「教育系仮説」の存在と弊害について

だいぶ前に文系と理系の仮説の違いについてのエントリーを書いた。確かに文系と理系における仮説は異なっているようで、先日、文系1人、理系2人でちょっと話した時も、理系の研究は仮説無しで行われることもあると言ったら怪訝な顔をされた。そこで、金属を冷やしたら電気抵抗が下がったので、他のも試していたら、突然抵抗が0になったのが見つかったなんて研究はインパクトのある物となると話した。すると、文系さんからは、他の金属を冷やす実験は仮説無しで行うのかという疑問が戻ってきたので、理系2人とも明示的な仮説無しと答えたら、今ひとつ納得できないような顔の後で、「触媒量を1000倍間違えたらなんか出来ちゃったようなもの?」という返事が戻ってきた。どうやら、文系さんといっても、まわりに理系がゴロゴロしていると、ある程度の事例は分かるようになっていたらしい。或いは、理系と接することのない文系だったら、そんな答えもなく怪訝な顔のままだったかも知れない。

理系と文系の仮説の違いは、あるいは、理系の方が、想像もしていなかったことが起こりうることから来たのかも知れない。理科系の研究では「セレンディピティー」(偶発的に物事を発見する能力なんて言われることもあるけれども、それ以上に、やっていることの異常に気がついて、それが何かを突き止める能力といった方がよい気がする)が時として重要な役割を果たすけれども、文系の研究においては、発掘調査や新資料の発見を除いては、セレンディピティーが役に立つ場面を思い浮かべるのは困難かもしれない。文系の学問は、そういう意味では既存の事柄の意味づけの再構築という側面が強いようにも感じられる。もう少し格好良く言うなら、文系の学問は、新しいパラダイムを出すことが課題となる。このため、従来の定説とは異なる考え方や、誰も言っていない思いつきを仮説として提示して、それを補強するための素材を拾ってくるという流れになるようだ。補強するための素材の集め方は恣意的だから、相反する考えが別の学者によってそれぞれ証明される(と主張される)こともあり得るだろう。

理系の研究でも、このような例がないわけではない。具体的には大陸移動説の最初のでかたはこのパターンで、南米とアフリカの海岸線の類似性からの思いつきが仮説となり、それを実証するための証拠集めが行われるという流れになっている。ひょっとすると、パラダイムの変換とそうでない研究を分けた方が仮説の意味を議論しやすくなるかもしれない。

では、通常科学の進み方がどのようなもので、そこで仮説はどのように出てくるかという話であるが、パラダイムの転換がないような普通の科学の進み方においては、関連する領域の莫大な知識の上に、新しい知見が得られる。このため、単なる思いつきが仮説となることはあり得ない。また実験系の研究者は日常的な思いつきの九分九厘はやった結果として駄目であることを知っているので、思いつきを仮説と称する習慣は存在しない。仮説は出てきた時点で、それまでの知見に対して整合的であり、その後の進展の基礎となるようなものであると認識されているように思う。

前回は高校や中学の先生は文系の意味で仮説という言葉を使っているのではないかとしたけれども、上記の文系の人との話の後で、ある夏休みの自由研究の参考書を見たら、そこで使われている「仮説」は文系とも理系とも違う何かであるような気もしてきた。本の中で、仮説について説明している部分を引用すると「はじめにで、「ふしぎに思ったこと」や「自分の力で確かめられそうだが、わかっていないこと」について書きましょう。それを自分なりの考えとして実験の前にまとめておきましょう。」と書かれていた。

提示されている仮説の定義の前半の「ふしぎに思ったこと」は明らかに仮説ではなく、むしろ研究動機に係わることだ。そして、後半部分は、一見すると仮説っぽいのだけれど、仮説というよりは、目的にかかわることだ。

これでは、著者がどのようなものを仮説と考えているか具体的には分からないので、同じ本の中の「理科の先生がこっそり教えてくれる 満点レポート作り」に出ている例を見てみよう。10円玉をきれいにする研究では、「酸性の液体が、10円玉をきれいにするはたらきがあるだろう。」というものが仮説として上がっていた。それ以前のところで、複数の酸性の液体が10円玉をきれいにし、中性やアルカリ性の液には効果がないことが分かっていて、それをより一般化するという流れなら、これは仮説として成立はするとは思う。しかし、前段を見ると、研究目的として、「古い10円玉をきれいにする液体の共通点を探す」ことが書いてあるほか、動機として「友だちが、自由研究でやっていたのをみて(それについての結果は書かれていない)自分でもやってみることにした」などとしか書いておらず、仮説につながる事実は記されていない。これは、理科系的な意味では根拠のない思いつきでしかなく仮説ではないし、また文系的な意味でも新しい考えとは無関係な仮説ではない何かであろう。

著者基準では満点レポートの仮説らしいが、どうみても満点という印象のものではない。著者は教育学部の院卒らしいので、このような仮説を教育系仮説と名付けることにする。高等学校の課題研究でも教育系仮説はよく見られるものであり、教育学部卒業者に蔓延しているのではないかという気がしてしまう。どうして、「仮説」にこだわっているかというと、だいぶ前に出した虹の後書きに書いてある「ルールに」係わる事柄だと思っているからだ。背景となる知見や論理のない「仮説」を振り回すことは、科学のルールを学ぶよりも、科学的でない方法論で物事を進める練習でしかなく、むしろ科学から遠ざかる道となりうる。一見科学的に聞こえる「仮説」という言葉で理科好きを育てているつもりが、、逆に子供達を科学的な考え方から遠ざける行為となっている危険性があると思うのである。論理性のない仮説を、穴だらけの実験で検証したと結論づけたところで、それは科学とはまったく無縁の行為でしかない。さらに前日に書いたように、それを強制的にやらされるとなったら、「科学」と称するものを嫌いになれといっているようなものであろう。なにかを強制するにせよ、形式を整えさせるより、もっと子供が素直に自然に目を向けるようにしてあげれば充分ではないだろうか。

子供の研究に仮説が必要になったのは、戦後のどこかのことだろうと思う。というのは、科学の学校「にじ」の第2巻第1号に掲載されている、小学生の研究には仮説は記されていないからだ。個人的に疑っているのは、繰り返しになるけれども「仮説実験授業」の影響だ。もっとも、仮説実験授業の授業書では、取り敢えずの考えを「仮説」ではなく「予想」として提示しているようなのだけれど(Wikipediaによる。本物は見ていない、でもそれだったら予想実験授業と名乗るべきだ)、とにかく、すべての科学研究には仮説が必要であるかのような誤った印象を人々にあたえてしまって、そして教育系の人に誤った仮説観を植え付けている原因ではないかと思う。

この状況を改めるには、教育系仮説を信奉している人々に、理系的でも文系的でも研究者の仮説がどんなもので、何故そのように仮説を立てるのか、そして、教育者の信奉している仮説と研究の流れがいかに科学的なやり方とはほど遠いものであるかを理解してもらう事しか無いのだろうと思う。そんなわけで、次には平賀壯太さんの「蝶・サナギの不思議」を紹介しようと思う。この本は、ほぼ普通にある道具立てで、アゲハチョウのサナギの色が何で決まっているかを調べた研究を書いた本だ。
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by ZAM20F2 | 2014-08-16 18:54 | 文系 | Comments(0)
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