ミニミニ授業書《ミニ授業書 虹は七色か六色か 真理と教育の問題を考える》を考える

はしがき
「虹は七色か六色か」は仮説社から出ている板倉聖宣さんの本で、しばらく絶版になっていて古本の価格が定価の3倍以上になっていたので入手を断念していたのですが、最近になって復刊されたので入手して目を通してみました。この本には「真理と教育の問題を考える」という大仰な副題がついていますが、確かに、色々と考えさせる本です。そしてまた、この本で使われている「ミニ授業書」というスタイルが結構面白いので、自分でもまねをしてみたくなりました。ではその題材として何を取り上げようかと考えたときに、この色々と考えさせる本を取り上げたら面白いだろうと気がつきました。というわけで、ミニミニ授業書「《ミニ授業書 虹は七色か六色か 真理と教育の問題を考える》を考える」の始まりです。

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[問題1]
唐突な質問ですが、あなたはすべての虹が、おんなじ形で同じ色をしていると思いますか。何も難しい事を聞いているのではありません。「今まで見た虹を思い出して、いろんな色が同じように見えたかを考えてご覧」と聞かれたら、どう答えるかというものです。
答え
ア.虹の色はすべての虹でおんなじ幅で同じ色
イ.そう言われると、今まで見た虹の色は違っているかもしれない
ウ.虹に色は虹毎に微妙に違っていて、一つじゃない
エ.その他


[虹の色は虹毎に違う]
いきなりこんな質問をしたのには、事情があります。よく、虹は水滴による反射と屈折により出現すると言われますが、それだけでは、虹のすべてを説明することはできず、1800年代前半にはすでに光の波動性を考えた理論がエアリーによって提出され、同じく1900年頃には2人の日本人の学者、愛知敬一と田中館寅士郎もこの問題をあつかった論文を記しています。ちなみに、田中館は寺田寅彦と東京大学の同級生であったことが、板倉氏も執筆に加わった「長岡半太郎伝」に記されていることが西條敏美さんの「虹」という本に紹介されています。
虹が反射屈折だけの作用では説明できないことは、戦後すぐに子ども向けの科学雑誌「虹」の創刊号で中谷宇吉郎博士が詳しく説明されていて、その中で中谷博士は「『虹は水滴の反射屈折によるスペクトルさようさ』と言って、それ以上実際の虹を見ない人がある。そういう人には虹の美しさは分からない。学問によって目をあけてもらうかわりに、学問によって眼をつぶされた人である。」と記しています。なお、西條さんの本は水滴の大きさと虹の色調の関係がより詳しく書いてあり、「水滴の大きさが1~2ミリメートル程度の場合には、紫や緑がはっきり現れ、赤も見えるが青はほとんど見られない。水滴が小さくなるにつれて赤の色は薄くなり、0.2~0.3ミリメートル程度の大きさになると赤は見えなくなってしまう。」という記述があります。
虹を作る水滴の大きさは、時々で違いますから、虹の色は虹毎に違っていてかまいません。それどころか、一本の虹でも場所によって色調が変わっていることもあるのです。ですから、科学的には虹の色を定まった物として扱ってはいけません。
とは言え、主虹は外側が赤色で、内側が紫系統の色になることに代わりはありませんし、異なった色が見えるので、虹の色を複数の色で表現することが行われるようになります。この問題に関して、日本では普通は7色というのに対して米国では6色であるということを何人かの人が本に書いたのを取り上げて、板倉氏が科学的な批判を加えたのが、ここで取り上げる授業書の内容です。

板倉氏によると、「この問題を本で取り上げた4人の人々は『<虹は七色>という日本人の常識は、間違っているかもしれない』とは、一度も考えなかったようです。」とのことです。

[問題2]
板倉氏は上のように断言していますが、きちんとものごとを考えるのには、板倉氏の取り上げた本にきちんとあたって確認する必要があります。調べてみると何が分かるでしょうか。
予想
ア.4人の本を読んだ板倉氏が言っているのだから、取り上げられた人は日本人の常識を疑ったことがない。
イ.4人の本を読むと、中には日本の常識を疑うようなことを書いている人もいるけれど、本人は常識を信じているように見える。
ウ.4人の本を読むと、中には日本の常識を疑うようなことを書いていて、本人も7色が科学的事実とは考えていないひとがいる。
エ.その他


[4人の学者は科学的事実と色の問題を分けていた]
板倉氏に取り上げられている桜井博士の本を読むと、「ところが、虹の場合には、よほど注意しても、7色あるように見えないのが普通である。-中略- 私もアメリカに長く滞在するようになる以前には「虹は7色」として、全然この「事実」を怪しんでもいなかった。」と記していますし、また議論の後半の方で、スペクトルを7色に分けるのはニュートンに始まったことを記した上で、「ニュートンの光の研究は、歴史上、たいへん有名だが、この太陽光のスペクトル(スペクトルが7色であること)についてだけは、あんまり信用をおくのは正しくないのである。」と記しています。また、鈴木氏も「しかし実際に虹が出たときに数えてみて、確かに7色あることを自分で確認した人は、以外に少ないのではないだろうか。五つ六つまでは数えられても、よほど条件がよくないと、七つまで見分けることは、なかなか出来ない物だ。」と記していますし、その後には「しkさい考えて見れば虹とは 中略 あるから、波長の長い赤から最も短い紫まで、波長が少しずつ異なる、従って色の違う光線が、連続的に展開しているはずである。だから、よく見れば、赤とされる部分でも、初めと終わりでは色調がかなりへんかしているし、次の橙に写る所に明確な区切り協会がみえるわけでもない。中略、しかし、虹という対称それ自体が、客観的に7つの分分よりなるわけではないのだから 後略」と記しています。また、日高博士も「そもそも虹の色などという物は連続しているのだから、どこで区切ろうと勝手なのだ。」と記していますし、村上博士も「学問的に厳密に言えば、7色というものは正確ではなく、基本的には12色の色名が規格化されているのでしょうし、色相表ともなれば、もっともっと多くなりましょう。」と記しています。4人の著者とも日本の7色が科学的に正しいとは考えていないことが明確に判断出来ます。

板倉氏は本の中で、4人の学者が「日本では虹は7色」というのは疑うことのない事実であると考えて議論をしているように話をすすめていますが、もとの本を見れば容易に確かめられるように、これは、明らかに事実とは異なっています。
[問題3]
それでは、何故、板倉氏は4人の学者の言っていることを、間違った形で自分の本の中で記したのでしょうか。

予測
ア.板倉氏は日本語の読解力がないので、4人の書いていることをきちんと理解出来なかった。
イ.板倉氏は4人の本をきちんと読まずに「米国では虹が6色で日本では7色」と書いてある文だけをよんで、それで4人の書いていることを理解した気になっていた。
ウ.板倉氏は4人の本を一応は読んだのだけれども、自分の考えにとらわれていたので4人の書いたことを間違って理解してしまった。
エ.板倉氏は4人の書いたことをきちんと理解したが、その通りに書くと、自分の議論がうまくいかなくなるので、あえて、4人の書いたことをねじ曲げて自分の本で紹介した。
ア.その他
(2つを選んでもかまいません)

[板倉氏の議論は論理性がない]
板倉氏は、4人の話を取り上げた上で、虹の色が6色か7色かは文化的な問題ではなく科学的な問題であると議論を進めていこうとします。そして、4人の議論をねじ曲げて紹介したうえで、4人が「虹が6色が正しい」と考えなかったのは、日本人の主体性が確立したためと考えられるかと議論を展開します。
しかし、上に記したように、4人は6色か7色かのどちらが正しいというわけではないと記していますし、日高博士は「彼(ベルギー人)は虹は五色だと答えたのである。『ロート、オランへ、ヘルプ、フルーン、ブラーウ。この5つですよ』。珍しく彼は母語のオランダ語で答えたが」と、国によってはさらに色数が違うことを紹介していますし、鈴木氏も色々な国で、虹の色調が2から様々な数となることを記しています。こうしてみると、板倉氏が何を問題にして何を議論したいのかが分からなくなるのですが、板倉氏は、上記の4人が、米国では虹が6色とされているのを知っても、それに追従することなく、日本の虹が7色が間違っていると考えなかったのは、日本が経済成長して自信ができたので、アメリカ人とは違った考えをするようになったという根拠のない説明で総括しています。
その議論の流れの中で、板倉氏は日高博士の書いていることを取り上げて「<虹の色に関するかぎりは、日本語が世界一こまやかだ>ということを暗に認めているようにも見えます。」と記しています。そしてその後で、逆接続詞をもちいることなく、「<前略 7色説と6色説のどちらかがすぐれているとはいえない>というのが、日高さんの意見なのです。」続けているのですが、これは、文章の論理構造としては、きわめておかしい物で、逆接続詞が存在しないことにより、前半の日高博士が日本語が虹の色調表現ですぐれていると考えているような印象を読者に残す構造になっています。
ところで、ここで記した人々は、板倉氏の主張を読む限りは米国では虹は6色であるとのみ記している事になっていますが、本当にそうでしょうか。

[問題4]
国によって虹の色数は一通りに決まっているでしょうか。それとも複数の数が考えられているでしょうか。
ア.米国なら6色というように国によって一つに決まっている。
イ.米国の中にも6色以外に色数だと思っているひとがいる。
ウ.そもそも、そんなことにあんまり興味を持っていない。
エ.その他

[アメリカでも百科事典では虹は7色]
板倉氏の本を読んだあとで、アメリカでの虹の色数をしらべたくなって、Wikipediaの英語版をみたところ、虹は7色であるという記述がありました。これだけだと、板倉氏から「Wikipediaのようにどこの馬の骨が書いたかわからないものに真実がかいてあるわけがない」と言われてしまいそうなのですが、板倉氏が紹介してくれた鈴木氏の本の中にはYoung People's Science Encyclopediaという百科事典の中では、虹は7色として記されていると紹介されています。その一方で、昔話の採取を行う民俗学者は虹は6色としていることから、民衆レベルと知識階層レベルでの虹の色数に国の中でも違いがあることが紹介されています。鈴木氏の本には、米国・英国以外でも虹の数がどのように考えられていたかの調査結果があり、国によっては5つだったりなどの結果が紹介されています。そして、その一方で科学の現場では7色として扱われることが多いことも紹介して、それがニュートンの光学由来であることも示しています。
板倉氏は、アメリカでも昔のある時期は虹が7色とされていて、それが教科書が6色に変わって、今では6色になったかの用に記していますが、鈴木氏の本などからは、民衆レベルでは、虹は6色と思われていて、それが教科書とはずれていたのが、ある時期に教科書をかえるようになったけれども、厳密な記載を求められるところでは、いまでも7色となっているというのが実情ではないかと思います。
[問題5]
上記のように、米国でも虹の色については複数の知見があるにもかかわらず、なんで板倉氏はある時期に米国の虹の数が7色から6色になったのが事実であるように記しているのでしょうか。
ア.板倉氏は教科書に書いてあることが真実のすべてだと思っているので、他の資料をしらべる必要がないと考えているから。
イ.板倉氏は鈴木氏の本から百科事典では7色という話もしっているけれど、百科事典の改訂には時間がかかるので、古い情報が残っていると考えたから。
ウ.板倉氏は鈴木氏の本を真面目によまなかったので、百科事典のことは気がつかなかったから。
エ.板倉氏は鈴木氏の本から百科事典では7色という話もしっているけれど、それを書くと自分の議論が危うくなるから、それをないことにした。
オ.その他

[教育に押しつけがはいる場面]
板倉氏は1941年のパーカー先生の本に虹が6色と書かれているのが切っ掛けで教科書で虹が6色と書かれるようになったと記しています。パーカー先生の本の虹の絵は板倉氏の本の表紙に使われていますが、裏表紙にはプリズムによる分光の図が使われています。
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この図を見ると、スペクトルが等間隔に7つに分離されています。そして上から2番目が、問題になっている藍色の所です。この領域について板倉氏はパーカー先生が「ときには、indigoが虹の色の一つとしてあげられることがあります。indigoというのは、赤みがかった青です。あなたが特に<青と藍の両方の名を挙げたい>というのでなければ、両方の名を挙げる必要はありません」と記しているそうです。それを受けて板倉氏は「『その色はほとんど見えないから、挙げる必要がない』としているのです」としています。この2つの言明の間には大きな違いがあります。パーカー先生の言っていることは藍を色調として認識しづらいなら、省いてもよいということで、逆に藍を色調として認識できるなら入れてよいと言うことです。いっぽうで板倉氏は「ほとんど見えない」と勝手な解釈を加えて、藍色の存在を抹殺しています。上のスペクトル図について、パーカー先生は、紫と青の間が区別がつきにくかったら省いてよいよと言っているのに対して、板倉氏は紫と青の間は光が来ない暗いような状況で色は見えないと理解されるようなことを言い放っているのです。べつの言い方をすると、パーカー先生は(たとえば文化的理由で、藍という色調に馴染みがなく)藍と青を区別できないなら藍は省いてもよいと理解できることを言っていますが、板倉氏は藍色は物理的に存在しないから入れるべきでないと主張しているわけです。
パーカー先生がスペクトル色と虹の色を比べている点は、最初にも書きましたように、虹はスペクトル色ではないので、科学的に完全な間違いです。しかし、板倉氏はこの科学的な間違いに頼って、自分の経験を正当化しようとしているわけです。
こうしてみると、板倉氏は権威主義を否定しながら、自ら米国の権威に頼って、科学的に正しくないことを、科学的真理として主張して、その上で、色調の見え方は変化があることをきちんと理解している4人の人々に対して、ねじ曲げた取り上げ方をして自分の本の中でけなしているわけです。

板倉氏は虹の色について覚え方があるのは、実際に7色が見えないからだと主張しています。そして、本物の虹を見て「<赤・黄・青>の3原色に前後の色の合成色を入れて<赤(橙)黄(緑)青(紫)>と理解すれば良いのです」と記しています。虹はその背景の色が吸収されて出ている色ではなく、発光体として扱われるべきものですから、3原色としては加色混合のものを用いなければならないはずです。つまり3原色は赤・黄・青ではなく、赤・緑・青です。

[問題6]
では、なぜ板倉氏は3原色として赤・緑・青ではなく、赤・黄・青を使ったのでしょうか。

予想
ア.加色と減色の3減色をちゃんと理解していないので、間違ってしまった。
イ.正しい3原色を使うと、中間色が赤(黄)緑(青緑)青(紫)となってしまい都合が悪いので、読者にはばれないだろうとおもって、都合のよい3原色を使うことにした。
エ.その他

ちなみに、虹は正しくはスペクトル色ではありませんが、板倉氏の理解の範囲では、スペクトル色で、その場合には、中間の色は合成色ではなくスペクトル純色となりますので、上記の前後の合成色を入れてというのも科学的に間違った言明です。

それにしても、虹は6色でも7色でも良いよというのに対して、科学的に虹は6色であるというのは、科学的に間違ったことを押しつける行為です。つまり、この本を通して、間違った知識が押しつけられる過程を目の当たりにすることができるわけです。

この本の巧みなことは、人の言っていることの一部だけを取り上げて、それを一方的に否定して、他の権威を使って、自分の経験を正当化かつ一般化していく過程にあります。もっとも、このような方向の議論は、この本に限らず、最近の社会に関する規制緩和といった話題でもよく使われているように思います。社会の話になると色々と調べないと分からないこともありますが、この本で取り上げられている限られた科学の話題は比較的簡単に背景を調べることができます。そういう意味では、自分の頭でものごとを考える切っ掛けになる本として価値があるのではないかと思います。
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by ZAM20F2 | 2012-11-11 10:25 | 文系 | Comments(0)
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