそこで得られる情報/体験は「実験条件の統制」という課題に対して利用される枠組みの中に位置づけられるのに対し,Bタイプでは「授業」はもとより「実験」であってもそれはやらされるものであって,レシピの通りにオリエンタルライスを作るという行為と大差なく,そこから抽象化した一般的なものを見出そうとする認識にまでは到達せず,「実験条件の統制」に使える知識にまで昇華しない,という気がします。

しかしながらBタイプがある事象に対してAタイプに変化することは当然あり得ることで,そのために何が必要なのかが問題になる。ひとつは上に述べた「報酬」としての認識。これには成功体験が欠かせない。1回の成功でB→Aの変化が起こることはたぶんまれで,繰り返し反復することにより,過去のBタイプの振る舞いが非効率で自分にとって「不快」と認識されたときにAタイプへの変容が起こる気がしています。

ここで大事なことは反復が必要なことです。Aタイプは放っておいても日常生活の中であらゆる事象について問題の切り分けを行っているわけで,もし,Bタイプがそのような行為をあまりしていないと仮定するならば,どう足掻いてもAタイプに追いつくことはない。ので,次々と課題をこなしてもらって,Aタイプ的な行動が少しでも日常に近づくように努力する必要があるように思います。

こういった観点から見ると,CASEはAタイプの振る舞いの重要性を暗示するような教育方法に見えます。仮説実験授業も方向性としては似ていますが,仮説を明示してしまうので,クイズのような意味合いが出てきて,無数のパラメータの中から何と何を固定して何を変数として問題を抽出するか,といった認識をさせるのは難しい気もします。ただCASEも仮説実験授業も,それがうまくいった暁には,解決できた/予想が当たったという喜びが用意されていて,それは脳に報酬として作用するはずなので,科学的方法のセンスを学ぶ教育効果は,ある程度はあるだろうし,反復すれば生徒さんの自発性も伸びてくるだろうと思います。問題は将来科学研究を行うにあたって不自由しない程度のセンスを身に付けるには,どれほどの反復が必要なのか(授業時間内で可能なものなのか?)ということと,その反復を「楽しく」行うためには何が必要なのだろうかということではないかと思います。

与えられた課題に対してはAタイプもBも能力的な差は大きくないように感じています。Bタイプで非常に成績の良い人も多く,大学入試などではむしろ好成績を収めることもあろうかと思います。しかしBタイプは課題が不要になるとそれは自分の問題ではなくなり,得た知識が定着しづらい人もいるかもしれません。大学を卒業したら「もうこれは使わない」と自分が勉強したノートを全て廃棄する人がいますが,こういったタイプの人が重視しているのは,(例えば自動車教習で合格をもらうための)その場限りの記憶で,将来を見据えた長期的な視点という感覚が育っていないように見えます。対してAタイプの人は,自分が勉強してきたことは自分の歴史の一部であって,それを軽々と捨てるようなことはしないように見えます。結果としてAタイプの方がBタイプよりも「新しい状況下で過去の知識や方法を使う」能力が温存されるもののように思います。

「外界を知識や方法が使えるような枠組みで切り取るかという、まったく異なった種類の能力」というのは,教育や心理の専門家ではありませんが,個人的には微妙に『メタ認知』に関連した事柄のように思えます。そうだとすると,これを直接的に伸ばすのはかなり難しいことのように感じられます。ADHD,ADDなどの研究においては,メタ認知に問題がある例が知られていて,脳の機能障害の一種とみなされています。この機能障害がどのようなものかは知りませんが,たぶん1かゼロかというようなものではなく,健常人と機能障害の間は連続的なものだと考えます。東山さんの例をあげておられますが自閉症の場合もメタ認知に問題があることは広く知られていると思います。

メタ認知をうまくまとめたサイトからの引用によれば,『メタ認知能力とは、自分のしていることを客観的に見る力、これは知っているが、これは知らないと両面を見る力、既にある知識と今入ってきた情報がどのような関係にあるか照合したりする能力をいいます。』ということになります。これを伸ばすにはひたすら繰り返しの学習が必要になります。

メタ認知が有効に機能するにはたくさんの情報が記憶されている必要があって,それがどこかで統合されている必要があって,統合には経験が関与しているものと想像されます。もし統合のない離散的な知識がそのまま脳に放り込まれているような状態では新しい場面に対してその関係を照合することができず,メタ認知として機能するようなことがないように思います。暗記が得意で,テストが得意で,大学を卒業したらノートも教科書も廃棄するようなBタイプの人は,知識を経験と絡めて積み上げていくAタイプの人よりも,メタ認知能力が劣っている可能性があると考えます。つまりAタイプはメタ認知を伸ばそうと努力しているのに対して,Bタイプはメタ認知を切り捨てているわけです。そして受験戦争はメタ認知よりもむしろ定型パターンで問題解決をさせることでBタイプの育成を助長しているような匂いがします。

μパラダイムが各個人の経験により統合された知識の一種と考えれば,個人のメタ認知能力と近いものだと思います。そうだとするならば,何らかの繰り返し学習によりメタ認知を育成し,それが本人にとってプラスになるものだとの自覚を持ってもらい,メタ認知型のAタイプ人間を目指すように変容してもらうことが,μパラダイムの引き出しを増やし,新しい場面への適用可能性も増すのではないかと想像します。

そこで大切になってくるのは,自分には不要そうな知識であったとしても,それを経験の何らかの流れの中に組み込んで,離散的なものではない形で格納しておくということかもしれません。そのためには,仕入れた知識を能動的に使うということが必要で,そういった課題(方向性)を与えておくことも効果があるのかもしれません。例えば,きょうの授業で学んだことを利用してジョークを作りなさいなどという課題は,けっこうメタ認知的で,「外界を知識や方法が使える枠組みで切り取る」練習に近い感じもしますし,それでいてウケれば本人にとっては経験+報酬になるので離散的ではない知識として定着することになると思います。

そうやってある種の「流れ」の中で「楽しさ=報酬」を得ながら「経験にからめ取られた知識」を大木として育てていくことでメタ認知も高まり,μパラダイムが豊かになり,「外界を知識や方法が使えるような枠組みで切り取る」という能力も育つ可能性があるのかもしれません。
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by ZAM20F2 | 2012-11-03 19:42 | 文系 | Comments(1)
Commented by ZAM20F2 at 2012-11-03 20:14
コメント有難うございました(普通と逆の状況ですね)。μパラダイムはとりあえずの造語なのですが、メタ認知というよりは、編み目状になった知識の一群というような感じで考えています。メタ認知というと、自己の学習の仕方を認識するといった文脈で使われることが多いように思いますが、そうではなく、例えば、永久機関的なものを見せられた時に、詳細な機構の検討を行おうとするか、熱力学の法則から取り敢えず駄目であると認識するかといったような考え方の違いのやり方といったようなものをイメージしています。
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