専門家とサイエンスライター

たまたま目にした筑摩書房のPR雑誌(多分12月号)で田口ランディさんが絶賛していたので、思わず買い込んでしまった。
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何を絶賛しているかというと、専門家が素人に分かるように科学の話を書いているということだそうで、田口ランディさんによれば(記憶がもはや不確かだけれど)専門家が科学教育を受けていない人に対して分かるように書くべきであるのだそうだ。
 というわけで買った本を眺めてみると、最初の部分は元素の成り立ちについて書いてある。この地球上に何で100種類ほどの元素があるかという話だ。田口ランディさんに従えば、専門家が素人に分かるように書いてあるはずなのだけれど、この部分は明らかに、サイエンスライターの手によるものだ。といっても、ゴーストライターがいるという話ではなく、著者はこの分野の専門家ではないということだ。著者紹介をみると、この人は基本的に環境系の研究者である。一方、元素の成り立ちは原子核物理や宇宙論の世界の話だ。この二つは全くことなる専門領域で、両方の専門家が存在するとは思えないような異なった分野なのである。
 実際、この所は呼んでいて違和感を感じるところや、科学的に明らかに間違った内容が含まれている。違和感を感じる点としては、著者が普通の水素のことをあえて「軽水素」と呼んでいることだ。確かに、「軽水炉」のように普通の水をあえて軽水というような場合もあるけれども、水素に限って言うと、普通のプロトン1個の水素をあえて「軽水素」と呼ぶことはない。日本語のWikipediaには「軽水素」という言葉はあるが、英語版のWikipediaには「Light Hydrogen Atom]に類する言葉はない。重水素に対応する英語はHeavy HydrogenではなくDeuteriumでこれは重いより二を意味する方向の言葉だ。実際、原子核の専門家の手になる「元素はどうしてできたのか」(PHPサイエンス・ワールド新書)
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では普通の水素と重水素、三重水素という使い分けで、軽水素という用語は出てこない。軽水素はWikipediaレベルの用語であって、専門家の使う用語とは言いがたいものだ。
  これだけだと説得力がないので、明らかに誤っているところも取り上げておこう。「身近な水は水素1個と酸素2つが結合して」と書いてしまっているのはご愛敬だけれど、水素の同位体について重水素と三重水素が不安定というのは図のキャプションと本文の両方に記してあるので、本人がそのように理解していると思うけれど、重水素が安定同位体なのは大学教養レベル程度の極めて初歩的な知識である。この部分に関しては著者の知識は普通のサイエンスライター以下だろう。
 また、鉄について宇宙での存在量が多いのは「鉄の構造が最も安定しているからと述べましたが、もう少し詳しくみると、この元素は電子を2個もしくは3個放出し、二価あるいは三価といわれる陽イオンになります。」と記している。この文章の最初の鉄の構造の鉄は原子核のことでなければならないのに、後半は原子としての鉄の話になっている。これは、明らかに話の混同で、専門家どころか、大学教養レベルの知識をもっているなら、やらない内容だ。
 後半の重金属の毒性などの話に関しては、恐らくは著者の専門に係わるところで間違いは少ないのだろうと思うけれども、前半に関しては、かなり問題のある記述が見られる。 田口さんのツイッターを見ると、どちらかというと後半の公害の歴史に関するところに興味をお持ちのようだけれども、最初のところで躓けば、その後には進まないだろうから、最初の部分から、専門家が素人に分かるように書いてあると思って読んでいたはずだ。ということは、田口ランディさんは専門家とサイエンスライターの区別がついていないし、この本に書いてある科学的に問題のある記述をそのまま信じてしまったことになる。これは、少しどころではなく、かなりまずい状況である。
 もちろん、田口ランディさんの主張にも一理はある。専門家の中にもこけおどしの難しい言葉で素人を従わせようという発想を持つ人間も存在する(正確には、自分もきちんと理解出来ていないのがばれないように難しい言葉を使って防御していると言うべきかも知れないけれど)。そういう発想は根絶されるべき事であるのには心から同意する。しかし、その一方で、いまの田口さんのように、実は専門家でない人のいうことを分かりやすく話してくれる専門家の言葉として受け入れてしまうのは、こけおどしの言葉に従うのと同じくらい危うい行為でる。専門家の専門領域は多くの場合には非常に狭くて、それから少しでも外れた領域に関する知識は、非専門家とほとんど変わっていないなんてこともよくある話なのだ。
 専門家に分かりやすく話をするように求めるのと同じくらい、素人の方でも合理的に考え、きちんとした知識を身につける努力をするべきだ。それをせずに、一方的に専門家に要求するのは、自らだまされようとする行為でしかない。

 ※余談になるが、「元素はどうしてできたのか」の前書にはサイエンスライターさんへの謝辞がある。恐らく、この本にはかなりライターさんがコミットしたのだろうと推測する。ある出版社の人が、有名なトランスフォーム断層のある国には科学者とライターさんが二人三脚で書いてる良い本が結構あると言っていたけれど、極東の島国でもこうした二人三脚は出来ない物だろうか。サイエンスライターさんがちゃんと加わっているか、編集者がきちんと理科系の大学教養レベルの素養をもっていたら、最初の本にしても、あんな初歩的な間違いが堂々と掲載されることはないだろうと思う。
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by ZAM20F2 | 2014-01-14 20:57 | 文系 | Comments(0)
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