アルプと自然の終焉(2)

「アルプと自然の終焉(1)」ではアルプや自然の書き手がいなくなったことがこれらの雑誌の終焉を、ほぼ同時期に引き起こした原因になっているという説をだしてみたけれど、では、どうしてこの時期にいなくなったのかを考えて見たい。

前の記事に書いた随筆からエッセイへの転換は、文化的な変化を示唆している。その流れで最初に1980年代に随筆の書き手がいなくなった理由として考えたのは、この時代に、小熊英二の言う「1968年の文化の変革」を引き起こした層が社会の中核になったためということであった。確かに、1968年に大学を22歳で卒業した人々は80年代前半には30台半ばから後半で新しい書き手として期待されるところである。
実は、自然の最終号の筆者の1人の本川達雄はまさにこの世代の1人なのだが、この世代で本川以外の、特に物理や化学などの分野での書き手がいるかと考えると、あまり名前を思い浮かばないように思える。しかし、実は、書き手を思い浮かばないのは本川の世代以降だけでなく、それより上の世代もすでに書き手が存在していないように思えるのである。どうも、1968年説では理由を説明できそうにない。

アルプや自然に寄稿していた人々の生まれ年を見てみると、アルプの中心だった串田孫一は大正4年、尾崎喜八は明治25年。一方ロゲルギストエッセイの人々は大正元年から10年程度。それ以外に科学者でエッセイストとして有名な伏見康治は明治42年、朝永振一郎は明治39年、中谷宇吉郎が明治33年、坪井忠二が明治35年、そして少し若手の戸田盛和が大正6年である。印象としては、戦前に高等教育を終えた程度の世代になっている。ここから、もっとも素直に下の世代で書き手が少なくなった理由を考えるなら、旧制高校を含む戦前の教育システムの中で随筆書きが生まれたということになる。確かに、自然の寄稿者は、間違いなく旧制高校から大学への経路を辿っているはずなのだけれど、一方のアルプの寄稿者については必ずしもそのような学歴はたどっていないと思う。そうしてみると、旧制高校の教育よりも、もっと幅広い文化的背景が存在している気分になってくる。

違いを生み出した原因が何であるかについては、憶測するしかないのだけれど、頭の中に浮かびかけているのは、トーキーの出現という、とてもその原因になりそうにないことがらである。

トーキーは昭和の初めに一般的になっていったようだ。それにより活動写真から映画へと、よりビジュアル性の強い物への変化が生じ、それが人々の感性に影響を与えた可能性がある。手塚治虫の漫画のコマ割がが映像的であるという指摘があるが、その映像は決して無声映画ではなくトーキー的なものである。

 では指向性が映像的になると何故描き手がいなくなるのであろうか。この点に関してはロゲルギストエッセイの一つにヒントになることが記されている記憶がある。それは、科学技術に関する事柄をラジオで説明するのとテレビで説明するのでは方法が違うと言う話で、例えば、「犬は味覚がないので苦い物でも平気で食べる」というのを伝えるのに、ラジオ放送では、そのまま事実を伝えればよいのに対してテレビでそれを伝えようとすると、先ず、ある物をにんげんが食べるとすごく苦いような表情をしているのを見せた上で、それと同じ物を犬が食べるようなプロセスが必要となり、単位時間あたりに伝えられる情報量はテレビの方が少なくなる場合があるといった話である。音声および文字と画像では説明の方法論が違うのであり、映像ベースの説明を考えるか、音声ベースの説明を考えるかで、話の組み立てが異なるわけだ。

 アルプの著者がいなくなったという意味合いの一つに文体の問題があったようだ。アルプには、独特の文体のようなものがあるのだけれど、それは単にそこで使われている語彙を用いればよいというものではない何かがあったらしい。それが説明の様式的なものだとすれば、上に記した映像ベースと文字ベースということで、違いが生じてしまったこととの共通性が見えてくる。アルプには画文という絵や写真を含めたエッセイもあるのだけれど、その画像は静止画であって、動画ではないと考えれば、画文も非映像的な作品の範疇に収めて問題ないだろう。

 本当にトーキーの出現が文体に影響を及ぼしているのだとすれば、テレビジョンの発展により、それはさらに一般的に拡がってはいるけれども、基本的な指向性としては、昭和の初めから20世紀の終わりまで変化していないのではないかと思う。しかし、21世紀になって、Internetや仮想現実技術の発達により、新たな文体やら思考様式の変化が始まっている印象がある。

補遺
※トーキーの出現以外に、可能性はないかと考えると関東大震災による江戸文化の物理的消失や、明治期の2つの戦争と第一次世界大戦で戦勝国の末席になったことなどにより生じた、西洋に追いついたという感覚が転換点になったという二つが頭に浮かんで来た。

関東大震災は関東地方ローカルの事象ではあるけれども、これにより江戸から残っていた多くの物が失われてしまい、その結果として江戸文化も消失したというのは多くの人の指摘することである。もっとも、江戸文化の終焉は物理的には関東大震災かもしれないけれど、明治維新後、おおよそ半世紀後の事象であり、維新前に子供時代を過ごした人々の影響がこの時期に薄れていったかもしれない。伝えようとする人の知的背景が江戸から東京に変化したわけだ。

明治期の二つの戦争と、第1次世界大戦の戦勝国の末席になった経験により、欧米に追いついたという印象を持つ人々が出てきたことも、違いを生んだ理由の一つになる。追いつく必要を感じている間は、いわゆる先進国の文明のうちに優れた物を見つけ出して、それを咀嚼して我が物とする努力が求められる。一方で、先進国に追いついたという認識の下では、もはや咀嚼の努力は行われなくなり、伝えようとする事柄も変化していく。
化学本論という大正初期に初版が出た物理化学の教科書がある。熱力学など、旧劇に発展した化学分野を日本に伝えようとの志の下に執筆された分厚い、網羅的な教科書で、驚くべき事に液晶にまで触れられている。この教科書などは自国の文化が欧米諸国に比べて遅れているという認識がなければ出現しない本であろうと思う。

2つほど追加の可能性を挙げたが、関東大震災は全土に及んでいないという点で、そして欧米に追いついたという概念は、競合とは無関係な山岳エッセイには影響を及ぼさないという点で、二つの雑誌の終焉に関する理由としては不充分であるように感じられている。

補遺2
※「アルプの時代」には当時の状況として、情報雑誌等が氾濫するようになり、深田 久弥の百名山を巡るといった、特定の情報に従った中年の登山が盛んになったことが記されている。百名山自体は初出は1960年代前半なので、それから20年程の時を経て、それを元に山登りをする層が出現したわけだ。そういう人たちにとって、寄り道に満ちたアルプ的な山登りは性には合わないわけで、アルプの読者とならないのはうなずけるところである。とはいえ、それらは、読者減少の問題であり、ここで考えようとしている書き手の不在の解答とはならない。書き手となるべき層の変化に目を向けなければならない。

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by ZAM20F2 | 2015-05-11 21:00 | 文系 | Comments(0)
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