専門家とサイエンスライター また

専門家とサイエンスライターで取り上げた田口ランディさんの書評が閲覧できることに気がついた。

というわけで、田口さんの書評を巡る話について、単なる記憶でではなく、そして、これを読んでいる人も、原典にあたっての確認が可能となったので、もう一度取り上げることにした。

田口さんは書評の中で「自分の専門から降りることができるのが、本当の専門家であり、専門家は市民に対して説明義務がある。そのために言葉を選び、対話をするというスキルを磨いてほしい。そう願ってきた。しかし、対話センスを有する専門家はごく僅かであり、この現実こそ国の未来に関わる大問題なのである。」と記している。田口さんがこの文で「自分の専門から降りる」という言葉で何を言おうとしているのかはなかなか理解困難だ。単純には専門家が素人が理解できるように話す事だろうけれども、専門家は専門的な知識(と知恵)を有していることに価値がある。それを非専門の人に伝えるにあたっては、専門家であることを降りる(自分の知識を離れる)のではなく、むしろ専門家としての知識に立脚した上で、対話をすることが求められるはずだ。それは、不正確でも分かりやすい言葉で語ることではなく、時には、聞き手側の無知を訂正して、納得されるまで議論しなければならない行為で、適当な言葉を連ねるのに比べれば非常に労力の必要なものである。そして、その過程では、当然のように聞き手側にも努力が要請される。そもそも、努力もなしに理解出来るような内容しかないのだとしたら、その領域に専門家がいる必要はない。田口さんの視点には聞き手の努力の必要性が欠落している。

田口さんは素人に分かるように話せる専門家の不足が大問題であるようなことを記しているが、これは現実に起こっていることの半面しか捉えていない。文科省科学技術政策研究所の科学雑誌に関する調査の中の、科学雑誌出版側へのインタビューに日経サイエンス編集長のインタビューがある。そこで、編集長の高木氏は本家のScientific Americanの発行部数が60万部であるのに対して、日本はそれより1桁程度少ないと記している。人口比から考えると、30万部は売れなければならないので、期待される値の1/5以下なのである。Scientific Americanの内容は、しっかりしたものだけれども、それでも米国での出版部数を考えれば専門家が一般の人にも分かるようにきちんと書いていると考えて良いだろう。それが日本で売れないのは、分かるように書いてあることを読もうとしない素人(私もその一人だが)の割合が多いことを示している。問題は、専門家だけでなく素人側にもある。専門家の不足と同じぐらい、努力して科学を分かろうとする素人が不足している。それを考えに入れずに田口さんのように専門家側のみの問題としてしまうのは大きな誤りだ。

それにしても田口さんの書く物は何で妙な難しい言葉や言い回しを使っているのだろう。例えば、生命が進化の過程で「大きな変化を遂げた」ことを「大胆で革命的な転位を」なんていう言葉を使わなければならないのだろう。或いはまた、「重金属を位相の異なるレイヤーで捉え、問題の本質を多角的」も謎の表現で、位相とかレイヤーなどという意味不明の言葉を使う必要もなく、「重金属について色々な視点から説明し」で充分なはずだ。田口さんは「専門家」の説明能力に文句をつけているが、上の文章をみていると、田口さん自身は立派な「専門家」になる素質をお持ちのようだ。そのような、不必要な言葉を連ねたあとで、「産業革命以降、科学は哲学や生命倫理の歯止めのきかない暴走を始めた。その要因の一つが、科学に携わる人たちの「バランス感覚の欠如」であることは間違いない。」などと記しているわけだけれども、アボリジニによるモアの絶滅、古代文明の森林破壊によって引き起こされた絶滅などの例が示しているのは、人類がそもそもバランス感覚を欠如していて、それが、単に強力な道具を持ってしまったために派手になったという事なのである。つまり、「科学に携わる人たち以外」もバランス感覚が欠如しているのだ。バランス欠如は人類の性といってもよいようなものだ。

しかし、田口さんの書評を読んでいると、田口さんは科学者や専門家に総て責任を押しつけて自分達市民は科学者の巻き添えをくっただけの無垢の被害者であり、自分達には一切の責任はないと考えているような印象を受けてしまう。

ところで、田口さんから絶賛されている渡邊さんの専門が何かはよく分かっていないけれども、サイエンスライターとしては良心のある人であろうと思う。というのは、本の最後に参考文献としてそれなりの数の書籍が掲載されているのだ。ただし、そのリストを眺めてみると、きちんとした論文はなく、また書籍も専門書は僅かで、一般的な書籍が多い。中には、かなり安直な本も混じっている。職業的なサイエンスライターなら、間違えてもこんな本を参考書籍として上げたりはしない。ライターにとっては知識を持っていることが商品なので、他の用意に入手できる商品の転売をしているだけと知られたら地位の低下は免れないからである。そして、専門家も自分の専門分野に関して安直な本を参考文献にあげることはない。普通は本に書いてある以上のことを知っているし、参考文献としてあげるなら、より権威のありそうなものを選ぼうとする習性を持っているからである。著者は「ぜひ、本書を読んで関心をもった読者は、文末にあげた参考文献などから、より詳しい情報を調べてみて下さい。」と参考文献が著者の用いたものではなく読者のためのものであることを匂わせるような表現をしているが、それにしても安直すぎる本が掲載されている感は否めない。さて、渡邊さんがあげている本を眺めていると、著者の専門分野を推定できるような気がしてくる。上に述べたような理由で専門家は自分の専門に関してはノウハウ本などは参考文献としないものだから、逆にその手の本が上がっている分野は専門外であると、かなりの確度で考えられる。比較的入手性の良い本が出ている領域は、元素の成り立ちの部分。この内容に問題のある記述があることは、前に取り上げた時に記した。そして、元素の利用の部分。この部分では、例えば、鉄にタングステンやモリブデンを混ぜたものを超硬合金と記しているけれども、これは青紙鋼とタングステンカーバイド系の本当の超硬合金を混合したものと思われる。また、クリスタルガラスに鉛が入っていると記しているけれども、これは、いつの時代の話だという印象がある。クリスタルガラスに限らず、光学ガラスでも重元素の使用を控える傾向にあり(その結果として顕微鏡対物レンズでは、新しい品の方が作動距離が短かったり色収差が大きかったりと性能が落ちる場合が出ている)、そのような流れを知っているなら、あえて書かない記述だ。また、毒の働く機構についても専門外である可能性が高い。本の中で,リンの代わりの砒素をDNAにに使う話が出てくるが、Wikipediaレベルの情報(だけれども、その部分は引用が多いので、信憑性は高いと考えられる)では、その後に否定されている。否定されたのは2012年で、この本は2013年末に出ているので、その分野に精通して最新の情報に目を配っているなら恐らくは紛れ込まないか、さらに最新の情報として肯定されているなら、途中の議論も含めて記しているはずだ。そして、公害に関する参考文献も一般的なものが多く、少なくとも総ての公害事例に対する専門家ではないことは見て取れる。こうしてみると、この本の大部分のところは、専門家ではなく理系サイエンスライターによって書かれたことになる。決して専門家が専門を降りて書いた本ではない。

 さらに言えば、微妙に誤解を与えるような表現が所々に紛れ込んでいる。先ほどの砒素のところを例にすると「しかし、必須元素であるリンと似た性質から、2010年にはNASAが「ある種の細菌が核酸に利用している」と発表し、大きな議論となりました。つまり生物の存在に不可欠なDNAを構成するリンのかわりに、ヒ素が利用されるということは、生物誕生のメカニズムにさえ影響を及ぼす衝撃的な発見となります。地球の“常識”を越えた存在は、他の惑星に生命がいる可能性すら想像させました。実際、ヒ素は1975年と比較的早い段階で動物の必須元素であることも証明されています。つまり、過剰量は一級の毒物でありながら、微量は必須でもあるという重金属の複雑さを体現したような存在です。」と記している。この部分は色々な意味で問題を抱えている。上に記したように、2010年の発表は2012年に否定されつつあるが、実は、上の文章では「大きな議論となりました」という表現のみで、2010年の発表の正当性については記していない。それにも係わらず、それ以下は、それが正しかったらという条件付きで空想を並べたて、さらに1975年に証明されたことを使って、2010年の発表が正しかったかのような印象を与える操作をしている。また、注目すべきは2010年の発表はNASAと記しているのに、1975年は発表者を記していない。これは、NASAの発表なら信頼性が高いだろうと読者が考えることを想定してのことだと思う。そして、引用部分の最後の部分の正当性を示すことなく、読者にそれが完全に(ここの完全にが重要)正しいことであるように信じ込ませようとしている。先ほどは著者はサイエンスライターとして良心があると記したけれど、このあたりを読むと、それは撤回した方がよいかもしれない。この本には、色々なところに、簡単過ぎる一般化が紛れ込んでいて、それはこの本を批判的に読めない読者には誤った信念を受け付ける事になる。

 このような本に対する田口さんの絶賛を考えると、田口さんは記述内容の正確さに対する判断能力をほとんど持っていないが、読みやすくて自分の心情にあった内容を真実として受け止める人であるという結論となる。これは、田口さんに限ったことでなく、WebのQ&Aサイトでよく見かける光景である。おそらく、そういう人に、あなたの気に入った回答は間違いで、もう一つの、一見難しい回答の方が真実ですよと伝えても「そんなこと言われても、そっちの回答はそもそも分からないから、そんな難しい書き方をするのが悪い」という反論が返ってきそうだ。こういう人は、無邪気で悪意はない。だが、そういった類の無邪気さを自覚することなく、人に対しては責任は求めるものの、自分の責任は棚に上げ、さらに、すぐには理解出来ないことを理解するための努力は行わないような姿勢でいる限りは、いくら小難しい言葉を連ねた文章を書くことは出来たとしても、問題を解決していくための術を考え出すことは不可能だろうと思う。
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by ZAM20F2 | 2014-02-01 12:02 | 文系 | Comments(0)
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