茎の欠如について

ともきんすでは朝永振一郎の

ふしぎだと思うこと
これが科学の芽です

よく観察してたしかめ
そして考えること
これが科学の茎です

そうして最後になぞがとける
これが科学の花です

という言葉も紹介されている。芽と茎と花の中で目立つのは芽と花だろうと思う。発芽は、種子がまったく異なった形状に変化する過程だし、花は文字通り花で、その存在だけで目を引くものである。

芽と花が芽を引く影響か、途中の茎はあまり人目を引かない存在となる。実際、植物の観察でも、発芽や花は詳細に観察されても、途中の茎の生長は、枝の数の変化程度で、発芽と花に比べると雑に扱われがちなのではないかと思う。
でも、朝永はこの人目を引かない部分に、観察してたしかめ、そして考えることをあてている。観察・確認・思考、これは科学の方法そのものの部分で、発芽や開花に比べて茎の成長に時間がかかるように、科学研究でも時間がかかる部分である。そして、この人目を引かない部分こそ、科学研究そのものなわけである。

世間に溢れている科学啓蒙活動を芽と茎と花に分類してみると、芽と花は多いのだけれど、茎はほとんど存在しない気がする。最先端の科学は花だし、それから、サイエンスカフェなんかでも行われているであろう、専門家が知識を伝えるのも「なぞがとける」という意味で花である。
そして、不思議さを感じさせると称している子供向けの科学教室は芽を目指したものであるし、よく行われている種明かしは茎を通り越した花である。

でも、これらの花はすごく人工的なものだ。茎のない花は良くて切り花、場合によっては造花だったりする。そして、茎抜きの芽と花だけを見せられ続けると、茎の存在そのものが忘れ去られていく。よく考えてたしかめて考えることが忘れられ、中谷宇吉郎の言う「科学によって目をつぶされた人々」が量産されかねない事態だ。そしてまた、芽が出た後で手入れをしなければ、折角の花が咲くであろう栽培植物は雑草に埋もれたり枯れたりするのもよく経験することだ。

茎を育てるのには、発芽や花を摘むのに比べると、時間も手間もかかる。そして、方向性が違う作業である気がする。発芽は、とりあえず適当な水分があればよい。あるいは、子供の目を引くものがあればよいと言い換えても良い。一方、茎は自発的に伸びていくもので、それがどのような葉っぱをつけるのか、どちらに伸びていくのかは茎に内在したものだ。

英国のCASEという科学教育の授業をはじめて見た時に、ある知識を教えるのではなく、やりっ放し感のある終わり方に途方にくれた。実験変数の授業だけれど、溝のある斜面をボールを転がしてもう一つのボールにぶつける作業で、変数を問うものだ。ボールの材質が変数になるのだけれど、ぶつかった後の動きなどは問われておらず、ひたすら変数だけを問うていた。CASEの他の課題も、そんな感じのオープンエンドらしい。大分立って、徐々に認識したのは、CASEで伝えようとしているのは、知識ではなく方法なのだということ。前に上げた「虹」という戦後に発行された科学雑誌に書いてあった「科学をやるためのルール」と言い換えて良いだろうと思う。それを学ぶことによって、はじめて科学をよる深く楽しめるようになるルールと言うやつである。

CASEをやったはずの子供達の、その後の課題研究を見ている身としては、CASEだけで方法論が身につくとは決して信じてはいないけれど、CASEのスタイルは極東の島国の科学啓蒙活動には見られない方向性だし、茎を育てることに関する何かが含まれていると思う。



[PR]
by ZAM20F2 | 2015-05-07 21:50 | 文系 | Comments(0)
<< 綿毛 旦那芸・科学版 >>