アルプと自然の終焉(1)

ドミトリーともきんすの話の延長みたいな感じで、アルプと自然の終焉について、少し記しておこうと思う。

「アルプ」は創文社から出ていた山の文芸雑誌で1957年に始まり、1983年の300号で終焉を迎えた。「自然」は中央公論から出ていた一般向けの科学雑誌で、こちらは1984年5月号一時休刊となった。休刊時には2年後にリニューアルして復刊するとアナウンスされていたが、現在に至るまで復刊は果たされていない。その後の中央公論社の状況を考えると廃刊になったとして問題はないだろう。山の雑誌と科学雑誌では対象読者も違うけれども、この二つの雑誌が消滅した背景には共通する時代の変化ががあるような印象を持っている。

もともと、こんなことを書き始めたのは「アルプの時代」という本を阿佐ヶ谷の「書原」という本屋で見かけたためだ。アルプが廃刊になった理由については、霧ヶ峰のコロボックルの手塚さんから「発行部数が減ったこともあるけれど、それ以上に書き手がいなくなったため」というお話を、大昔に伺った記憶がある。「アルプの時代」の著者は、アルプ創刊号からこの雑誌にかかわっていた山口さんで、確かにこの本にも編集長の言葉として、「読んでいて心躍るような原稿がなくなった」ことが廃刊の理由として挙げられている。


自然に関しては休刊の理由を書いてあるものは見たことがないので、その理由を推測しなければならない状況にある。自然の実質的な最終号を見ると、そこには以下のような出版社の挨拶がある。

ごあいさつ
 小社は昭和21年4月の創刊以来、38年にわたって、科学雑誌『自然』を刊行してまいりました。この間、科学知識の普及、科学的思考力の涵養を通じて、わが国社会の発展と国民生活の向上にいささかなりとも資することができましたのは、多くの執筆者、読者、および関係者の皆様から寄せられたご厚情の賜であります。
 わが国の科学・技術は、38年の間にめざましい発展を遂げました。創刊時の状況を思うときまさに隔世の感があります。科学雑誌に対する社会の要請も変化してまいりました。この大きな変動に対処すべく、小社は本号をもって『自然』を向後2年間休刊し、新しい時代にふさわしい科学雑誌の創造をめざすことにいたしました。
 たまたま来年は、小社が創業いたしましてから100年を迎える年にあたります。わたくしどもの仕事が第2世紀を迎えるに際して、想を練り、新しい姿で再びお目にかかることを期しております。
昭和59年4月 中央公論社

これを読んで分かるのは、大きな状変動に対処すべく休刊にするというだけで、その大きな変化が何を意味しているのかは示されていない。そしてまた、結果的に2年後の復刊がなかったために、自然がどのような方向への転換を図ろうとしていたのかも推測するしかない。

雑誌の休刊・廃刊でまず考えられるのは発行部数の減少である。発行部数が減るのは、そもそも対象としていたはずの読者がいなくなるか、対象読者に支持されるような著者がいなくなることが原因となる。アルプでも、著者が減っていったことに加えて、新しい読者が増えずに読者の平均年齢が毎年上がり続けたことも影響しているようだ。そのような目で自然の最終号を見てみると生物がらみでは丸山工作さんのように現役ばりばりの研究者も寄稿しているし、本川達雄さんのような(当時としては)若手の寄稿もある。しかし、自然の売りの一つだったロゲルギストエッセイが掲載されていない。さかのぼって調べてみると、ロゲルギストエッセイは1983年の12月号が最後で、84年の2月に特集として座談会と代表的なエッセイが掲載されている。5月で休刊になるからには、この頃にはそれも考えられていただろうから、ロゲルギストエッセイの終焉が、引き金になったか可能性も考えられる。もちろん逆の可能性(休刊が決まりエッセイが終焉となった)もあるけれども、ロゲルギスト同人は、この頃に50台後半から60程度のはずである。管理職的な仕事で随分と忙しい人もいたようだし、続ける意志があるなら掲載を引き受ける雑誌もあったろうから、引き金を引く側だった可能性が強い。他の著者や記事内容の動向は調べていないけれども、著者がいなくなったという要素は自然の休刊についても否定はできないだろう。
というわけで、かなり強引であるけれども、アルプと自然という1980年代前半に廃刊になったという以外に関連が無さそうな二つの雑誌の廃刊理由には、「書き手の不在」という共通の要素が含まれている可能性を考えても悪くはなさそうだ。
ひょっとすると、ドミトリーともきんすの「20世紀に活躍した日本の科学者たちは専門書のみならず、一般向けに多くの随筆を残しました。」と言う言葉から「科学者たち」を「人々」にして、ついでに「専門著のみならず」を抜いても、言明が成立しているのではないかという気がする。こんなことを書くと、おまえは本屋に積まれているエッセイ本の数々を見ていないのかと言われてしまいそうだけれど、それなら、そのころに随筆からエッセイへの転換が生じたと言い換えてみようと思う。何らかの意味での文体の変化が生じて、あたらしい文体はアルプ編集者の心に響かず、そして、科学的な随筆を書くのにも適していなかった。

実証可能性は低そうだけれど、アイデアとしてちょっと気に入っている。

[PR]
by ZAM20F2 | 2015-05-10 15:45 | 文系 | Comments(0)
<< アルプと自然の終焉(2) 潜り(むぐり)中 >>