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芦原中学校

小山田いくさんが亡くなったとのツイートがあったらしい。
信州信濃の芦ノ原中学校を舞台にした漫画が代表作だとおもうけど、芦ノ原中学は存在しないけれど、芦原中学校は小山田さんの地元にちゃんと存在する。
小諸駅から中学校へは両側に桜並木のある細いけれどすてきな道が続いていた。残念ながらしばらく前に区画整理かなにかでその道はつぶされ、桜もすべて切られてしまったらしく、最近にその辺りをうろうろしても、かつての道を見つけられずにいる。
新しい舗装道路にも若い桜が植えられている。何十年か経ったら、木はかつての道のように大きくなるだろうけれど、風情は戻らないような気がして、すこしばかり残念だ。
小山田さん、まだ60ぐらいのはず、ご冥福を。


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by ZAM20F2 | 2016-03-27 08:04 | 文系 | Comments(0)

実感する化学(改訂版)

実感する化学の改訂版が出た。
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元々は英語の本で英語の題名は「Chemistry in Context」。Applying Chemistry to Societyという副題を持つこの本は、米国の学生向けの化学の教科書であるけれども、そこらあたりに転がっている化学の教科書のように、物資つん成り立ちなんて話からではなく、もっと人類の地球のこれからに関わる話から始まっている。
日本語版は2005年に第5版の訳がでて、2015年に第8版の訳が出版された。題名にあるContextだけれど、英和辞書だと「前後関係、文訳、背景、状況」などという訳語が上がっているけれども、OALDだと上記の訳語に対応する言葉に、「that helps you to understand it」などという文言がついており、日本語の中立的な印象より、もっと積極的な意味を持つ言葉の印象がある。
本でもcontextについて触れられていて、「本書が化学と社会を縦糸と横糸にして織り上げられていることを象徴する。本書は、社会が抱える課題を背景にしてくみ上げられている。また、これらの課題に取り組む意志を持つ教師と学生がいるからこそ本書が成立する。現代社会が直面する課題のほとんど総てに化学が編み込まれて介在している。」と記されている。第5版では表紙デザインは原著とことなっていたけれども、第8版では原著と同じ(だと思う)蜘蛛の巣となっている。Contextは織物由来の言葉だそうで、蜘蛛の巣でもって、そのことや社会との連携を示唆しているとのこと。

第5版と第8版との最大の違いは、グリーンケミストリーを明示的に押すようになっていること。
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第8版では最初にグリーンケミストリーの1,廃棄物は、出してから処理したり掃除したりするのではなく、生成させない。2,生成物を作るために使う原材料の量を最小に抑える。3,使用する物質及び生成する物質には毒性が無いものを選ぶ。4,使用するエネルギーを少なく抑える。5,技術および経済的に可能な限り、再生可能な材料を使う。6,使用する材料には、有用寿命を終えたら無害な物質に分解されるものを選ぶ。という規則が示され、さらに第0章が全体に対する前提として加えられている。
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原本は1冊なのを日本語版では2分冊になっていて、0章は上巻にも下巻にもついているのを見て水増し感を受けたのだけれど、原書でペーパーブックで1年間貸し出しが30ドル(1年間貸し出しなんてシステムがあるんだ! でも米アマゾンのレビューを見ると、★1つで、その理由が「貸し出し後の返送先や方法に関する案内がまったくない」というのもあり、謎な感じだ)、購入が160ドルもするのに対して、日本語版は上下あわせて8000円程度なので、なんか、得した気分にはなる。
取り上げられている内容は、地球温暖化、オゾンホール、化石燃料、水、酸性雨、原子力発電、電池、高分子、医薬品、食料、遺伝子組み換え技術など多岐だけれども直接生活に関わる領域がカバーされている。内容は、読者に考えさせるスタイルを取っている。課題としては、Webから統計データなどを捜してきて考えるものがあり受動的に知識をえるのではなく、外界から入る情報をもとに思考を練り上げることが求められている。
本自体は、科学的に中立な立場に立とうとしているように見受けられる。例えば原子力にしても遺伝子組み換えにしても、どういう物かをきちんと説明した上で、それがもたらす可能性と問題点を記述している。
この本には、熱力学の第1法則や第2法則が出て来るわけではない。また、シュレディンガー方程式や波動関数も出てこない。様々な合成スキームや個々の無機物質の物性なんかも出てこない。そういう意味ではぎちぎちの化学者にとっては学問的レベルの高くはない本であるのかもしれないけれど、そういう人にとっても、知らなかったであろう事柄が、人の生活との関わりを交えて、いろいろと展開される。提示されている問題を考えて身につけるためには、個々の物事を覚え込むのとは異なる次元のきちんとした知力が必要だ。そしてまた、この本を理解することにより、熱力学やら量子化学やらの個々の習得内容が世界にどのようなつながりを持つのかが、より実感できるようになるだろうと思う。
化学の狭い分野の専門家になる人以外にとって、たとえ、理科系でも、この本は、熱力やら量子やら有機やら無機といった個別の知識に関わる教育を受けるより、化学についてより深く認識できる優れた教科書だろうと思う。

実感する化学の日本語版が最初に出されたのは2005年だけれど、その2年後に「日本化学会 科学教育協議会「グループ・化学の本21」編の化学「入門編」を眺めてみると、根本にある思想が大きく異なっていることを感じずにはいられない。
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化学入門編は「身近な現象・物質から学ぶ化学のしくみ」という副題がついている。副題に、社会との関わりを示唆する言葉がないことからも想像つくように、こちらは、あくまでも化学の本。章立てを見ると「物質は粒子からできている」「身の回りの物質を考える」「物質を特徴づけるものは何か」…「身近な現象から気体と溶液の性質を学ぶ」「化学反応によって新たな物質が生まれる」「身の回りの酸と塩基を考える」…という具合だ。確かに、化学反応の章の最後には、「さらに近年は物質の燃焼に伴う二酸化炭素排出量も問題になってきている。これも化学反応式を理解し上で議論すれば、よりよい結論に近付くことができるであろう。」などとは一応は書いてある。でも、実感する化学の「全地球的気候変動に関わる化学」という章立てに比べると、当事者意識の希薄な、そして、学生にものごとを考えさせる姿勢も見当たらないものだ。『化学「入門編」』が専門の化学者による化学の本でしかないのに対して実感する科学は、広い視野をもった科学者による化学の本なのである。

余談になるが、本の中にアラル海の変化を取り上げた衛星写真があった。灌漑により流入水が減ったアラル海が干上がっていく変化が見られる。実はアラル海の縁を20世紀の終わり頃に通ったことがある。道路脇に小さな店があって暮らしている人々がいて、そこの子どもに画用紙と鉛筆をあげて仲良くなったら、親御さんが生きてる結構大きな魚をくれそうになり、さすがに貰っても途方にくれるだけなので、替わりに瓜をもらった。あのときにはまだ湖があって、魚を捕っていたわけだけれども、今ではとても魚を捕れる状況にあるとは思えない。どうやって暮らしているのかと思ってしまった。
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by ZAM20F2 | 2016-03-01 21:29 | 文系 | Comments(0)

教科書など

器具の他に教科書などの展示もある。
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はなかなか長閑な感じでよろしい。
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な感じも悪くない。
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な教室で、もっとも明治時代のこの辺りは電気は来ていなかっただろうとおもうけれど、そんなところで、ちびちび達が学んでいたわけだ。少し高学年の
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なものも置いてあった。
ただ、
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なんかがかかわる時代になると、教科書にも
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な部分が出てくるようだ。
ほんの70年前に起こっていたこと。この教育が行われていた時代のことを考えると、目上への尊敬を強要するような道徳には胡散臭さを感じてしまう。
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by ZAM20F2 | 2015-11-26 22:18 | 文系 | Comments(0)

つんでみた

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これは、数枚積んだもの。ものの高さでなく、カメラのピントを変えている。
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by ZAM20F2 | 2015-10-28 21:22 | 文系 | Comments(0)

難しくない?

久し振りの電車の中の学習教室の広告。
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ここのところ、この学習塾の広告を取り上げていなかったのは、眺めていて割と真っ当と感じるものが続いていたからで、今回のものも、問題としては悪くないと思うのだけれど、第一印象として、中学受験で子どもに尋ねるには難しすぎるのではないかという気がしたので、何でそう感じるのかを含めて取り上げてみることにした。

出題元の模範解答は存在しないけれど、この問題を掲載した学習教室がどう考えているかというと、解答例としては、1,日本近海から産卵場所へ向かう海流にそって親鰻の捕獲を試みる。2,河口付近で捕まえた親鰻に標識をつけて放流して海洋上で捕獲してルートを確認する。という2つがあり、その背景として、親鰻が日本の河川で成長すること。孵化した稚魚は海流にのって日本に到達すること、などから推論すると記してある。

でも、私が採点者だったら、この答2つには低い点しか出さないだろうと思う。何故なら、問題文に書いてある情報で、一番大事なところが、この解答では考慮されていないからである。

そもそも、稚魚がどうやって日本に来るかは分かっているけれども、親がどうやって産卵場所に向かっているかは分かっていないから、この設問がなされている。このことから分かることは、親鰻の捕獲は稚魚の捕獲に比べてはるかに困難であるということだ。

 稚魚と親鰻では、当たり前のことではあるが、親鰻の方がはるかに大きい。それにもかかわらず、親鰻が産卵場所へ向かうルートが分かっていないのは、産卵場に向かう親が途中で捕獲されていないからのはずなので、その理由を考えずに、親鰻を捕獲するという回答は低い点しか与えられなくて当然だろうと思う。

 また、東日本大震災で海に流出した物の一部が後に米国に漂着したという事実から分かるように、日本に向けて流れてきた黒潮は決して鰻の産卵場所には直接は向かっていないので、産卵場所に向かう海流沿いに調べるという回答にも高い点を与える必要はないだろう。
(Web情報によっては、小笠原海流と称するものによって向かうという説もあるようだ。でも小笠原海流にのるためには黒潮を突っ切らなければならないし、日本海側や台湾や中国の日本鰻がこのルートとは考えにくいので、やはり答としては妥当ではないだろう)

 親鰻が捕獲されていない理由としてざっくり思いつくのは、産卵場に向かう親鰻の絶対数が少ないか、ある程度の深度の海中を進むために捕獲困難であるか、予想外の場所を通って向かっているかだろうと思う。

 こうなると、鰻に発信器をつけて追跡したくなるし、そういう回答も存在すると思うのだけれど、残念ながら海中は電波が通らないので、通常の発信器ではだめだ。また、鰻の行動を邪魔しないサイズを考えると、大きな出力で音波を発するような装置も取り付け困難だろうと思う。


 個人的に難しいなと思ったのは、学習塾の回答は予想以上に低レベルで論外として、中学受験ぐらいの子供は知識として電波が海中を伝播しないことを知らないので、発信器をつけるぐらいで満足するのではないかと思ったためだ。


 ではどうするかと言われたら、鰻の活動を妨げないサイズで、鰻の泳いでいる水深と水温を一定時間間隔で記録し、ある時間経過後に鰻本体から分かれて海面に浮上し、浮上した場所の緯度と経度をGPSにより記録し、その後は、一定間隔で信号を発振して回収されるのを待つようなデバイスを開発して、沢山の鰻につけて海に放すというところかと思っている。

 私が採点者だったら、こんな感じの答にはよい点をつけるだろうと思うけれど、それを中学受験者に要求するのは、ちょっと困難で、出題校がどの程度の答を期待したのか知りたいところなんだけれど、残念ながら出題校のインタビューが出ていない。。




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by ZAM20F2 | 2015-10-19 21:18 | 文系 | Comments(0)

自称マニアックな人をマニアックだなあと思うことが少ないことについて:自戒を込めて

個人的な経験の範囲では、本当にマニアックだなぁと思う人の口から、自分自身のことをマニアックであると言うのを聞くことは少ない。

これは、考えてみれば当たり前の事である。というのは、それらの人が行っているのは、その人の論理的必然の結果であって、マニアックであると思われるためにやっているのではないからである。マニアックに見えるのは回りの人から見た行動パターンであって、その行動を引き起こしている原因ではない。従って、それらの人に「マニアックですね」と云うと、マニアックであることを否定した上で、如何にその人の行動原理は単なる拘りではなく、合理的で必然的なものであるを説明してくれるのが素直な応答である。

その人にとっては、世間の人が同じようなことをやらない理由の方が謎なのである。とは言え、マニアックであると言われ続けた結果として、世間的には、その人の行動パターンの方が少数派であることは認識していて、説明しても理解されなかった経験を持っていると、「マニアックですね」という問いかけに「そうですか」程度のの答で受け流すことはあるように思う。でも、満面の笑みで「マニアックでしょう」と答えることは間違ってもない。

ただ、個人的な印象だけれども、先に進むのがゆっくりになって、自分のやっていることを振り返る時間が増えるようになると、マニアックという言葉を使うのに抵抗がなくなっていくような気がする。

論理的な必然でやっているなら、総ての人に推奨すべき事柄で、一部の人が、必要以上の拘りでやっていることではない事のはずだ。それを、マニアックな行為と言ってしまったら、そこに必然ではない要素が紛れ込んでいる事になる。

というわけで、たいしたことをやっているわけではないけれども、自称マニアックに陥らないように、それから、マニアックだなぁと思う人を見つけたら、その行為の背景にある論理と経験のかけらでも吸収するようにしたい。
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by ZAM20F2 | 2015-10-08 21:33 | 文系 | Comments(0)

伝えようとする言葉について

お茶の水からふらふらと歩いていたら、九段下に出てしまい、そのままお堀の傍に経っている建物に吸い込まれてしまった。エレベータで上まで上がって降りてくる作りになっているのだけれど、中に入るのははじめて。いくつかの時代毎の暮らしぶりなどの展示があるのだけれど、
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という70年以上前のポスターを眺めて、暗い気持ちになる。こんな時代には
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という感じのたすきを掛けた小母さん達が、憲兵以上に近所に目を光らせて、今で言うところのパワハラをかけまくっていたのだろうと思う。

問題は、どうしてそうなっていくのを止められなかったかだ。それをきちんと理解した上で対処方法を考えない限りは、同じような流れが起こったとしても食い止めることは困難だろうと思う。今の世の流れに対して、懸念の声は随分と上がるようになっているのだけれど、ストレートな懸念表明が多く、ここ2,30年間の所謂革新政党のスローガンと同じように、人々の頭の上を通り過ぎていくような感じがする。そんなことを考えている時に、「図書」8月号の高橋源一郎さんの「見える戦争と見えない戦争(下)」の中の一節が目に入ってきた。

「でも、『風立ちぬ』を曇りのない目で見ると、ピュアで、与えられた仕事を淡々とこなす日本のサラリーマンのように、あるいはいまの若者のようにも見えます。その結果起こることはわかっているのだけれど、主人公の行ったことや考え自体は決して異常ではない。誰にでもあったかもしれないこととして『風立ちぬ』は描かれています。そのことにより、罪深いものとしてだけの戦中の出来事ではなく、良いことも悪いことも含めたすべての時間が七十年後の世代にも伝わるように作られていると思いました。ぼくが十代だったとしても、ああ、こんあ時代があったんだな、こうやって人々は戦争の中に入っていったんだな、他人ごとじゃないね、と思うでしょう。しかし罪を問われる画面を見せられたら、むかつくかもしれない。

中略

厳しい言い方をして攻撃的になればなるほど、多くの人が背を向ける。できるだけ多くの人たちにこちらを向いてもらうことしか、この社会が悪い方向へ傾斜していくのを防ぐ道はないのではないでしょうか。」

話は変わるが、自衛隊を海外派遣するというやりとりの中で、海峡封鎖により石油が日本に入らなくなるのが国家の危機的状況という話が出た気がする。70年以上前に、極東の島国が南方に進出したのも、西の方の国の経済封鎖で入らなくなった石油を求めてという要素がある。

考えて見れば、今の政権が議会で多数を占めるようになったのも、経済政策を旗印にしたことが大きな要因だ。経済政策といっても、カジノによる経済効果などという、簡単にいうとばくちの寺銭というヤクザの親分の領域の話も混ざっていて、とても一国の宰相の台詞とは思えないものまで入っていたわけだけれども、人々はそれでも金銭的な豊かさを要望しているわけだ。

事情は原子力発電所でも似たようなものだ。事故の事を考えなくても、廃棄物処理のコストを考えると、原子力は非常に高い電力になるはずなのだけれど、処理のことは将来に先送りして、今現在は費用を計上しないので、安価にみえる料金設定が可能になっているに過ぎない。その電力が欲しいという経済団体の後押しにより再稼働を進めているわけだから、この国の未来をつぶすことにより現在の豊かさを確保しようとしているわけだ。戦争の可能性があるにもかかわらず南方に石油を求めて進出したのと同様の発想形態だ。

物質や金銭的な豊かさや安定ではない価値を作り出すのは困難なことだ。既に、豊かな暮らしをしている人々に対しては、オークヴィレッジのような価値観を示すことも可能かもしれない。でも、空中窒素を技術の力で固定化して得られた肥料を使わなければ、全世界の人口をまかなえない現状において、非技術的な方向性を目指すのは、非常に贅沢な行為でしかない可能性がある。

と云うわけで、使えそうな代替案が見つかる気がしないので、自分で考えなければならないわけなのだけれど、どうも、私自身の発想形態が世間様からはずれているようで、考えた結果が多数の人の共感を得そうにないのが困ったところだ……


※余談になるが、九段下の脇にある建物の5F(無料で入れる)には昔の映像や大学校歌や会社社歌を聴けるところがある。そして、会社社歌の中には「カメラあるところ観音あり」などという有り難い歌が聴けるものもある。カメラやらレンズを買い込んでいると、菩薩様がやってきて救われることになるらしい。沼の住人は来世が約束されていると喜んでよさそうだ。


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by ZAM20F2 | 2015-08-16 08:36 | 文系 | Comments(0)

まちがっているのだけれど

長岡科学技術大学のKawaii理科プロジェクトとやらが、テレビにでて偏光板の間にセロテープをはさんでの着色をやっていたのだけれど……、説明として最初の偏光板で直線偏光になる(ここは正しい)、複屈折物質でプリズムと同じように、光が波長毎に分かれて(分かれない)、しかも波長毎に直線偏光を保ったまま振動面が回転する(直線偏光ではない、所謂旋光性の回転とはまったく違った現象)、そしてもう一枚の偏光板で、透過軸と平行な波長のみ透過する(間違い)と説明していた。

これ……、どこかの科学教室で原理を理解していない人が説明するなら、まあ、笑うしかないけれども、一応、大学の、それも助教の説明としては駄目すぎる。本人が、上記の説明が正しいと信じているなら、助教の看板を下ろした方がよいレベルの無知さだし、原理は分かった上で、子ども向けの説明として上記のような説明を考えたのなら、自分らの行為が反科学的なものだときっちり認識すべきだ。こんな説明で物事が分かったかのような気になることは、きちんとした学習意欲をそいで、将来的には子供を科学から遠ざけてしまう危険性をはらんだ物なのだから。

それにしても、実験教室の人々は、どうして学校で習うことの理解を深めるような科学実験ではなく、目先のことだけで、その年齢の子供にはきちんと原理が説明できないような実験をやりたがるのだろう。如何に迷惑な行為であるかを考えたことがあるのだろうか。
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by ZAM20F2 | 2015-08-16 08:32 | 文系 | Comments(0)

組織の上層部にいる人間の振る舞いの変わらなさについて(慮人日記より)

前回は技術的指向性が時間を経ても変わらないことを取り上げたけれども、それ以外の精神性や社会システムも残念ながら変わっていない気がする。慮人日記には

和知閣下の印象
台湾軍兵器部長や児玉中佐の紹介状を持って和知閣下のところに行く、十四軍司令部の奥の間に大きな机を置いて、どかりと座っているところは正に武将型の軍人という感じだ。外出するとかで話ながら服を着替えだした。当番兵にズボンをはかせる。エムボタンを掛けさせる。靴を履かせる。まるで昔の殿様然としたものだ。ご自分は扇風機に吹かれている。軍人も閣下になるとたいしたものだ。
閣下だって唯の軍人だ。軍人は自分のことは自分ですべきだ。公私混同。国家の干城として招集された兵にエムボタンまではめさすとは、はやあきれかえったものだ

などという閣下の話が出てくるのだけれど、少し前に、私用のゴルフに行く時にハイヤー代を所属機関に支払わせかけた会長がいる。そのことが問題になって、最初から自分出払うつもりだったと主張したけれども、そもそも、私用のハイヤーの予約を部下にやらせたために組織に請求が行くことになった。つまり、払う、払わない以前のレベルとして、公的な人間を私用に使っている。この時点で、人間として駄目なわけである。ただ、それが当たり前として通っているということは(この点は問題にならなかった)、和知閣下は今でもそこら中の組織に存在しているのだろうと思う。

また、

無理な命令
命令の中には無茶なものがたくさんある。できぬといえば精神が悪いと怒られるので服従するが、実際問題として命令は実行されていない。「不可能を可能とする所に勝利がある」とえらい人は常に言うが。

などというのを見ると、チャレンジと称して、実現不可能な利益を部下に要求した社長の話を思い出す。具体的な方策なしに、部下に不可能な要求をしながら、それを実現するために必要な不正行為は指示していないなどというのは、人間性か知能のどちらかが非常に劣っているはずである。そんな人間が何代か続いて大企業の社長になれるわけだから、大企業の社長になれるかどうかの大きな部分は人として優れているかではない別物で決まっているのだろうと思う。

そしてまた、

女を山へ連れ込む参謀
兵団の渡辺参謀は妾か専属ガールかしらないが、山の陣地へ女(日本人)を連れ込み、その女の沢山の荷物を兵隊にかつがせ、不平を言う兵隊を殴り倒していた。兵団の最高幹部がこの様では士気も乱れるのが当然だ。又この参謀に一言も文句の言えぬ閣下も閣下だ

なんていうのは、ここまではいかないけれど、似たような印象の議員さんもいるわけだ。

世の中には、戦後民主教育は失敗だったという人がいるけれども、こうした人々が社会的地位のあるところにいる現状を見ると、確かに失敗だったと言わざるを得ない気がする。

付記:部下に私用をさせた会長については、その会長を選んだ委員の一人は苦言を呈したあとで「あんな人だと思わなかった」というような事を発言していたような記憶がある。このことは、面接で人間性を見る事が如何に困難であるかを示している。なにしろ、大きな組織の会長なので、面接といっても10分やそこらではなく、時間をかけて行われていると思う。そして、面接官もかなり社会的経験を積んだ人々のはずだ。それが、こんな結果になるのだとしたら、大学入試における面接にはとても選別能力を求めることは出来ないだろう。


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by ZAM20F2 | 2015-08-15 16:44 | 文系 | Comments(0)

技術的指向性の変わらなさについて(慮人日記より)

「慮人日記」の著者は小松真一さん。発酵の技術者で、第2次大戦中に日本陸軍専任嘱託として南方で植物由来の燃料工場に関わった方。この本は、投降して捕虜になった後に収容所で書かれた記録がもとになったもの。本人が1973年に亡くなったあと、ご家族が記録を私家版として、後に筑摩書房から書籍として発行されたものだ。
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この本には、日本が戦争に敗れた理由として21の要因が記され「日本人には大東亜を治める力も文化もなかった」と総括している。後に山本七平さんが21の要因を解説する形で本にもされている。

本を読みながら、国民性というのは変わらない物だなぁとしみじみと感じている。小松さんは、朝鮮にあったドイツ人設計の工場や、比島にあった米国流の工場のことも記されているのだけれど、ドイツ人設計の工場は

新義州の朝鮮無水酒精会社のショウラー法による木材酸糖化と流動発酵
ショウラー博士設計になるだけに堂々たるものがある。日本人の設計とはまるで異なっている。計器を沢山用いているのには驚かされた。一つのタンクをつくるにも日本人の考え方とはまるで逆だったが、良き試料とヒントを得て帰る。

と、どうやら、数値計測をきちんとした上で、原理に基づいて稼働させるというシステムになっている一方で、比島にある米国流の工場は


比島の酒精向上
台湾で我々がやっていた酒精工場の設計、独逸人の設計になるショウラー法などと米人の設計を比較してみるとかなりの違いがある。
 彼らのやり方は麦酒会社で作った麦酒公募(麦酒醸造の副産物でバターの如くパラフィン紙に包装してある)を冷蔵倉に入れておき、これを水に溶かして糖蜜を溶かした発酵槽に種として入れるだけで、酒精発酵を簡単に終わらせている。
 台湾のように純粋培養をした酵母を工場で更に純粋培養し、酒母をつくって加えていくというような手数のかかることや、独逸人の考えたように多くの機械を要するやり方とは全く異なっており、酵母は出来合の物で間に合わせるので、酒精工場としては酵母関係の技術者を全く必要としない。素人で充分にやっていける。
 次に蒸留器も日本では、醪塔、精留塔、フーゼル油分離塔等のあるギョーム式を採用し、酒精の品質を最上のものとしているのに対し、仏国製のルムス一点張りで醪塔の上に精留塔をつけ、アルデヒドもフーゼル油もぬかずに酒精の品質を悪くしている。どうぜ自動車用だというので平気でいる。したがって蒸留操作は極めて簡単である。神経が太いというか実用向きというか。もっとも、日本人は不必要に神経質で、化学的に純粋でないと何だか気が済まず、自動車なんぞに用いるのに、不必要なまで手をかけて品質の良い物を造っている。
酵母を多量に加えて安全な発酵をさせるあたりは、まさに物量主義のあらわれだ。要するに米人の設計した酒精工場は素人だけでも運転できるようになっている。

という具合で、必要なものを非熟練労働者でも作れるし、必要以上の純粋さは求めないという設計思想で作られている。

一方極東の島国の工場は

樺太の王子製紙の亜硫酸パルプの廃液利用、大岩源吾氏の流動発酵
ショウラー法のごとくやたらに金をかけずにやっているのは、さすが日本人の設計だ。朝鮮無水も亜硫酸パルプの技術をいれたら、木材糖化にあんなに金をかけんでもすんだのではないかと思われ

とあり、独逸式に比べると、計測によって状況を把握するのではなく、経験値に基づいて操作をするような印象を与えるものになっている。そして、米国流との比較で記してある日本流を見ると、明らかに必要以上の純度を作り出す装置になっていて、そして、そこには熟練労働者を必要とする形になっている。

これは、第二次世界大戦前の話であるのだけれども、それから70年以上経った後でも、極東の島国の売りの一つは熟練労働者に支えられた過剰な品質なわけで、やっていることは変わらないよなぁと思えるところだ。
極東の島国のやり方は、人件費が相対的に安い間は強かったけれども、人件費が相対的に高くなった後は、競争力を失ったのは歴史の教える所だけれども、そこからの転換は、残念ながら巧くなされてはいないように思う。


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by ZAM20F2 | 2015-08-14 18:30 | 文系 | Comments(0)