日本の稲(1)  少国民のために

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著者の松尾孝嶺氏は稲の神さまとも言われた稲の権威。このシリーズのご多分に漏れず分野の第一人者を引っ張ってきている。前書きによれば松尾が示したあらすじに従って編集部が原稿を作って本にしていったらしい。編集部が随分と仕事をしているのもシリーズに共通の特徴だ。

この本を取り寄せたのは、戦後に新しく発行されたシリーズの本が線前版と作り方が変わったのかなどを知りたかったためだ。日本の古本屋をあさって見つかった中で値段もタイトルも手頃な一冊という理由であった。
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そんな、かなり適当な理由で選択された本なのだけれども、読んで自分の生物学と、主食としている穀物に対する知識のなさを実感させられた。

一応、高校までは生物の授業を受けていたはずなのだけれども、こんなにも暮らしを支えている植物の品種改良の歴史と、その後ろにある生物学的知識の持ち合わせがなかったのだろうというのが読み終わった後の実感だった。

たぶん、高校までで受けてきた生物の教育は、そんなに劣ったものではないだろうと思うので(まあ、私個人がまともに話を聞いていなかった可能性は高いが)、私の知識はこの国の大人の平均からそれほど低いとはおもえない。最近ではウィルス性の疾患や、遺伝子組み替えなど生物学的なことがニュースが飛び交うことが多いのだけれども、私も含めて多くの人々が、それらのニュースの科学的な意味を理解することなく流しているというのは、あまり真っ当とは言えない状況だ。現在の学校の生物学の教育課程では、これらの理解が可能となるような内容を教えているのだろうかと、ふと疑問になってしまった。

さて、本に戻ろう。本はイネのふるさとという章で始まる。
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熱帯原産であることが紹介された後、何度も冷害による凶作が生じたことが出てくる。
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明治以降をとっても、随分と大変なことがあったが、明治以前には藩毎に凶作の対処をしなければならないので、東北の藩によっては多くの餓死者が出たとの話がある。
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もっとも、昭和の戦後でも、凶作の時に農家が子供を売る(この本が出た当時は赤線はまだ存在していたはずだ)という話が出てくる。


冷害によるイネの凶作が何故起きるかについて昭和9年の東北の冷害が契機になって、東京にあった農林省農業技術研究所に冷害実験室が出来て研究が行われた。イネの花は自家受粉で開花時間は2時間程度しかない。さて、花が咲くまでのイネを色々な時期に低温にして実りを調べた結果穂が出る二十四日ほど前と十日ほど前が重要なタイミングで、二十四日前に低温にあうと籾の成長が邪魔され、十日前だと花粉が生育できず実りが悪くなることが明らかにされた。
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冷害による凶作を防ぐために数多くの努力がなされてきた。その出発点の一つは北海道における米作りで、北海道における米作りは1680年代に函館付近で、津軽で作られていた「しろひげ」と「地米」の栽培が試みられたのが、満足な実りは得られなかった。それでも幕末には5~600ヘクタールの水田があったらしい。なお北海道では苗代を作って田植えをすると、その時にイネの根が切れて成長が一端停止し、そのために開花時期が遅れて寒冷な気候に弱くなるために、直まきで行うことが明治の末期に発見され、北海道の稲作がより安定するようになったらしい。
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明治期になり札幌周辺での米作が試みられるようになった時、ほとんど総ての農家がまともな収穫を得られなかった中で、一件だけ本州なみの収穫を上げた農家があった。この農家では、実は1860年代に起こった凶作の時に実を結んだしろひげの変種である「あかげ」を使っていたのであった。
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さらに明治27年の凶作時にあかげの中から、さらに耐寒性のすぐれた「ぼうず」が発見され、旭川まで米作が拡げられるようになっていった。

その後は人為的に新品種の開発が進められ、大正12年に「はしりぼうず」が開発され、十勝や北見まで米作ラインが拡がり昭和15年の農林11号でほぼ全北海道での米作が可能となった。
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(以下続く)

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by ZAM20F2 | 2015-02-19 21:07 | 科学系 | Comments(0)
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