絵描きと写真屋の視点

 絵描きさんの見る物と写真屋さんの見る物は違うこともあるのではないかという気がしている。 そんなことを思うようになったのは、絵は上手だけれど、写真が巧くない人の存在を知ったためだ。その逆に絵と写真を比べると、写真の方がましというか、絵が壊滅状態となる人もいる。もちろん、世の中には絵を描かせても写真を撮らせても巧い人はいると思うのだけれど、そうじゃない人がいるということは、2つの回路に違う部分があることを示唆している。
 どのように回路が違うのかについては、根拠のない推測として映像記憶(認識)と意味記憶(認識)のどちらが強いかであるような気がしている。そう考える0%に近い根拠は、装置の部分図を巧くスケッチするにも係わらず、その部分のある部品の機能を認識していなかった人がいるからで、反対に私がスケッチをすると、部品の機能は分かっても、全体としては実物と似ても似つかないプロポーションに仕上がることがほとんどだ。一方、部品の写真を撮れば、機能が分かるように写真を撮影する自信はある。残念ながら、機能認識なくスケッチした人がどのような写真を撮影するかは確認出来ていないのだけれど、基本的にはスケッチと同じフレームになって、機能が分かりにくくなるような気がする。
 根拠のない推測として映像と意味という事を上げたけれども、経験的には絵が描けて写真が下手な人でも、他の人の取った写真についてはフレーミングの善し悪しを判断できる。このことは、ある瞬間に撮影するフレームを決めるのが困難でも切られたフレームをしげしげと眺めれば善し悪しが判断出来ることを意味している。この点からは、絵描きさんの目と写真屋さんの目は物を見る時間スケールの違いという事になる。
 例外的な話になるけれども、山下清さんは、旅先で見た風景を施設に戻ってから貼り絵にしたわけで、その風景が頭の中に焼き付いていた事になる。一方で、自分自身のことを考えると、風景を頭の中に焼き付けることは、まったく不可能だ。話を少しばかり絵描きさんの方に戻すと、ピカソは瞬きせずに対象を見ていたという話を聞いた事がある。外界を凝視ししているのだ。山下清さんやピカソが物を見るのにどのくらいの時間を要したのかは知らないのだけれども、それ以外の絵描きさんの話などを見ても、ある程度の時間をかけて凝視することが絵描きさんに割と共通の行動原理の気がする。
 一方、物事の意味を見る視点からは、意味に直接関係のないデテールは雑事であり、必要な領域の情報さえ得られれば、それ以外の部分を見る必要は無い。従って、中心対象物以外については、おおざっぱな印象の元にフレーミングを決めているのが写真屋さん的なものの見方である気がする。 ここまでは、写真屋さんを一括りに扱ってきたけれども、写真屋さんと言ってもスナップ系や風景系などによって物の見方が違っているような気もする。例えば、三脚にカメラを固定して、長時間かけてフレーミングを決める風景科の写真屋さんは絵描きに近い目をもった種族で、社会科というかスナップ系の人は、絵描きとは異なった目の人であるような気がしている。民俗写真屋さんとか科学写真屋さんも非絵描き系の目をもった人種であろうと思う。
 絵描きさんと写真屋さんの目の違いか、あるいは絵と写真の違いか、画像となる対象物にも違いがあるような気がしている。もちろん、しばらく前の「ふもと」で出したような山の写真は絵描きさんでも写真屋さんでも画像の対象になるけれども
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なんぞは、割合とよく写真撮影の対象とはなっても、絵画の対象になることは少ないような気がする。それ以外にも
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などという建物も写真的でも絵画的ではない。
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になると、これは絵画でもアリかなという気もする。このあたりの感覚は何なのだろうか。
 話は変わるけれど、コーンの写真はコンパクトデジカメなのだけれど、本体の設定をステップズームにしてあり、ズーム域の中で4通りの焦点距離しか動かないようにしている。液晶画面を見て操作するようなカメラだと、電動の連続ズームよりは、離散的な焦点距離の方が使いやすい。下の2枚は光学ファインダーの一眼デジカメで手動ズームを使っている。光学ファインダーと手動ズームの組み合わせだと必要に近いフレームに素早く持ち込めるので、焦点距離が離散的にならなくても、使い勝手は悪くならないような気がしている。
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by ZAM20F2 | 2014-04-20 08:59 | 文系 | Comments(0)
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