実感する化学(改訂版)

実感する化学の改訂版が出た。
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元々は英語の本で英語の題名は「Chemistry in Context」。Applying Chemistry to Societyという副題を持つこの本は、米国の学生向けの化学の教科書であるけれども、そこらあたりに転がっている化学の教科書のように、物資つん成り立ちなんて話からではなく、もっと人類の地球のこれからに関わる話から始まっている。
日本語版は2005年に第5版の訳がでて、2015年に第8版の訳が出版された。題名にあるContextだけれど、英和辞書だと「前後関係、文訳、背景、状況」などという訳語が上がっているけれども、OALDだと上記の訳語に対応する言葉に、「that helps you to understand it」などという文言がついており、日本語の中立的な印象より、もっと積極的な意味を持つ言葉の印象がある。
本でもcontextについて触れられていて、「本書が化学と社会を縦糸と横糸にして織り上げられていることを象徴する。本書は、社会が抱える課題を背景にしてくみ上げられている。また、これらの課題に取り組む意志を持つ教師と学生がいるからこそ本書が成立する。現代社会が直面する課題のほとんど総てに化学が編み込まれて介在している。」と記されている。第5版では表紙デザインは原著とことなっていたけれども、第8版では原著と同じ(だと思う)蜘蛛の巣となっている。Contextは織物由来の言葉だそうで、蜘蛛の巣でもって、そのことや社会との連携を示唆しているとのこと。

第5版と第8版との最大の違いは、グリーンケミストリーを明示的に押すようになっていること。
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第8版では最初にグリーンケミストリーの1,廃棄物は、出してから処理したり掃除したりするのではなく、生成させない。2,生成物を作るために使う原材料の量を最小に抑える。3,使用する物質及び生成する物質には毒性が無いものを選ぶ。4,使用するエネルギーを少なく抑える。5,技術および経済的に可能な限り、再生可能な材料を使う。6,使用する材料には、有用寿命を終えたら無害な物質に分解されるものを選ぶ。という規則が示され、さらに第0章が全体に対する前提として加えられている。
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原本は1冊なのを日本語版では2分冊になっていて、0章は上巻にも下巻にもついているのを見て水増し感を受けたのだけれど、原書でペーパーブックで1年間貸し出しが30ドル(1年間貸し出しなんてシステムがあるんだ! でも米アマゾンのレビューを見ると、★1つで、その理由が「貸し出し後の返送先や方法に関する案内がまったくない」というのもあり、謎な感じだ)、購入が160ドルもするのに対して、日本語版は上下あわせて8000円程度なので、なんか、得した気分にはなる。
取り上げられている内容は、地球温暖化、オゾンホール、化石燃料、水、酸性雨、原子力発電、電池、高分子、医薬品、食料、遺伝子組み換え技術など多岐だけれども直接生活に関わる領域がカバーされている。内容は、読者に考えさせるスタイルを取っている。課題としては、Webから統計データなどを捜してきて考えるものがあり受動的に知識をえるのではなく、外界から入る情報をもとに思考を練り上げることが求められている。
本自体は、科学的に中立な立場に立とうとしているように見受けられる。例えば原子力にしても遺伝子組み換えにしても、どういう物かをきちんと説明した上で、それがもたらす可能性と問題点を記述している。
この本には、熱力学の第1法則や第2法則が出て来るわけではない。また、シュレディンガー方程式や波動関数も出てこない。様々な合成スキームや個々の無機物質の物性なんかも出てこない。そういう意味ではぎちぎちの化学者にとっては学問的レベルの高くはない本であるのかもしれないけれど、そういう人にとっても、知らなかったであろう事柄が、人の生活との関わりを交えて、いろいろと展開される。提示されている問題を考えて身につけるためには、個々の物事を覚え込むのとは異なる次元のきちんとした知力が必要だ。そしてまた、この本を理解することにより、熱力学やら量子化学やらの個々の習得内容が世界にどのようなつながりを持つのかが、より実感できるようになるだろうと思う。
化学の狭い分野の専門家になる人以外にとって、たとえ、理科系でも、この本は、熱力やら量子やら有機やら無機といった個別の知識に関わる教育を受けるより、化学についてより深く認識できる優れた教科書だろうと思う。

実感する化学の日本語版が最初に出されたのは2005年だけれど、その2年後に「日本化学会 科学教育協議会「グループ・化学の本21」編の化学「入門編」を眺めてみると、根本にある思想が大きく異なっていることを感じずにはいられない。
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化学入門編は「身近な現象・物質から学ぶ化学のしくみ」という副題がついている。副題に、社会との関わりを示唆する言葉がないことからも想像つくように、こちらは、あくまでも化学の本。章立てを見ると「物質は粒子からできている」「身の回りの物質を考える」「物質を特徴づけるものは何か」…「身近な現象から気体と溶液の性質を学ぶ」「化学反応によって新たな物質が生まれる」「身の回りの酸と塩基を考える」…という具合だ。確かに、化学反応の章の最後には、「さらに近年は物質の燃焼に伴う二酸化炭素排出量も問題になってきている。これも化学反応式を理解し上で議論すれば、よりよい結論に近付くことができるであろう。」などとは一応は書いてある。でも、実感する化学の「全地球的気候変動に関わる化学」という章立てに比べると、当事者意識の希薄な、そして、学生にものごとを考えさせる姿勢も見当たらないものだ。『化学「入門編」』が専門の化学者による化学の本でしかないのに対して実感する科学は、広い視野をもった科学者による化学の本なのである。

余談になるが、本の中にアラル海の変化を取り上げた衛星写真があった。灌漑により流入水が減ったアラル海が干上がっていく変化が見られる。実はアラル海の縁を20世紀の終わり頃に通ったことがある。道路脇に小さな店があって暮らしている人々がいて、そこの子どもに画用紙と鉛筆をあげて仲良くなったら、親御さんが生きてる結構大きな魚をくれそうになり、さすがに貰っても途方にくれるだけなので、替わりに瓜をもらった。あのときにはまだ湖があって、魚を捕っていたわけだけれども、今ではとても魚を捕れる状況にあるとは思えない。どうやって暮らしているのかと思ってしまった。
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by ZAM20F2 | 2016-03-01 21:29 | 文系 | Comments(0)
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