CASEと現実の間(メモ1)

先が続かなくなっている「CASEと現実の間」だけれども、頂いたコメントを足掛かりに、部分毎にでも、すこしまとめてみようと思う。

CASEで「実験条件の統制」が定着しなかった件であるけれども、今回も、数年前に同じ授業を見たときも、生徒さんは、楽しんで主体的に授業を受けていた印象がある。そういう意味では、やらされている感はなかったのだkれど、一方で、橋の向こうの島から来た人は、既に概念を獲得としていることについて、改めて授業をやる意味があるのかについて、疑問を感じられていたような印象がある。
というのは、CASEでは(仮説実験でもだけれど)、認知的葛藤を通してものごとを修得していく作りを好んでいる(CASEに関しては跡に出す入力変数のように葛藤がないものがある気がする)。これは、最近の認知科学の流行かもしれないけれど、とにかく認知葛藤によりものごとを深く修得できるという発想が根底にあるように思う。
そういう目で、授業を見てみると、確かに、生徒さんにとっては既知の事柄であり、そこでは認知的葛藤が生じていない。このため、より深く定着することが無かった可能性がある。

ただ、そうなると、「認知的葛藤」とやらが、何故、深い理解を可能にするのかが問題となる。ある事柄を強くすり込ませるためには、インパクトのある体験をさせるのも一つの方法である。例えば、子どもがストーブに抱きついたりしないようにするために、ストーブを(一応はかなり熱い状態にした上で)子どもの手をとって、ストーブに一瞬触らせて、熱くて危険なものであることを認識させると方法がある。大抵は一度の体験で、ストーブには近寄り過ぎないようになるらしいし、また、それ以外の物にも熱いというキーワードで拡張できるようだ。だが、おそらくこの方法は、条件反射的な行動に対しては非常に有効でも、思考が中心となる手法に対してはあまり効力がないような気がする(と記したのは、この問題を解かないと殺されるというような状況に追い込まれたら、大抵の人はものごとを考えようとするだろうと思うからだけれども、そして、それは、ある意味では、現在の入試体制で使われている方法で、それにもかかわらず、コメントで頂いたAタイプが多くならないのは、大学入試がBタイプ的な能力を見るものだからで、大学入試がAタイプを評価する形になると、少なくとも見かけ上のAタイプは増える可能性があるからだけれども…)。

認知的葛藤の話に戻ると、個人的な印象では、認知的葛藤による修得の方が深くなるのは、単純に、そのために必要な時間と、繰り返し数が高くなるためだろうと思う。頂いたコメントにもあるように、ある事柄を定着させるには、繰り返しが必要である。認知的葛藤の手段では、最初の考えを改める過程ですら、一方的に伝えられるよりは長い時間と思考のウネウネを必要とする。
とはいえ、認知的葛藤を使っても、認識率は100%にならないはずだから、決して万能の方法ではない。ところで、100%にならないところは人由来の可能性はあるのだろうか。何を言いたいかというと、認知的葛藤という手法が有効な人と、有効ではない人が存在するかということで、教育学としては平均の人間を対象にすればよいのかもしれないけれど、物を考えることを考えると、平均としての人ではなく、個々の人に考えを巡らせたくなる。

CASEの話にもどると、前にも記したようにCASEはオープンエンドだ。例えば、入力変数を扱う初期の課題では、ジェットコースターの線路のようなレールの上から材質の異なるボールを転がして、下に置いてあるボールに当てる実験をするのだけれど、そこで問われているのは実験の入力変数のみで、ボールの組み合わせ等により結果がどのように違ったかはまったく議論されない。しかもオープンエンドなので、入力変数が、これだけ考えられるっぽいねで終わっていて、認知的葛藤もなければ(多分、人によっては、実験の入力変数ではないものを入力変数として、それがどのように変化するかを突っ込まれるという認知的葛藤があるかもしれない)成功体験もない(これは確実にないと思う)。このため、この入力変数の授業を最初に見たときは、何を意図しているのかまったく分からなかったのだけれど、2年後にこの授業をうけた中学3年生の研究発表を聞いたら「入力変数が++で出力変数が△△」でなどと、しっかりしたものになっていて、その時点ではじめてCASEの意味を認識したのだけれど、それは、おそらく、その後の課題でも、常に入力変数を考えさせるという繰り返し性が聞いているような気がする。
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by ZAM20F2 | 2012-11-04 08:27 | 文系 | Comments(0)
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