理科系と文科系における仮説の意味合いの違いについて

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本屋でたまたま目について買い物かごに放り込んだ本。本屋にいくとこの手のことは結構ある。特に歩いて行けるところの本屋は文系の本の奥に喫茶コーナーがあるので、コーヒーを飲みに行くついでに妙な本が目に入ることがあるのだ。これは、Webの本屋ではまず生じない現象で、確かに、何かを注文すると、それに関係のありそうなものをお勧めはしてくれるのだけれども、実用的なものを実用的な理由で買うときには確かに便利なこともあるけれども、趣味の物を趣味で買い込む時には、どう考えても買う気が起きない物を目の前に並べられて閉口することになる。少し前のエントリーでも記したけれども、Web上の情報はあくまでも「平均」をターゲットに出してくるので、平均からどちらの方向にでもはずれた状況では、マヌケなことが起こる。そういう意味では、Web情報の平均への淘汰圧力はすごいもので、このままではWeb情報に起源を発するレミングの大行進(これはガセネタらしいのだけれど)が起こるのではないかという気にもまる。

閑話休題

この本、読みかけで放り投げたままなんだけれども、読んでいて微妙な違和感があった。この本は、戦前に日本の綿糸が世界の中で地位を占めたのは、安かったためではなく、英国製品に匹敵する品質を持っていたからであり、その背景には現場の女工さんなどが質の改善にコミットしていたことがあることを立証しようとしている本である(と思う。何しろ読みかけだ)。その本のどこに違和感があったかというと、立証しようとしていることを「仮説」として提起しているところである。こんな事を言うと、「立証されていない説なんだから「仮説」なのは当たり前だろう」という声が文系の方々から飛んできそうだけれども、少なくとも私にとって、この本で立証しようとしていることは「仮説」ではなく、一つの「推測」である。百歩譲って仮説と称するとしても、その前には「アドホックな」という接頭語をつけないとだめなものでしかない。

「じゃあ、あなたにとって「仮説」ってどういうものなの」と訪ねられたら、単純には「それが立証されたら、いろんなことに波及して随分と幸せになれるもの」というのが答えだ。こう答えると、上の戦前の製品品質に関する話だって、それが立証されたら、綿糸以外にもあてはまる(かもしれない)からいろいろな所の波及するではないかと言われそうだけれども、一方で、戦前の日本製品の質が悪かったことについては、いろいろと話が伝わっており、その中に高品質のものがあったとしても、それを個別に取り上げて、その理由を確かめる必要が生じるものでしかない。一方、理科系的な意味での仮説とは、一旦それを認めるなら、あとは演繹的にいろいろなことが導き出せるような物であるという感覚がある。ニュートンの万有引力の法則を例にとれば、それが一旦認められれば、新しい惑星を見つけ出すのにも使えるし、はるか離れた銀河系の回転速度から、ダークマターと言われる質量が存在していないといけないことも導き出せる。

上に上げた二つは、実は両極に位置するような話で、実際にはもう少し中間的な事例もあり得る。理科系でも特に生物系などでは、万有引力の法則のようには適用範囲の広くない仮説が出て来ることもある。とはいえ、生物系でもダーウィンの進化論のように、非常にシンプルな概念から生物の多様性や変遷に統一的な理解を与えるのがよい仮説なのであって、非常に特殊な、例えば一種類の生物のある事例にしか当てはまらず、その説明以外のことは出来ないものは、あまり顧みられることのない「仮説」にしかならない。それに対して、この本の著者の経歴をみると、関連する分野ではきちんとした仕事をされているようで、それで、このようなことを仮説として呈示するからには、分野によって仮説という概念が異なっているとしか考えられないのである。

こんな話を書き始めたのは、文系で使われる「仮説」が理科系の「仮説」とニュアンスが異なると思えた瞬間に、高等学校の課題研究で繰り出される「仮説」や、「仮説実験授業」に出て来る「仮説」が、どうしてそろいもそろって、普通の理科系の研究者の目から見て、仮説とは言えないようなものになってしまうのかの原因が分かった気がしたからだ。現時点では推測の域をでないのだけれども(これは仮説ではなく推測だ)、高等学校の先生は理科系科目の先生でも、そして仮説実験授業の授業書を書いている人も「仮説」という言葉を文系的な意味で使っている。
その結果として、例えば仮説実験授業で(私の適当な理解の範囲で)「仮説は思いつきでよい」という、理科系研究者から見ると「味噌汁で顔洗って出直してこい」と悪態をつきたくなるような状況が出現するのだろうと思う。言っている側からすると、仮説の定義が取り敢えずの思いつきを含む物だったりするから、なんで悪態をつかれるのかが分からないだろうと思うけれども、仮説を「その時点で分かっている事象からして、可能性があり、それが実証できるとその現象の根本が理解でき、望むべきはより一般的な概念として使える物になる物」と思っている立場からすると、仮説というのは、現象に対して、色々な視点から頭の中で思考を巡らせて、思いついた諸々を、現実と一致しているかとか、それが分かるとほんとに幸せになれるかということを思案して、いわば、一段目の思考実験をクリアーしたものとして表に出されるものなのであり、思いつきを延髄反射の様に口に出すのは、仲間内のブレインストーミング過程ではありでも、「仮説」と称して表に出すものではあり得ないのである。

理科教育が議論されるときに、割合と声が大きいのは理科教育畑の人々である。で、なんで、そんな的外れな理科教育が行われるのか不思議だったのだけれど、教育学部の理科教育の先生方が、文系の意味で「仮説」を使っているなら、その理由の一部がわかるような気がする。
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by ZAM20F2 | 2012-12-21 22:03 | 文系 | Comments(0)
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