少し前に山北さんの写真を出した時に、ネット上を探しても山北さんに関する情報が少ないと記した。お名前で検索しても、本がらみはヒットしてもなかなか情報は出てこない。
その中で、大人の工作読本の鉄道模型に山北さんのお写真があるとの記事を見つけて、工作読本を入手した。
件の写真は、模型鉄道文化所の石坂善久さんによるもので、その中に、誠文堂新光社から復刻された山北さんと田口さんの2冊セットに付属の解説にお二人のことが記してあると書いてあった。
その
模型鉄道文化所だけれども、サイトを覗くと、戦前の工作系雑誌などの表紙写真も掲載されており、少年技師ハンドブックも、赤の裸本ではなくカバー付きの写真が掲載されている。思わず、あるところにはある物だなぁとため息をついてしまった。ついでに、Oゲージ専門のお店へのリンクもあり、買う買わないといえば、買わないのだけれど、行ってみたいところだ。
さて、その2冊セットだけれども、すでに絶版で古本も安くはない。それに、とりあえず欲しいのは解説だけだ。
というわけで、図書館を調べてみたら行動範囲にある図書館においてあることが分かり、見に行ったら解説も付いていてかり出すことができた。
解説は大人の工作読本と同じ、石坂善久氏によるもの。
そこから簡単に抜粋すると山北藤一郎さんは、1905年東京生まれで、1924年に電気学校を卒業して1925年から東京芝浦電気株式会社に入射し、東京工場設計部製図係係員として働いていたそうだ。
誠文堂新光社とのつきあいは、1927年に自作の模型が掲載されたのを機に1928年から小型変圧器の作り方を連載し、それらをまとめる形で1929年に少年技師ハンドブックシリーズとして「電気機械の作り方」が出ることとなった。
戦後の1948年に東芝・中央研究所を退職し、自宅に工房をつくり「山北ロボット研究所」(1965年に「山北オートメーション」に変更)として、企業等のアトラクション用のロボット(というより電動からくり人形といった印象だ)などを製作されていたとのこと。工房は1970年に閉めたのだけれども、その後も電機メーカーのカタログ翻訳などを手がけるなど、技術と寄り添った暮らしをされていたそうだ。1988年年に83歳で亡くなられた。
田口武二郎さんは1888年に東京で生まれた。開成中学校在学時に重クロム酸電池を自作し、架線集電の電車を自作しているらしい。しかし、大学は文系で、浦賀船渠に就職し、在籍中の1916年から余暇にライブスチーム製作を開始し、1930年に完成させた。
その後、鉄道模型会の中心的人物として、多くの愛好家が田口家を訪れるようになったらしい。
その後1940年から「科学博物館普及科」の勤務となり(これがどういう形態かよく分からない。この仕事を退職したのは1960年らしいのだけれど、年齢は70歳を超える計算になるので、普通の官職とは思えない)、あわせて模型工作普及活動を続けていた。田口さんは1982年に94歳で亡くなられた。