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大地の動きを探る(承前)

山がどうして出来たかが、俯瞰的であるのに対して、大地の動きをさぐるは、大地に変化をもたらすもの総てを扱いのではなく、杉村が扱ってきたものを題材に話を進めている。個々のトピックは、ある程度の独立性がある。
最初に出てくるのは活褶曲である。これは、今での褶曲運動が続いている褶曲で、もともとは大塚が指摘したものである。
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杉村は大塚より詳細な調査を独力で行う。そのために使ったのは2台の気圧計。1台の自記機能のあるものを参照圧力にして、もう一台で土地の僅かな上下を圧力を使って測定した。
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今だったら、もっと便利な道具を使いそうだし、それこそ便利な道具がないと、そんな測定は不可能だと思いがちだけれども、素朴な道具で、結構面白いことが出来るのを教えてくれる。
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続いての話は東京の地盤沈下だ。これは地下水のくみ上げにより生じることでかつては、大きな問題となり、その結果として地下水のくみ上げ規制がおこなわれるようになったものだ。
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沈降と地層構造の関係の話から、有楽町層といった海底で堆積して現在は陸上にある地層の話へと進んでいく。
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そして、その先に、日本の各地に有楽町層相当の地層があることから、その成因は陸地の隆起ではなく、海面の変動であろうという話になっていく。どうやら、昭和20年代には、地球規模での海水面の変動があったことは想定されていなかったようなのである。
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大塚は1950年に亡くなるまで、有楽町層が海面変動により作られたというアイデアには賛同しなかったらしい。
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もちろん、海面変動とは別に陸地側の沈降や隆起現象も存在する。関東大震災における房総の隆起などを上げて、地震に伴う土地の変動へと話が移っていく。
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続いて出てくるのは水鳥断層の写真。
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地震直後の有名な写真の他、取り直した写真も出てくる。
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この写真は杉村の後書きからすると、岩波映画の方がわざわざ取りにいったものだろうと思う。水鳥断層は岐阜の結構山奥。コストのかかった写真である。
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は2006年に出かけていった時の物。断層の脇には博物館が出来ていて、地層の断面を見る事も出来るようになっている。

そして、その後に阿寺断層など、地震断層の話が続いていく。
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断層地図もあるけれども、今の断層地図に比べると、載っているのが少ない気がする。
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初動の押しと引きなんて話も出てくるけれど、この時代の人が、今のように地震の直ぐ後にCMT解が出てくるのを見せられたら驚愕するだろうなぁと思う。
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でも、その一方で、人間の記録に残るような時間スケールでは動いていない断層の動きと、地震予知に関する理解は、この時代に比べてあんまりというかほとんど進んでいない気がする。
最後に室戸岬の動きから四国沖の地震の話がある。
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周期を見ると最短で90年ぐらいだからあと20年ぐらいで危険域に入るのは確かだろうけれども、東南海が騒がれるのは、単に地震学者が、かなりの強気で発生を予言できるからであって、それ以外、そこら中に時限爆弾が埋まっていることをわすれてはいけない。地震予知なんかに金をだすよりは防災対策こそきちんとお金を配分すべきことがらのはずだ。



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by ZAM20F2 | 2015-07-08 21:54 | 文系 | Comments(0)

「大地の動きを探る」:少国民のためにから岩波科学の本へ

しばらく前に、戦前から戦後にかけて岩波から出版されていた「少国民のために」のシリーズを取り上げた。このシリーズは1970年頃に終焉を迎え、そして、それに代わるように岩波科学の本のシリーズが発刊された。
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「大地の動きを探る」はこのシリーズの一冊で、このブログで前にお見せしたこともあるのだけれど、その時は中身の紹介をしなかったので、改めて取り上げることにした。

著者は杉村新。「山はどうして出来たか(2)」で、山はどうして出来たのかが小堀杏奴がリライトしたことを伝えられたお弟子さんである。
「山はどうして出来たか」が、地形の変化に関することを全般的に扱った物であるのに対して、「大地の動きを探る」は杉村自身の研究の流れにそって、地形の形成に関する話を紹介していっている。杉村自身の後書きは

あとがき(大地の動き)

この本は、私が自分の研究や友人達の研究について体験した、研究のいきさつを、物語り風にお話ししたものです。その合間に、地殻変動を中心とした地球科学上の初歩的な解説と、自然科学を研究する時にしばしばぶつかる基本的な概念の解説とを、まじえてみました。
 私はこれらの事柄をそれぞれ整理して別々に語るよりも、いっしょくたに語る方を選びました。それは、これらが本当は互いに切り離せない関係にあるからです。
 中略
 研究というものは、迷路を歩くようなものです。始終袋小路につき当たっては引き返しているのです。それをいちいち書いていたら、読む方もうんざりしてくるでしょう。
 
 中略
 最初からずっと共著者といえるほど面倒を見ていただいた編集部の栗原一郎氏と、この本に命を吹き込んだようなすばらしい写真を何枚もとられた岩波映画の関戸勇氏と、最後に通読してもらった高校時代からの友人笠松草一郎氏をしるすにとどめておきます。
 一千九百七十三年六月二十八日 福井地震の二十五周年めに」

というわけで、リライトこそないものの、随分と編集の人が関わって出来上がった一冊のようである。ところで、大塚の本の結びの部分は
「私はこの本で、山について諸君に正しい知識をあたえようとつとめた。中略 また残念ながら現在の学問ではまだはっきりしていないことが非常に多い。この本で話したことは地質学という学問の一部である。地質学は物理学、化学、生物学などの知識を用いて地球にはたらいているいろいろな現象を研究する学問である。中略 わからないところを明らかにしようとして一所懸命に研究を続けている。しかし多くの問題は、諸君に残されるだろう。後略」
と記されているのだけれど、大塚の没後にマントル対流という概念が提唱され、大陸移動説が復活し、プレートテクトニクスへの発展していく。杉村の本は、それらの進展の上にあり、残された問題に新しい視点からの内容を付け加えるものになっていると思う。
本の内容は、エントリーを改めて紹介する。
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by ZAM20F2 | 2015-07-07 21:26 | 文系 | Comments(0)

東京名物食べある記に見る昭和初期の雑誌記事の文体

食べある記の中にある豊田屋では、猿肉を出していたことを紹介したけれど、その豊田屋の紹介記事は次のように始まる。

もゝんじい 豊田屋
久し振りに両国橋を渡りました、寒い晩です、川風が身にしみじみと堪えます。橋詰の右角もゝんじいの豊田屋、古い店です、陳列窓に猿の頭の黒焼き孫太郎蟲と薄気味のよくないものが色々列べられています、入口を入ると新築早々と見えて木の香も新しいばかりです、広い幅の梯子段を一行六人トン々々(原文ではく方くり返し記号)と勇ましく上がりました定連のS、M、H、久夫に今宵の相手はもゝんじいとあって新手の加勢としてK、N、の二人が加わりました。

句読点は注意して原文のままに拾っている。この後の文章でも現在なら句点を使うであろうところに読点を使っていて、ですます調の文体と合わせて、なんとなく子供の作文を読んでいる気分にもなる。
もっとも、著者は複数らしく、本の総てがこのような文体ではない。例えば亀戸のくず餅は、


亀戸のくず餅
暖かい日射がお壕の水を膨らませています。「今日の食べ歩き?」原稿に筆を入れていたSが頭を上げました。「そうですね、今日はどこか-どうでしょう亀戸のくず餅は」Mが書き終えた原稿の端をキチンと揃えて、クリップで留めながら答えました。

とですます調だけれども、現代的な句読点の使い方がされている。そしてまた、目黒の栗めしは

目黒栗めし
珍しい秋晴れで表へ出るに外套もいらない程の暖かさだ。栗飯の目黒へ行こうという相談がまとまって-目黒の栗飯と云わない所が名物食べあるきの本性を忘れぬところである-一行四人S、M、H、小ガ武、勢揃いして目黒へ自動車を飛ばす。行人坂をくねくねと下って左へ切れて不動前の入口に車を止める。門前には昔ながらの角伊勢、大國屋が古い構えでどっしりとかまえている。

とですます調でない小気味よい文体だ。蒲田、穴守方面も小気味よいのだけれど、句読点の使い方h現代的ではない。


蒲田、穴守方面
蒲田で乗替た穴守行電車は田甫の中を走って行く、所々に乾されている海苔の青さに暖かい冬の陽ざしが一杯に当たっている。時折磯の香りが鼻をかすめる、穴守近く電車は小さな川を渡る、船宿に「つり船でます」の看板が見える、川一筋に見える羽田の海は、潮が一杯に膨んで、小波が舷(みよし)に光る釣船の影も長閑だ。電車はやがて穴守に着いた。

それにしても、ほんの少し前には羽田の手前に田甫があって、江戸前の海苔が乾されていたわけで、そういえば、これより少し下った時代だけれど、小田急が多摩川を渡るあたりで川で泳いで遊んでいたという話を聞いた事もあり、東京も中心部を少し離れれば、田舎だったんだなぁとしみじみと思う。

話がそれてしまったけれど、上の4つ、どれをとっても現在のグルメガイドやエッセイのスタイルとは違っている。句読点の使い方や、間延びしたですます調なんてあたりも違ってはいるのだけれど、今のものに比べて付加情報が少なく、全体にすっきりとまとまっている。たとえば、店の来歴などという記述がない。これは、上にあげた店だけでなく、たとえば神田藪そばでも

神田連雀町の藪、先ずそばやとしては代表的な定評のある店の一つだろう。更科のそば愛好家には、あるいは藪そばは不向きかも知れぬが、藪はまた藪でたいした藪党をもっているものである、店構えはちょっくら小粋なもの、縄暖簾をくぐると、相当客で賑やかだ。
と店構えも小粋なの一言で済ませている。食べ物の内容についても、

つゆもよしたねもよし。勿論そばはうまく、薬味のわさびがこれまた上等で流石に藪だと大体一行感心する。 -中略- 化粧室の綺麗なことは昔から有名だが、バラック建てとは言え、清潔でよい。

とあっさりした物。これが、今のグルメガイドだと「北海道の契約農家で育てた蕎麦を熱がこもらないように石臼で毎朝ひいているだけあって」なんて感じの付帯情報やら蘊蓄が山ほど着いてくるだろうと思う。

藪だけでなく、豊田屋さんでも、

見た所羆の肉は黒ずんで、その中に濃い血の色をほの見せる咲き切って地に落ちた寒椿の日陰に、そのまま一日二日と経った色である。 -中略- ぐぢぐぢ煮えて来たのを先ず羆の肉片を一片箸に挟んで、ペロリ舌に載せる。濃厚な脂と獣特有の山野の土の香りとでも云いたいような香りが、混沌として味覚に譬がたない愉悦を与える、噛みしめてコクがある、之迄食べた総ての肉の中で最上味に位すべき物であると思った、

と、著者が感じたことをストレートに持ってきている。間違えても羆とアイヌ猟師の格闘の物語りなどは出てこない。アルプと自然の終焉のエントリーのところで、アルプが廃刊になるのと入れ違いぐらいに、百名山を読んでそれらの山を登ることを目的にする層が出はじめたと記したけれども、グルメガイドにしても、だんだんと書き手も読み手も、付帯情報やら蘊蓄やらで相互武装する必要が生じてきたようだ。なんか、アルプの終焉のころを境に、グルメ本の内容が変わったのかを確かめたくなってしまった。


ところで、豊田屋さんの記事はですます調で始まったはずだけれども、いつの間にかである調に変わっている。とても同じ人が書いているとは思えない状況だ。そして、豊田屋の記事の終わりは、


石原の電車停留所前、木村屋という喫茶店、所柄とは思はれぬハイカラな建物、中の作りも凝っていて銀座へ出しても恥ずかしくない店構え、一行飛び込んで矢鱈と覚えて来た渇をソーダ水、紅茶に潤す、濃厚な肉を飽食した揚句のせいか、ソーダ水の味の美味いこと、一行ほっとしてヤレヤレという気分で思い出したら、此所は本所の石原、帰る先はSの世田谷、久夫の渋谷、MHの白山と「アッ遠いんだ」で一同慌てゝ店を飛び出して浅草行きの青バス目がけて一目散。

という唐突さ。これまた、出だしとも羆の肉の描写とも異なる印象の文体だ。こうなってくると、一つの記事さえ、1人の記者が書いたのかさえ疑問になってくる。とはいえ、これが、雑誌の掲載され、そして単行本化されているわけだから、当時としては問題のない文章であったはずだ。この唐突な終わり方、個人的には気に入っている。伊達や酔狂に少しの間抜けさがはいった食べある記一行の感じが良く出ている気がする。

話は再びそれてしまうけれど、豊田屋さんは、今の両国にある。石原の電停は、豊田屋さんから両国駅を越えた北側。蔵前橋を西から渡ったあたり。ご一行は豊田屋から木村屋まで、直線で1kmの道をあるいている(まあ、この時代の人は歩くのを苦にはしておらず、本の中の太田窪の鰻では(この記事は店名は出ていないけれど小島屋さんだ)、浦和駅から店までを歩いている。もっとも昭和30年代の食べ歩き本でも小島屋さんは浦和駅徒歩40分とさらっと紹介されているので、そのころまでは小一時間歩くのは普通のことだったようだ。)。その石原から、川の西側に戻るのに両国駅に行かずに浅草目指すのが不思議だったのだけれど、調べてみると当時の総武線は両国始発だったようで、お茶の水まで伸びたのが昭和7年、新宿を越えて中野までいけるようになったのが昭和8年のことのようだ。一方、銀座線の浅草-上野間は昭和2年には開通している。というわけで、この記事が書かれた時点では、ご一行は浅草に出て、それから上野に戻るしかルートがなかったようだ。




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by ZAM20F2 | 2015-06-29 21:19 | 文系 | Comments(0)

東京名物食べある記に見る昭和初期の食堂事情

食べ歩き情報を見る趣味はあんまりないのだけれど、どうしたはずみかkindle本のお勧めに出てきて思わず買い込んでしまった。元の本は国会図書館のサイトで無償公開されているので、ネットにつながった状態でぼーっと読むのには良いのだけれども、電車に乗っている時にkindleでアクセス出来ないので、買い込んでしまった。
普通のキンドル本と違って文字情報ではなく画像ファイルなので、拡大できないし、文字がつぶれかけているようなところもあり読みやすい物ではない。
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この本、出版は昭和の初め。関東大震災後に東京では食堂や飲食店が一気に増えたらしく、普通の家族がそれらの食堂に出かけるためのガイドとして、時事新報家庭面に「食堂めぐり」として、引き続き「名物食べある記」として連載したものをまとめたものだ。

名物食べある記の方は、グルメ本で紹介されるような名店にも行っているのだと思うけれど、食堂めぐりの対象となっているのは、デパートの食堂とか大衆食堂など、今の感覚で言うなら、ファミレスから、牛丼、中華系チェーン店なんかもまな板に上げられているという感じのものだ。まな板の上げ方は凄まじく、あるデパート食堂の評価は
S「香の物寿司はこの食堂の名物だが、Mさんどうです?」M「名物に甘(うま)い物なしの譬えに漏れません」……中略……H「ビフテキは御飯又はパン付きで五十銭、定価から云ったらこの程度かも知れないが、家庭料理の域を出ない、」……中略……H「いまの林檎はもう駄目でしょう。今時果物に林檎を出すなんてとんちきだね、それにバナナをあしらうなんて、果物と季節を知らなすぎる」
などと鬼のような評価がならんでいく。もちろん、中には評価の高い店もあるのだけれども、有名店でも、その店の売りの品を頼んだのに板前が立て込んでいるといって断られたのを正面から批判する一方で、料理にはきちんと「御膳は流石にうまい」とか「てんぷらも結構」などと評価しているあたり、ブレがない。

鮨屋も出ている。京橋幸鮨は夜40銭でにぎりは、あなご1,マグロ2,たまご1、あかがい1,香ずし2。いっぽう両国橋より東の與兵衛ずしでは、並50銭で、のりまき二つ、まぐろ、こはだ、いか、アナゴという内容。数からすると、寿司一つ一つが今より大ぶりなのではないかという気もする。デパート食堂のビフテキと同程度の価格、まあ、安くはないが、いまほど高くない気もする。

興味深いのは、與兵衛ずし。「久夫はまぐろを突いて「之はトロと云うんでしょうかね」と頬張って「中々美味いが高い」とほめるのやらけなすのやら」という記述がある。トロは戦前には、安い食べ物だったと聞いたことがあるのだけれど、この記述が、普通のマグロに比べて高いことを意味するのか、それとも、安かったはずなのに、それほどでなくなっていることを記しているのかが知りたいところだ。ただ、いずれにせよ、昭和の初めにはトロが寿司として食べられるようになっていたという記録にはなっている。

今でも食べられているものもあれいば、姿を消した物もある。雑司ヶ谷芋田楽と雀焼き、目黒栗飯筍飯なんぞは素朴な感じのするものだけれど、昭和の初めには、雑司ヶ谷辺りで里芋栽培や雀取りが、そして目黒では栗や筍の栽培が普通に行われていたのだろうか。目黒は、流石に秋刀魚は出てこない。
驚いたのは、ももんじい豊田屋。ここで、一行は羆、猿、猪を食べている。ツキノワグマなら現在でも食べさせるところがある気はするのだけれど、羆は聞いた気がしない。そして、猿はなおさらだ。羆は、北海道にしか生息していないので、北海道からそれなりの時間での輸送が可能になるまでは東京で食されていたとは思えない。ということは、文明開化以降の出来事であるはずだ。豊田屋で犬や猫は出てきていないので、羆にしても猿にしても、ある地方では食べられていたものを提供していたのだろうと思うのだけれど、羆は北海道で食べられていたのは分かるとしても、猿は何処で食べられていたのだろう。そしてまた、それを東京で食べさせるのが商売になっていたのも、なかなかの驚きだ。


追記:豊田屋さんは「もゝんじや」として現存している。グルメガイドによると、猪、鹿、熊肉などが出されている模様。熊が月輪か羆かは不明。
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by ZAM20F2 | 2015-06-23 22:09 | 文系 | Comments(0)

ロウソクの科学のファラデー自身による後書きについて

旦那芸・科学版のエントリーのところで、ロウソクの科学の話を出しながら、きちんと読んだ事があるのか、ちょっと不安に感じていた。確か、なんとか文庫版の本は持っているし、買い込んだのは積ん読が趣味になる前なので読んでいるはずなのだけれど、中身の記憶があんまりないのだ。で、改めて読もうとおもったけれど、本棚から発掘されず、調べたら、プロジェクト玄白で、山形浩生さんが訳したものが見つかった。Web上にはPDF版もあるので、それを落とせばいいのだけれど、持ち歩いて読みたかったので、テキスト版を落としてきてkindleフォーマットへの変換を行った。ただ、sjisのテキスト版は、すくなくとも、後書きの最後のところが他の版と違って欠落した感じで終わっているので、その部分は他の版を参照する必要がある。
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本文も面白いのだけれど後書きがむちゃくちゃ面白い、天国在住のファラデーは、どういう手法かしらないけれ、インターネットを介して訳者と情報交流が出来ていて、新規書き下ろしの後書きが付いているのだ。後書きの中でファラデーは(とあえて書いておくけど)色々と面白い事を言っている。
ファラデー自身が数学が出来ずにあれだけの仕事をしたのだから、数学は無用だなんて言ってはいけないけど、でも、数学を使わなくっても、やり方次第では本質をとらえた物になる見込みぐらいはあるとか、ロウソクのように最先端じゃない古くさいものを題材に選んだから、100年以上たっても古くさくならないので、「これこそ現代科学の最先端!」を紹介するものだったら、その後に見る影も無くなっただろうなど。
また、科学の進み方として変な現象を整理して理論化するのと、理論を作って検証するなんて話もある。後者はいわば、仮説を作って検証というプロセスだけれど、ファラデーは普通の人が科学に興味を持つのは現象を見てからの方向じゃないかと言っている。

そして、19世紀だったらロウソクを使って色々な科学分野の遊びができたけれど、20世紀後半ならブラウン管テレビだよねなんて話が出て来る。コンデンサを破裂させて楽しむのは勿論、何しろブラウン管テレビはゴキブリの孵卵器にもなるので生物学の題材にすらなるのだそうだ。他の版で読まれた方も、この後書きの部分だけでも読む価値はある。

ところで、21世紀になって、ブラウン管テレビは身の回りからすっかり姿を消してしまった。かわりとなったフラットディスプレイ群は、教育的観点からはブラウン管テレビの代替にはならない気がする。ゴキブリの孵卵器になるという点では、デスクトップPCかなという気もするのだけれど、たしかにハードディスクやDVDまで分解すれば、それなりに拡がった科学分野に触れられるけれども、なんか今ひとつ感がある。21世紀のロウソク、何か良い物は存在するだろうか?


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by ZAM20F2 | 2015-06-09 21:58 | 文系 | Comments(0)

アルプと自然の終焉(2)

「アルプと自然の終焉(1)」ではアルプや自然の書き手がいなくなったことがこれらの雑誌の終焉を、ほぼ同時期に引き起こした原因になっているという説をだしてみたけれど、では、どうしてこの時期にいなくなったのかを考えて見たい。

前の記事に書いた随筆からエッセイへの転換は、文化的な変化を示唆している。その流れで最初に1980年代に随筆の書き手がいなくなった理由として考えたのは、この時代に、小熊英二の言う「1968年の文化の変革」を引き起こした層が社会の中核になったためということであった。確かに、1968年に大学を22歳で卒業した人々は80年代前半には30台半ばから後半で新しい書き手として期待されるところである。
実は、自然の最終号の筆者の1人の本川達雄はまさにこの世代の1人なのだが、この世代で本川以外の、特に物理や化学などの分野での書き手がいるかと考えると、あまり名前を思い浮かばないように思える。しかし、実は、書き手を思い浮かばないのは本川の世代以降だけでなく、それより上の世代もすでに書き手が存在していないように思えるのである。どうも、1968年説では理由を説明できそうにない。

アルプや自然に寄稿していた人々の生まれ年を見てみると、アルプの中心だった串田孫一は大正4年、尾崎喜八は明治25年。一方ロゲルギストエッセイの人々は大正元年から10年程度。それ以外に科学者でエッセイストとして有名な伏見康治は明治42年、朝永振一郎は明治39年、中谷宇吉郎が明治33年、坪井忠二が明治35年、そして少し若手の戸田盛和が大正6年である。印象としては、戦前に高等教育を終えた程度の世代になっている。ここから、もっとも素直に下の世代で書き手が少なくなった理由を考えるなら、旧制高校を含む戦前の教育システムの中で随筆書きが生まれたということになる。確かに、自然の寄稿者は、間違いなく旧制高校から大学への経路を辿っているはずなのだけれど、一方のアルプの寄稿者については必ずしもそのような学歴はたどっていないと思う。そうしてみると、旧制高校の教育よりも、もっと幅広い文化的背景が存在している気分になってくる。

違いを生み出した原因が何であるかについては、憶測するしかないのだけれど、頭の中に浮かびかけているのは、トーキーの出現という、とてもその原因になりそうにないことがらである。

トーキーは昭和の初めに一般的になっていったようだ。それにより活動写真から映画へと、よりビジュアル性の強い物への変化が生じ、それが人々の感性に影響を与えた可能性がある。手塚治虫の漫画のコマ割がが映像的であるという指摘があるが、その映像は決して無声映画ではなくトーキー的なものである。

 では指向性が映像的になると何故描き手がいなくなるのであろうか。この点に関してはロゲルギストエッセイの一つにヒントになることが記されている記憶がある。それは、科学技術に関する事柄をラジオで説明するのとテレビで説明するのでは方法が違うと言う話で、例えば、「犬は味覚がないので苦い物でも平気で食べる」というのを伝えるのに、ラジオ放送では、そのまま事実を伝えればよいのに対してテレビでそれを伝えようとすると、先ず、ある物をにんげんが食べるとすごく苦いような表情をしているのを見せた上で、それと同じ物を犬が食べるようなプロセスが必要となり、単位時間あたりに伝えられる情報量はテレビの方が少なくなる場合があるといった話である。音声および文字と画像では説明の方法論が違うのであり、映像ベースの説明を考えるか、音声ベースの説明を考えるかで、話の組み立てが異なるわけだ。

 アルプの著者がいなくなったという意味合いの一つに文体の問題があったようだ。アルプには、独特の文体のようなものがあるのだけれど、それは単にそこで使われている語彙を用いればよいというものではない何かがあったらしい。それが説明の様式的なものだとすれば、上に記した映像ベースと文字ベースということで、違いが生じてしまったこととの共通性が見えてくる。アルプには画文という絵や写真を含めたエッセイもあるのだけれど、その画像は静止画であって、動画ではないと考えれば、画文も非映像的な作品の範疇に収めて問題ないだろう。

 本当にトーキーの出現が文体に影響を及ぼしているのだとすれば、テレビジョンの発展により、それはさらに一般的に拡がってはいるけれども、基本的な指向性としては、昭和の初めから20世紀の終わりまで変化していないのではないかと思う。しかし、21世紀になって、Internetや仮想現実技術の発達により、新たな文体やら思考様式の変化が始まっている印象がある。

補遺
※トーキーの出現以外に、可能性はないかと考えると関東大震災による江戸文化の物理的消失や、明治期の2つの戦争と第一次世界大戦で戦勝国の末席になったことなどにより生じた、西洋に追いついたという感覚が転換点になったという二つが頭に浮かんで来た。

関東大震災は関東地方ローカルの事象ではあるけれども、これにより江戸から残っていた多くの物が失われてしまい、その結果として江戸文化も消失したというのは多くの人の指摘することである。もっとも、江戸文化の終焉は物理的には関東大震災かもしれないけれど、明治維新後、おおよそ半世紀後の事象であり、維新前に子供時代を過ごした人々の影響がこの時期に薄れていったかもしれない。伝えようとする人の知的背景が江戸から東京に変化したわけだ。

明治期の二つの戦争と、第1次世界大戦の戦勝国の末席になった経験により、欧米に追いついたという印象を持つ人々が出てきたことも、違いを生んだ理由の一つになる。追いつく必要を感じている間は、いわゆる先進国の文明のうちに優れた物を見つけ出して、それを咀嚼して我が物とする努力が求められる。一方で、先進国に追いついたという認識の下では、もはや咀嚼の努力は行われなくなり、伝えようとする事柄も変化していく。
化学本論という大正初期に初版が出た物理化学の教科書がある。熱力学など、旧劇に発展した化学分野を日本に伝えようとの志の下に執筆された分厚い、網羅的な教科書で、驚くべき事に液晶にまで触れられている。この教科書などは自国の文化が欧米諸国に比べて遅れているという認識がなければ出現しない本であろうと思う。

2つほど追加の可能性を挙げたが、関東大震災は全土に及んでいないという点で、そして欧米に追いついたという概念は、競合とは無関係な山岳エッセイには影響を及ぼさないという点で、二つの雑誌の終焉に関する理由としては不充分であるように感じられている。

補遺2
※「アルプの時代」には当時の状況として、情報雑誌等が氾濫するようになり、深田 久弥の百名山を巡るといった、特定の情報に従った中年の登山が盛んになったことが記されている。百名山自体は初出は1960年代前半なので、それから20年程の時を経て、それを元に山登りをする層が出現したわけだ。そういう人たちにとって、寄り道に満ちたアルプ的な山登りは性には合わないわけで、アルプの読者とならないのはうなずけるところである。とはいえ、それらは、読者減少の問題であり、ここで考えようとしている書き手の不在の解答とはならない。書き手となるべき層の変化に目を向けなければならない。

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by ZAM20F2 | 2015-05-11 21:00 | 文系 | Comments(0)

アルプと自然の終焉(1)

ドミトリーともきんすの話の延長みたいな感じで、アルプと自然の終焉について、少し記しておこうと思う。

「アルプ」は創文社から出ていた山の文芸雑誌で1957年に始まり、1983年の300号で終焉を迎えた。「自然」は中央公論から出ていた一般向けの科学雑誌で、こちらは1984年5月号一時休刊となった。休刊時には2年後にリニューアルして復刊するとアナウンスされていたが、現在に至るまで復刊は果たされていない。その後の中央公論社の状況を考えると廃刊になったとして問題はないだろう。山の雑誌と科学雑誌では対象読者も違うけれども、この二つの雑誌が消滅した背景には共通する時代の変化ががあるような印象を持っている。

もともと、こんなことを書き始めたのは「アルプの時代」という本を阿佐ヶ谷の「書原」という本屋で見かけたためだ。アルプが廃刊になった理由については、霧ヶ峰のコロボックルの手塚さんから「発行部数が減ったこともあるけれど、それ以上に書き手がいなくなったため」というお話を、大昔に伺った記憶がある。「アルプの時代」の著者は、アルプ創刊号からこの雑誌にかかわっていた山口さんで、確かにこの本にも編集長の言葉として、「読んでいて心躍るような原稿がなくなった」ことが廃刊の理由として挙げられている。


自然に関しては休刊の理由を書いてあるものは見たことがないので、その理由を推測しなければならない状況にある。自然の実質的な最終号を見ると、そこには以下のような出版社の挨拶がある。

ごあいさつ
 小社は昭和21年4月の創刊以来、38年にわたって、科学雑誌『自然』を刊行してまいりました。この間、科学知識の普及、科学的思考力の涵養を通じて、わが国社会の発展と国民生活の向上にいささかなりとも資することができましたのは、多くの執筆者、読者、および関係者の皆様から寄せられたご厚情の賜であります。
 わが国の科学・技術は、38年の間にめざましい発展を遂げました。創刊時の状況を思うときまさに隔世の感があります。科学雑誌に対する社会の要請も変化してまいりました。この大きな変動に対処すべく、小社は本号をもって『自然』を向後2年間休刊し、新しい時代にふさわしい科学雑誌の創造をめざすことにいたしました。
 たまたま来年は、小社が創業いたしましてから100年を迎える年にあたります。わたくしどもの仕事が第2世紀を迎えるに際して、想を練り、新しい姿で再びお目にかかることを期しております。
昭和59年4月 中央公論社

これを読んで分かるのは、大きな状変動に対処すべく休刊にするというだけで、その大きな変化が何を意味しているのかは示されていない。そしてまた、結果的に2年後の復刊がなかったために、自然がどのような方向への転換を図ろうとしていたのかも推測するしかない。

雑誌の休刊・廃刊でまず考えられるのは発行部数の減少である。発行部数が減るのは、そもそも対象としていたはずの読者がいなくなるか、対象読者に支持されるような著者がいなくなることが原因となる。アルプでも、著者が減っていったことに加えて、新しい読者が増えずに読者の平均年齢が毎年上がり続けたことも影響しているようだ。そのような目で自然の最終号を見てみると生物がらみでは丸山工作さんのように現役ばりばりの研究者も寄稿しているし、本川達雄さんのような(当時としては)若手の寄稿もある。しかし、自然の売りの一つだったロゲルギストエッセイが掲載されていない。さかのぼって調べてみると、ロゲルギストエッセイは1983年の12月号が最後で、84年の2月に特集として座談会と代表的なエッセイが掲載されている。5月で休刊になるからには、この頃にはそれも考えられていただろうから、ロゲルギストエッセイの終焉が、引き金になったか可能性も考えられる。もちろん逆の可能性(休刊が決まりエッセイが終焉となった)もあるけれども、ロゲルギスト同人は、この頃に50台後半から60程度のはずである。管理職的な仕事で随分と忙しい人もいたようだし、続ける意志があるなら掲載を引き受ける雑誌もあったろうから、引き金を引く側だった可能性が強い。他の著者や記事内容の動向は調べていないけれども、著者がいなくなったという要素は自然の休刊についても否定はできないだろう。
というわけで、かなり強引であるけれども、アルプと自然という1980年代前半に廃刊になったという以外に関連が無さそうな二つの雑誌の廃刊理由には、「書き手の不在」という共通の要素が含まれている可能性を考えても悪くはなさそうだ。
ひょっとすると、ドミトリーともきんすの「20世紀に活躍した日本の科学者たちは専門書のみならず、一般向けに多くの随筆を残しました。」と言う言葉から「科学者たち」を「人々」にして、ついでに「専門著のみならず」を抜いても、言明が成立しているのではないかという気がする。こんなことを書くと、おまえは本屋に積まれているエッセイ本の数々を見ていないのかと言われてしまいそうだけれど、それなら、そのころに随筆からエッセイへの転換が生じたと言い換えてみようと思う。何らかの意味での文体の変化が生じて、あたらしい文体はアルプ編集者の心に響かず、そして、科学的な随筆を書くのにも適していなかった。

実証可能性は低そうだけれど、アイデアとしてちょっと気に入っている。

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by ZAM20F2 | 2015-05-10 15:45 | 文系 | Comments(0)

茎の欠如について

ともきんすでは朝永振一郎の

ふしぎだと思うこと
これが科学の芽です

よく観察してたしかめ
そして考えること
これが科学の茎です

そうして最後になぞがとける
これが科学の花です

という言葉も紹介されている。芽と茎と花の中で目立つのは芽と花だろうと思う。発芽は、種子がまったく異なった形状に変化する過程だし、花は文字通り花で、その存在だけで目を引くものである。

芽と花が芽を引く影響か、途中の茎はあまり人目を引かない存在となる。実際、植物の観察でも、発芽や花は詳細に観察されても、途中の茎の生長は、枝の数の変化程度で、発芽と花に比べると雑に扱われがちなのではないかと思う。
でも、朝永はこの人目を引かない部分に、観察してたしかめ、そして考えることをあてている。観察・確認・思考、これは科学の方法そのものの部分で、発芽や開花に比べて茎の成長に時間がかかるように、科学研究でも時間がかかる部分である。そして、この人目を引かない部分こそ、科学研究そのものなわけである。

世間に溢れている科学啓蒙活動を芽と茎と花に分類してみると、芽と花は多いのだけれど、茎はほとんど存在しない気がする。最先端の科学は花だし、それから、サイエンスカフェなんかでも行われているであろう、専門家が知識を伝えるのも「なぞがとける」という意味で花である。
そして、不思議さを感じさせると称している子供向けの科学教室は芽を目指したものであるし、よく行われている種明かしは茎を通り越した花である。

でも、これらの花はすごく人工的なものだ。茎のない花は良くて切り花、場合によっては造花だったりする。そして、茎抜きの芽と花だけを見せられ続けると、茎の存在そのものが忘れ去られていく。よく考えてたしかめて考えることが忘れられ、中谷宇吉郎の言う「科学によって目をつぶされた人々」が量産されかねない事態だ。そしてまた、芽が出た後で手入れをしなければ、折角の花が咲くであろう栽培植物は雑草に埋もれたり枯れたりするのもよく経験することだ。

茎を育てるのには、発芽や花を摘むのに比べると、時間も手間もかかる。そして、方向性が違う作業である気がする。発芽は、とりあえず適当な水分があればよい。あるいは、子供の目を引くものがあればよいと言い換えても良い。一方、茎は自発的に伸びていくもので、それがどのような葉っぱをつけるのか、どちらに伸びていくのかは茎に内在したものだ。

英国のCASEという科学教育の授業をはじめて見た時に、ある知識を教えるのではなく、やりっ放し感のある終わり方に途方にくれた。実験変数の授業だけれど、溝のある斜面をボールを転がしてもう一つのボールにぶつける作業で、変数を問うものだ。ボールの材質が変数になるのだけれど、ぶつかった後の動きなどは問われておらず、ひたすら変数だけを問うていた。CASEの他の課題も、そんな感じのオープンエンドらしい。大分立って、徐々に認識したのは、CASEで伝えようとしているのは、知識ではなく方法なのだということ。前に上げた「虹」という戦後に発行された科学雑誌に書いてあった「科学をやるためのルール」と言い換えて良いだろうと思う。それを学ぶことによって、はじめて科学をよる深く楽しめるようになるルールと言うやつである。

CASEをやったはずの子供達の、その後の課題研究を見ている身としては、CASEだけで方法論が身につくとは決して信じてはいないけれど、CASEのスタイルは極東の島国の科学啓蒙活動には見られない方向性だし、茎を育てることに関する何かが含まれていると思う。



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by ZAM20F2 | 2015-05-07 21:50 | 文系 | Comments(0)

旦那芸・科学版

前回のエントリーは、仏文ではなく科学分野における旦那芸の存在について話を展開しなければならなかったはずなのだけれど、まとめられずに途中で投げ出されたものであった。
内田樹さんのブログのみにリンクをはったけれど、最初は、それに加えて天文古玩さんの「博物学の「目的」とは?」にもリンクを張るつもりでいた。リンク先を見て頂ければおわかりのように、明治期の博物教科書の紹介。博物学の目的というあたりに、西洋の学問を背景も含めて日本に伝えようとする著者の想いが見える気がする。「理学的思想を与へ、迷信を去ること」は普通の話だけれども、「親しく自然界を観察して、其完全なる理会〔理解〕を為さしめ、天然物を愛するの心情を喚起し」のあたりに、神の作った自然の理解と賛美というキリスト教的な背景が隠れているような気がする。

方々のブログにあふれる花鳥風月の写真を見ると、極東の島国にも多くのナチュラリストがいるらしいのだけれど、その中で顕微鏡を扱う人の数は欧米に比べて少ない割合であるらしい。まあ、大航海時代の昔から新しくやってきた謎のものを拡大して眺めるだけでなく、蚤を見るための虫眼鏡まで作っちゃうような人々なわけだ。そして、その背景には神の作った世界という概念があり、この辺りの違いが、極東の島国に顕微鏡愛好者が少ない理由かなという気もしないでもない。
でも、極東の島国にだって本草学の伝統もあれば、雪華図を作っちゃった殿様のような趣味人もいた。西の方の人が顕微鏡を扱うといっても、科学的な研究に向かうのではなく、微細な芸術的な品を愛でるという方向性もある。そういう意味では、科学にむかうとかそういうのとは異なった面の話かもしれないけれど、どこから違いが出ているのか、そして、それが科学と関係する話なのかは、心のどこかに引っかけておきたい問題だ。

極東の島国にも本草学があったと記したけれど、極東の島国にはロウソクの科学に代表されるクリスマス講演的な伝統は無い気がする。ロウソクの科学は、最先端の科学である電気の話ではなく、身の回りにありふれたロウソクを使って見せたところに芸がある。科学講演というと、著名な科学者が自分の専門についての話をするイメージがあると思うけれど、それじゃあ聞いている方にとっては、科学か魔術か区別のつかない話になる危険性がある。むしろ日常に見慣れていたはずのもにの不思議さを示された方が、普通の生活の中で身近なものに目をむけた考える切っ掛けになりうるように思う。最先端の科学の話は人ごととして科学を楽しむ人は作れても、旦那芸まで引っ張り上げることは出来ないのではないだろうか。
ともきんすには牧野富太郎の「牡丹の花はあんなに大きいのに、桜の花はどうしてあんなに小さいのでしょう?」という言葉が引用されている。言われて見ると、そこらへんの科学教室で種明かしとともに教えてもらえる目を引く科学マジックなんかよりはるかに不思議で奥の深い話のわけで、自分の感性の鈍さを痛感させられる言葉だ。

ただ、花の大きさの違いを不思議と感じられるようになるまでには、かなりの経験が必要なのかとも思う。というのは、顕微鏡に興味を持ってもらえるような、簡単に作れる検鏡対象がないかななどという話の流れで、そのあたりの葉っぱやら、
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池の水などを眺めてみると、
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確かに見たこともない景色が拡がっているのだけれど、それより先に進めないのだ。一方、偏光顕微鏡下で
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なんぞを眺めると、「見た目ネマチックだけれど、ぶつぶつしているのは一見等方相のアワだけれども、でも複屈折量がアワの所でも変わっていないのがあるので、薄いか、それとも等方相ではなく液晶相で混合系でバブルが見えているのか……」などと頭が回っていく。もちろん、これは偏光顕微鏡だからではなく対象が液晶であるためで、それが証拠には、同じ偏光顕微鏡下の画像でも、ビタミンCを眺めると
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「なんか液晶の欠陥に一寸似てるな。まあ、でもきれいだからいいか」などというレベルで思考が停止してしまう。予備知識の有無が見る深さに影響している。

人によっては、水の中の生き物でワクワクして深く入っていく人もいるだろうと思う。万人向けの検鏡対象ではなく多種多様なものが、奥に進むための知識とともに用意されている必要がある気がしてきた。

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by ZAM20F2 | 2015-05-06 16:03 | 文系 | Comments(0)

前世紀の科学者が随筆を書いていたことについて

本屋で買い物をしていたら、いつの間にかカゴの中に入っていた。
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裏表紙にある
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を見て、思わず考え込みながらレジに向かった。
この本は4人の学者さんの随筆の簡単な紹介。目に触れる機会の少なそうな本に目を向かせてくれる読書案内といった本だ。それにしても裏表紙の言葉、考えせられる。

内田樹さんが彼のWebの「旦那芸について」というエントリーの中で、彼が仏文に向かったの桑原武夫や渡辺一夫や鈴木道彦らが仏文の裾野の拡大に熱心だったからと書いている。単に仏文が面白く刺激的な学問領域であることを示すだけでなく、生き方を通しても仏文学者がダイナミックで面白そうということを伝えていて、内田さんに限らず彼らに引かれて仏文を志した若者が数多く存在したという話である。しかし、それに対しててその後の世代の仏文学者は内田さんも含めて裾野の拡大を行わず、その結果として仏文学者が絶滅状態になったということを反省を含めて記している。
内田はある分野の1人の専門家の背後には、「その数十倍の「半玄人」が必要である。」とも記している。その続きも引用するなら「別に、競争的環境に放り込んで「弱肉強食」で勝ち残らせたら質のよい個体が生き残るというような冷酷な話をしているわけではない。「自分はついにその専門家になることはできなかったが、その知識や技芸がどれほど習得に困難なものであり、どれほどの価値があるものかを身を以て知っている人々」が集団的に存在していることが一人の専門家を生かし、その専門知を深め、広め、次世代に繋げるためにはどうしても不可欠なのだ」というわけで、半玄人の裾野となる人々の存在が、その分野を継続していくのに必要だという話である。

さて、ともきんすに話を戻すと、中谷宇吉郎の随筆の中に戦中か戦後直ぐに東京に向かう旅の途中で一泊しなければならなくなり、何とかたどり着いた宿の女将が中谷の随筆のファンで助けられる話がある。どうみても女将は物理を学んだわけでもなく理科系でもない。でも、中谷の随筆のファンである。これは広い意味で内田のいう旦那芸に含まれることだと思う。もし、この女将に子供がいたら、理科好きになりそうな気がするのである。

現在でも、確かに数多くの科学読み物は出版されている。また、そうした読み物の著者となる科学者もいる。でもそれらの本は、ある分野の知識や最近の情報を伝える本であって、随筆とは少しばかり毛色が違っている。例えば、中谷宇吉郎の立春の卵は、取り上げた対象は彼の専門とはまったく関係のない話だ。しかし、それを題材に科学的な考え方をしっかりと示すものに仕上がっている。単に不思議でもなく、そして知識でもなく、その途中の過程が含まれている。こんな技は最近の本では確かに見た記憶がない。

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by ZAM20F2 | 2015-05-05 20:10 | 文系 | Comments(2)