特別展(I)

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読みかけの本につられて、ふらふらと上野のお山に出かけた。
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出かけた先は博物館の特別展。
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入り口付近の門番さんの先には、開国以来のいろんなものが並んでいる。
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の実物を眺めると、随分といろんな元素が書き込まれている。
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それにしても不思議なのは、これらが19世紀に作られたものであること。原子論の歴史といった本を見ると、20世紀になって、アインシュタインのブラウン運動の理論が実証されて、万人が原子の存在を認めるようになったなんて記述があるんだけれど、そこまで原子を信じていなかった人は、このような元素の分別をどのように説明していたんだろうかと不思議になってしまう。


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# by ZAM20F2 | 2018-12-16 19:06 | 科学系 | Comments(0)

高幡不動

21世紀ではあると思う。最初の1枚を除いて季節は11月頃っぽい。
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# by ZAM20F2 | 2018-12-15 07:40 | フィルム | Comments(0)

1本多い……

冷凍庫の中からは、撮影済みのフィルムも発掘された。
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デジタルカメラを買ってからも、フィルムの撮影はしていたのだけれど、頻度が落ちたために撮影済みのフィルムは冷凍庫に放り込んで、まとめて現像していた。記憶では3本くらいたまっているつもりだったのだけれど、思ったより数が多く、ぼーっと数えて9本。手持ちのタンクは1回で3本処理出来るので、3度回せば良いかと現像・定着液を用意して現像を始めた。
で、2回終わった時点で、何故か残りが4本ある……。しょうがないから、1本用タンクも引きずり出して、時間差で最後は4本処理をした。
前のエントリーのミニコピーの他、期限がだいぶ切れたISO100のフィルムはあるのだけれど、さすがに、それらを使う気にはなれず、一方で、フィルムカメラも改めて良いなぁなどと感じていて、XP2でも買い込むかなぁと思案中。

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# by ZAM20F2 | 2018-12-14 07:42 | フィルム | Comments(0)

発掘品

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冷凍庫の大掃除をしていたら出てきたミニコピーフィルム。もちろん、使用期限切れの品物。
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このフィルムを作っていた会社、
「富士フイルムおよび関連会社では、富士フイルムグループ社会貢献方針にのっとり、本業を通じた社会・地域貢献をはじめ、写真文化を守る活動、将来世代への環境教育支援や、民間企業としては初めて自然保護をテーマとした公益信託「富士フイルムグリーンファンド」設立など、幅広い社会貢献活動を展開しています。」
らしいのだけれど、ミニコピーを初めとした銀塩フィルムの扱いを見ると「写真文化を守る活動」は社会貢献の看板から外した方がよいかと思う。
モノクロフィルム自体は、写真文化を守る気のある他のメーカーから(値段は高くなったとはいえ)供給されているので入手はできるのだけれど、知っている限りで、これに代わるフィルムは存在しなくなった。超軟調現像での画像も悪くないけれども、科学遊びをしたい普通の人が光の回折実験用の二重スリットを手軽に作ったり、簡易なフォトレジストマスクに使えるフィルム。デジタル化で出来るようになったことも多いけれど、出来なくなったことも確かに存在している。
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# by ZAM20F2 | 2018-12-10 07:47 | フィルム | Comments(0)

読者のその後

前のエントリーの本は、奥付きによると昭和28年の発行だ。7月初旬には発行されているので、夏休みには間に合うタイミングだったようだ。
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この本、蔵書印があった。
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持ち主はM.FUKUDAさんだったようだ。本には、他の手がかりも少しばかりあって、おいくつぐらいの方かも想像ついたので、この本の持ち主だった方のことを想像で描いてみたいと思う。

Fさんは昭和17年頃の生まれ。出身地は分からないけれども、東京の小学校に通っていて、この本を手に入れたのは小学校4年生の時。夏休み前に手に入れたので、随分と夏休みに眺めて、本の表紙が外れかけてしまったようだ。前のエントリーで本の左側に白い部分があるけれども、これは補修のために貼られた紙で、その上から4年生の時のクラスと名前が裏表紙に書いてあるので、間違いないだろうと思う。

昭和28年といえば、高度成長以前。都市部のサラリーマン家庭では、子供の科学を定期購読して、誠文堂新光社の新刊を知ることも出来たろうけれども、農村部では、まだまだ現金収入は乏しく、子供にこのような本を買い与えることは少なかっただろうと思う。それに、エナメル導線なんかも、そこらでは売っているものではなく、科学教材社の通販はあったと思うけれど、今みたいに、画面で見て、ポチれば済むような気楽なものではなかった。Fさんがこの本を手に入れて、工作もできたであろうことは、都市部に住んでいたからこそだと思う。


その後、6年生の時のクラスが書いてあって、さらに中学生の時のクラスが書いてある。この本は愛読書で、だんだんと複雑なものまで作るようになったのだろうと推測できる。

小学4年の時にはラッションペンのようなもので名前がかいてあるけれども、中学生になると万年筆の文字だ。昔は中学生になると万年筆というのがよくある話だったなぁとしみじみと思う。今は、万年筆なんていうのは趣味の筆記具で、妙な懐古趣味のボディーが流行っているけれども、昔は万年筆は実用品で、年々スタイリッシュな格好へと変化していくものだった。

その後、Fさんは大学の工学部に入学して、そして学部を卒業して誰でも名前を知っている弱電系家電メーカーに就職した。
今でこそ、理工系は大学院の修士まで行く人が多いのだけれど、Fさんの大学卒業はオリンピック前のこと。修士なんかに行ってしまうと、企業が雇ってくれなかったような時代だと思う。

山北さんも芝浦製作所の技術者だったわけで、その山北さんの本が愛読書だった子どもにとっては、きわめてまっとうな進路だと思う。

その後は技術者として、極東の島国の工業の発展に貢献されたのだろうと思う。Fさんのような多くの技術者がいたから、ハードウェア関係の工業の発展が可能だったのだろうと思う。

昭和28年から60年以上たった今、小学生向けに、電磁石やモーター作りを唆す本は知っている限りでは新刊で存在しない。一方で、小学校程度の子供でも、プログラムを独習できるような情報環境は存在しているとは思う。子供を取り巻く環境の変化は、これからの技術者にどんな影響を与えるのだろうか。






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# by ZAM20F2 | 2018-12-07 08:15 | 文系 | Comments(0)

電気模型と工作

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誠文堂新光社から出ていた山北藤一郎さんの本。対象は小学校高学年から中学生くらいではないかと思う。
まず電磁石が出てくる。
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これは、確かに小学生でも作れそう。
続いて出てくるのは電鈴
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そして電流計
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これは、意表をつかれたけれど、電流計の原理を理解するのにはよい工作だと思う。

モーターと続いていく。ただし、このモーター、磁石は使わずに電磁石で動かすようになっている。
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このあたりまでは、普通なんだけれど
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変圧器となると、作るのは良いけれど、何に使うんだという気分になってくる。
ちょっと面白いのは磁石を使ったモーターがこの後に出てくること。
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今の感覚からすると電磁石を使ったモーターはなく、こちらだけなんだけれど、それは、磁石が発達したためなのかなとしみじみする。
その後、発電機が出てくるまではありかなとおもう。
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でも、火力発電機となると
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ボイラーも必要なわけで、水力発電はその点は安心だけれど、
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それでも、工作はらくではないと思う。家中を水浸しにしなければ良いのだけれど。
そして最後は電源装置。
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ここまでたどり着いた子はどのくらいいたのだろうか?


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# by ZAM20F2 | 2018-12-05 08:36 | 科学系 | Comments(0)

水面上のSmA-N転移

前のエントリーのSmA相の状態から温度を上げてN相へ転移させた。
普通、N相になるとSmA相の層構造由来の構造が解けて、均一な組織に移るように思うのだけれど、
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と配向が絡まったまま残っている。まったく予想外でこんなことがあるから組織観察はやめられない。
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# by ZAM20F2 | 2018-12-03 08:26 | 液晶系 | Comments(0)

SmA水面上液滴 (Ⅳ)

少し温度と倍率を上げたもの。
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# by ZAM20F2 | 2018-11-30 07:48 | 液晶系 | Comments(0)

SmA水面上液滴 (Ⅲ)

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ようやく色温度設定をなおした。デフォルトの設定では見た目とあわず、色温度を調整して合わせている。
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# by ZAM20F2 | 2018-11-28 07:48 | 液晶系 | Comments(0)

三の酉

この前の日曜、三の酉
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今年は火事に注意だ。
それにしても、朱印を戴くための行列があって驚いた。今まで、そんな行列は一切見たことがない。
その横の福包熊手御守には行列はなかったし、それが何かを聞いている人がいたくらいなので、大鳥神社に関しては素人さんが来ていたようなのだけれど、翌日にフェースブックを見ると
「本年は参詣者が非常に多く、福包熊手御守は全て出てしまいました。」
とのことで、何かが起こっている印象がある。
一方、上の写真のように、熊手屋さんは年々数が減ってしまっている。
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こちらは、そばの雑司ヶ谷鬼子母神。大銀杏、一部色づいていた。
ススキミミズクが名物だったけれど、店もなくなり、普通には入手できなくなっている。

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# by ZAM20F2 | 2018-11-27 08:33 | 風景系 | Comments(0)

SmA水面上液滴 (II)

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相変わらず色温度設定がおかしい。前のエントリーと同じもので拡大率が上がっている。
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# by ZAM20F2 | 2018-11-25 20:09 | 液晶系 | Comments(0)

SmA水面上液滴

水の上に置いたSmA相。カバーガラスなし。色は……色温度設定のミス
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# by ZAM20F2 | 2018-11-22 08:02 | 液晶系 | Comments(0)

掘ってみた

6月にホームセンターで、上庄の里芋の種芋を売っていた。上庄の里芋は福井県大野市あたりの在来種。どう考えても、あのあたりの土と気候じゃないと、全うに育つとは思えなかったのだけれど、買い込んで、そこら辺に植えておいた。一応、葉っぱが茂って、秋になって、掘り出そうかなぁと、その時点で里芋の栽培方法を調べたら、夏場の水やりなどが記してある。何もやらずに放置した身としては、里芋に悪いことをしたなぁなどともおもったのだけれど、とりあえず掘り出して、水洗いしてみた。
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里芋、こんな具合に育つんだと掘り出して眺めている。全体にえらく小振りなのは、土地と放置のためだと思う。味は未確認。
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# by ZAM20F2 | 2018-11-20 07:57 | 植物系 | Comments(0)

低い

正面に虹が見えたので、車を左に寄せて止めて外に出て撮影した。
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後からみると、レンズに雨滴がついていた。全体にすっきりしないのはそのためのように思う。
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こちらは、その少し前。
それにしても虹、タイミングが難しい。最初の写真は車を止めた時点ではもっとはっきりしていたんだけれど、通り過ぎる車を待って外に出る間に淡くなってしまった。
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# by ZAM20F2 | 2018-11-18 08:09 | 風景系 | Comments(0)

固いスメクチックから結晶へ

前のエントリーのネマチック相を徐冷すると、
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上の写真のようなのっぺりした組織が一気に成長する。これは、文献によると、層内にも周期構造のあるスメクチック相らしい。歴史的にはスメクチック液晶とは呼ばれているけれども、最近の規約に従うと、3次元的な重心位置の周期構造があるので、結晶に分類されてしまい、Cry相と呼ばれることも多くなっている。とはいえ、本当の結晶とは異なり、分子長軸周りの回転の自由度が残されていて、異方的な柔粘性結晶というか、一種のローテータ-相とでも言うべき状態だと思う。
ただ、この相は降温時のみ出現する準安定そうで、出現したかと思うと次の瞬間には結晶相が育ってしまって、
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といった状況になってしまう。
二つの写真を比べてみると、上の状態がCry相といっても、本当の結晶とは随分と違うものであることが実感できると思う。

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# by ZAM20F2 | 2018-11-16 20:01 | 液晶系 | Comments(0)

結晶→ネマチック相転移

結晶からネマチック相への相転移。
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見た目組織がそのままだけれども、結晶ではぎざぎざだったドメイン境界がなだらかになっている。模様がそのままなのは、ネマチック相でも分子長軸の方向が結晶と同じためだと思う。
これは、少しばかり極端な感じで、ネマチック相になると結晶とは異なった文様になることもある。
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# by ZAM20F2 | 2018-11-13 07:18 | 液晶系 | Comments(0)

SmA扇形組織

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# by ZAM20F2 | 2018-11-11 12:22 | 液晶系 | Comments(0)

SmA扇形組織

SmA相の扇形組織(fan-shaped)
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くらい部分は分子長軸が基板に垂直。元は、全面水平配向だったが、カバーガラスをずらしたら、部分的に垂直配向になり、また水平配向の部分もずらした方向に垂直に並んでいる。
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# by ZAM20F2 | 2018-11-09 08:18 | 液晶系 | Comments(0)

ネマチック→等方相転移

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こちらは解けていく過程
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# by ZAM20F2 | 2018-11-07 06:53 | 液晶系 | Comments(0)

等方相→ネマチック相転移

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# by ZAM20F2 | 2018-11-05 08:09 | 液晶系 | Comments(0)

文系と理系の卒論課題設定方法の違いについて

この前、文系の人と話をしていて、卒論の課題の決めかたを巡って、お互いに驚いていた。文系の人は、理系で卒論のテーマを教員が与えると聞かされて、4年になっても卒論の課題も決められない程度の成長レベルであることに驚いたようで、理系の身の上としては、文系の卒論が、学生さんが提示出来る程度の課題で成立してしまうことに驚いていた。

もちろん、文系といえども4年になって、前提知識なしに卒論課題を決められるわけではなく、3年次からゼミというやつに所属して、卒論の前段のものを書いて、その延長かあるいはその経験をもとに卒論課題を決めていくらしい。とはいえ、それで、卒論課題が決定出来るのは、文系の研究課題が日常体験や日常言語の延長にあるからである気がする。

一方の理系はというと、2年次くらいまでは基礎的物理・化学・数学を中心に、そして、3年次ぐらいから、ある特定の専門分野の基礎知識を学び、さらに実験を行うことで手一杯だ。研究室で行われていることは、それらの基礎知識からは、だいぶ離れたところにある。当然、それまでの日常体験の外側の話だし、そこで使われている術語も、ほとんどは初めて聞くようなものとなる。教員側から課題を与えられて、それを進める過程で、どのような背景にもとづいて何をやっているのかを理解していくという感じだ。

それしても、文系の卒論がそんなものとは知らなかった。知らなかったのは私だけかと思って、知り合いの理系研究者に聞いたら(標本数1だけれど)、やっぱり知らなかったので、決して私が例外であるわけではなと思う。

文系の人との卒論を巡る会話を通して、高校の課題研究で、課題設定を生徒に行わせるケースが多いのは文系の卒論スタイルの影響かと少しばかり分かった気がする。教育学部の卒論がどのような感じで進むのかは知らないけれども、こんな感じで卒論課題を学生が決めるのが普通なら、その延長で、学生が課題を決める流れになりそうだ。(そういえば、高校によっては、課題は教員側が主導で、ひたすら生徒指導をするところもあるようだけれども、そういうところは、ひょっとすると理科系の研究経験がある教員が主体なのかしら。)

ただ、高校の課題研究といえども、理系スタイルで研究をやるとなったら、あっという間に日常言語からは離れる領域に突入する。その時に課題で扱うことを実際の行動に展開するのは、研究経験のない人には困難であろうと思う。

高校の課題研究、やりたいことの決定は生徒さんに任せるとして、その後に、どのような展開をするかは、それなりの分かった人が指導するような、文系と理系のハイブリッドスタイルが良いんじゃないかという気がしてきた。

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# by ZAM20F2 | 2018-11-02 07:34 | 文系 | Comments(0)

文系と理系の研究スタンスの違いについて  -あるいは、文系の議論が罵りあいになりがちという伝聞について-

前のエントリーでは、定量データの統計比較による文系の研究が、
(観察)→仮説→検証
というプロセスを経て、仮説が結論に出てくる文系の研究プロセスではなく、
研究動機→データ→解析→結論
という、理系でも納得できる、理系の普通の研究で馴染みのあるプロセスで進行していく例がある話をした。
前のエントリーで取上げた本と、普通の理系の研究で共通していることは、観察や実験結果などから、新しい知見を得るということで、その新しい知見に興味を持つことが、研究動機となることを考えると、上記の研究プロセスは極めて自然なものである。

そうなると、逆に、文系の仮説→検証と称する研究プロセスが、どのような理由により生じてしまうのかが不思議になる。理系の端くれとしては、この不思議さを動機にデータを集めて解析しないといけないのだけれども、そんな気力も暇もないので、ここは、文系の研究スタイルである、(思いつきの)仮説→(適当な論拠による)検証というプロセスで議論を進める。

このスタイルを引き起している理由として、「文系の研究の目的が、世界に新しい知見を加えることではなく、新しい考えを示すことであることが、文系の研究スタイルを生み出している。」という仮説を提示したいと思う。この仮説は、別の言い方をすると、理系の研究の大半は、クーンの言うパラダイムの中で行われているのに対して、文系の研究は(部分的にでも)パラダイム変換を意図するものである点が違うという言い方ともなる。

パラダイムのことを適当に説明すると、ある事柄に対する、その集団の共通となる考えといったものである。例えば、19世紀の物理学では力学と電磁気学などの古典力学がパラダイムであった。ところが、黒体放射とか、原子からの発光はど古典力学では説明できない事象が発見され、25年ほどの歳月をかけて量子力学が形成され、これらの現象をりかいするための共通となる考えの変更(パラダイム変換)が生じた。パラダイム変換の途中ではボーアの原子模型のように、古典力学のは反する考えを含んだモデルが、その不完全さにもかかわらず、提案されている。
自然科学におけるもう一つの例として、大陸移動説を上げることができる。これは、アフリカと南米の海岸線の形状が類似するといったことから提唱されたが、提唱時には、移動機構の説明はまったくされておらず、学会の主流には受入れられない仮説であった。しかし、その後にマントル対流という移動機構が考えられるようになり、復活を遂げている。
これら2つは後に正当性が確かめられたような事柄であるが、自然科学においても、東日本大震災で無力を晒したアスペリティを使った地震の説明のように、集団幻想としか思えないような事柄も存在する。

理系におけるパラダイムの例を挙げたのは、理系においてもパラダイム転換期には、観察事項の重要性の判断基準や解釈が、用いるパラダイムにより大きく異なることがあることに注意して頂きたいためである。別の言い方をすれば、異なるパラダイムにのっかっている研究者の間では、議論が原理的にかみ合わない状況が生じうる。

さて、文系の研究に戻ってくると、彼らの研究がパラダイム変換を目指すものである以上は、それ以外の研究者との間で、議論を行うことが困難であることは十分に理解できる。何しろ、異なるパラダイムに従って、事実の重要性を判断するから、論拠とする事実が互いに異なるだろうし、同じ事実を扱っても、解釈が正反対になることだってあり得る。また、自分の議論に対して反例となりうるような事実は、例外とか、重要性が低いといって取上げなくてもかまわない。なにしろ、パラダイム間の喧嘩なのだから。

このため、文系の研究者が、論争相手に対して、「あなたの考えは間抜けだ」と言うのは、「おまえのかーちゃんでべそ」という程度の意味となる。相互に判断基準が違う以上、両者に共通の間抜けさは存在しないから合意は不可能だ。あとは、罵りあいが待っている。

一方、理系の研究者が「間抜けな考え」という場合には、けっして、相手の「かーちゃん」の事は考えておらず、言っていることが、本当に論理的に駄目だと思っている。表面的な言葉は同じでも、それが意味するところは全く違っているのだ。

この違いを認識していない理系の研究者が、文系の研究者と話している時に相手の発言について「間抜けだ」発言をすると、人格攻撃と捕えられてしまうことがある(人格攻撃と捕えずに、間抜けなことを言っていると反省してもらいたいものなのだけれど。)。文系の人間と会話をする時には、相手は共通となる論理基盤の持ち合せがないことを意識しておいた方がよい。

文系の研究者の場合、互いに異なるパラダイムを持っているので、相互の感情がこじれた場合には、客観的な相互批評は不可能となる。そうなると収拾がつかないから、大人の対応としては、相互に、査読無しの論文を通す状況になりうることも理解はできる。また、文系の研究者が、事実背景なしに、思いつきで、面妖なことを主張するのも理解はできる(何しろ、それは、彼らにとって、これから、恣意的にでもデータを集めて検証する仮説であり、その主張は普通の行動だからだ)。

というわけで、文系の研究が、新しいパラダイムを言放つことを目的とするという仮説を考えると、彼らの行動パターンが理解はできる。

この稿では文系の研究手法の是非を問うつもりはない。ただ、そうした研究手法が「科学」かと言われると、それは違うと言って良いだろう。そして、間違えても、高校などの課題研究の指導書で、理科系の研究にまで文系手法を持込むようなまねはしないで欲しい。
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# by ZAM20F2 | 2018-10-31 07:07 | 文系 | Comments(0)

サザンカ咲いた

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お茶も地味に咲いている。
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2枚目に吻が写っているにはスズメガの人。気がついて角度を変えたけれど、逃げられてしまった。
脇では、クモの人が網を張っている。
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# by ZAM20F2 | 2018-10-30 07:48 | 植物系 | Comments(0)

そうなると思う

歴史は実験できるのかというタイトルと、自然実験が解き明かす人類史という副題につられて買い込んだ本。
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英語の現代は「Natural Experiments of History」で概念としては、ダーウィンがガラパゴス諸島で、様々な動物の分岐を観察して、進化論へと進んでいったのと同様に、様々な歴史的発展を比較考察することにより、歴史の発展に関する知見を得るという研究の進め方の研究を幾つか寄せ集めたもの。そういう意味では
「歴史は実験できるのか」とか
「自然実験が解き明かす人類史」
なんてい言い方より

「複数の発展事象の定量的統計比較による歴史発展の検討」

と言う方が内容を正確に反映していると思う。

社会科学の本になるけれども、普通の文系の本のように
(観察)→仮説→仮説の検証
という筋道にはなっていない。その代わりに検討したいこと、その動機が語られ、その上で、データに基づいた分析が行われ、分かったことが記述されている。この流れは理科系の研究者にとっては容易に受け入れられるものだ。適当な仮説を提示され、恣意的に集められた証拠と称するようなものにより仮説が検証されたと主張されるのより、遙かにきちんとした方法を用いた仕事である。

これまで、文系の研究における仮説の意味についてのエントリーを書いており、文系の研究手法は理系のものとはまったく別のものであると思っていたのだけれど、文系でもまっとうな科学的手法による研究を行えば、仮説→検証ではなく、理系の普通の論文と同様の構成になるのだと納得している。

そういう意味では興味深い本で、アマゾンのレビューでも高評価なのだけれども、訳文は私にはとっつきにくかった。まあ、英語のレビューでも、

Tough read

なんていうのもあるくらいだから、原文(あるいは内容理解)にしても、楽に読めるものではないのは確かなのだけれども、

Traditional historians will thus find the approach of the first four studies in this book familiar in that they develop evidence in a narrative style, compare small numbers of societies, and do not present statistical comparisons of quantitative data in the text. The approach of the remaining four studies differs from that of most traditional historians but will be familiar to some historians and to scholars in related social sciences, in that they are explicitly based on statical comparisons of quantitative data and they compare many societies.



従って従来の歴史学者は、本書の前半で紹介する4つの研究のアプローチに親近感を抱くだろう。ナラティブに話を進めながら証拠を見つけ出した上で、少数の社会を比較しており、テキストの定量データを使った統計比較は行われていない。後半の4つの研究アプローチは従来の歴史学者や定量分析に明るい研究者の一部は馴染み深い印象を受けるだろう。定量データの統計分析をどだいにしながら、多くの社会を比較している。


なんて訳されると、まず「ナラティブ」のところで頭を抱えることになる。業界人にとっては、わかりきった用語なのかもしれないけれども、あの表紙で帯に「銃・病原菌・鉄」を持ち出しているからには、もっと広い読者層を想定しているはずだ。その相手に「ナラティブ」をそのまま使うのは、いかがなものかと思う。実際、上の文をgoogle翻訳にかけると、

したがって、伝統的な歴史家は、この本の最初の4つの研究のアプローチが、物語の形で証拠を展開し、少数の社会を比較し、テキストに定量的データの統計的比較を提示しないことを見いだすであろう。残りの4つの研究のアプローチは、ほとんどの伝統的な歴史家のアプローチとは異なりますが、定量的データの統計的比較に基づいており、多くの社会を比較するという点で、関連する社会科学の学者や歴史学者にはよく知られています。

と「ナラティブ」を「物語の形で」とちゃんとした日本語に訳してくる。これは、ナラティブの用例が少ないためだろうと思う。

個人的に、どんな具合の日本語ならなじめたかというと

最初の4章は物事の記述を通して根拠を積み重ね、少数の社会の比較を行っている。定量的な統計処理は行われておらず、従来の研究手法を行う歴史学者にとってもなじめる手法であろう。残りの4章の方法は従来の歴史学者の手法とは異なったものだ。多数の異なる社会を統計データを用いて定量的に比較検討しており、このような研究手法を用いている関連分野の研究者や、一部の歴史学者にはなじめるものであろう。

ぐらいかなと思う。


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# by ZAM20F2 | 2018-10-29 07:03 | 文系 | Comments(0)

雑談メモ:ブルーレイの目に影響の大きい波長について

たまたま話をした人から、375nmの波長の光が不足すると近眼になりやすいという話を聞いた。そのあたりの波長の光を受けないと、目が成長を続けてしまうのだという。文明開化以降の屋内光には、この領域の光がほとんど含まれていないわけで、近眼予防に、この波長の光を環境光に含めるような研究がなされているらしい。
この話を聞いた瞬間に思ったのは、375nmの光って目に悪いんじゃないかということ。近年、ブルーライトが目に悪いという話がある。紫外線を浴びると皮膚癌の危険性が増すように、一般に短波超の光は生体に対して影響を与える。一般論として波長の短い光の方がエネルギーが高いので影響が大きい。美術館などの絵が紫外線から保護されるのはこのためだ。

と言うわけで、当然のように目に悪いんじゃないかと質問したのだけれど、帰ってきた答は、「ブルーライトで問題となるのは430nmで、そこから外れると影響は小さい」とのこと。答を聞きながら、でも、吸収端より高エネルギー側の光も吸収されれば,同様に光化学プロセスの出発点となるわけで、何で430nmとかなり不思議だった。

その後、黄斑の吸収端と関係があるのかなぁなどとも思案したのだけれど、目の吸収波長を調べてみると、440nmあたりが吸光度のピークで、375nmの吸光度はピークの数十分の一になっているようだ。どうやら、430nmが良くないというのは、S錐体の吸収曲線が関与している話で済みそうだ。
ただ、そうなると、不思議なことが2つ生じる。一つ目はS錐体は青色系に視角を引っ張る錐体なのだけれど、そこからの信号強度は吸収光量に依存するだろうから、430nmの光は吸光度が高ければ、より弱い光量で、青色に十分引っ張れる。それに対して、たとえばあ390nmの光だと吸光度は1/20程度なので、同じ程度青色に引っ張るのは20倍の光量がいる。つまり、光量比だと、430nmが影響が大きいけれど、青色を同じ程度に感じる状況では、影響は波長には、あまり依存しなくなる気がするのだけれども、どうなっているのだろうかと言うこと。
もう一つは、そうなると、375nm光で近眼が予防できるのは、錐体のどれかが光を吸収するためではなく、錐体以外の何者かの光化学反応が関与しているという話になるけれども、それは何なのだろうかということ。

なかなかに不思議だ。
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# by ZAM20F2 | 2018-10-27 18:50 | 科学系 | Comments(0)

用途不明

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カーボンロッドという表記に釣られて買ってしまったんだけれど、周りに銅のコーティングもないし、先もとがっていないのでアークの棒でないことは確かだ。
何に使うものなんだろう。
(磁石で浮かして遊ぶのに使えないことはないけれども、方向が揃っていないので、それほど浮かないし、薄板を作ると手が真っ黒になりそうだ。)

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# by ZAM20F2 | 2018-10-27 07:38 | 物系 | Comments(0)

日本の報道機関の科学部について

小倉さんの本の中には、科学ジャーナリストについて考えさせられる部分がある。
前のエントリーの坂田さんの解説に関しては、湯川さんから小倉さんに私信が届いているし、それ以外にも、自然の記事に対する感想が私信で送られいてる。それ以外にも矢野健太郎さん渡辺慧さん、江上不二夫さん、玉虫文一さんなどからも私信が送られているようで、科学者と編集者の間に交流があったことが伺える。今の世の中、こんな感じの科学ジャーナリストがいる気があまりしない。まあ、科学者側の問題でもあるわけだけれども。

もっとも、極東の島国の科学ジャーナリスト、記者の数もレベルも高くはないのは昔からのようで。ソビエトが人工衛星を打ち上げた直後には

多数の新聞記者に押し掛けられた東京天文台は『全く有史以来の』混雑を呈し、台員達は応接のいとまに苦しみ安眠を妨げられ、観測にさえ支障を来しそうになったといわれる。新聞社は今まで冷遇した科学記者を見直して急に科学部を新設するなどの狼狽ぶりを示したところさえある。

中略

政府もいささか狼狽したようだ。急いで理科系学生の大増員を文教政策として発表した。 中略 科学を尊重し、人類の幸福のためにその発展を望むことはよいが、『花咲爺』のお伽話に出てくる悪い爺さんのように肥料も与えずに収穫ばかりあせっては、却って不幸な結果を生する。

という状況が生じたそうだ。その後、半世紀以上の時間がたったけれど、新聞記者の科学に対する知見は相変わらず低く、ノーベル賞の記者会見でもまともな質問が出てこないようだし、そしてまた、政府の『かけ声だけ』という姿勢もまったく変わっていない。

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# by ZAM20F2 | 2018-10-25 07:27 | 文系 | Comments(0)

弾圧に抗して―編集者・小倉真美の回想

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小倉真美さんは、自然の初代編集長。文系ばっかりの編集者の中央公論において科学系雑誌の自然を立ち上げた人だ。この本は回想という表題だけれども、

私・小倉真美には日記はない。日記は生活するのに不可欠なものとは思えないが、生活に区切りを付け、後日の反省素材になる効用は無視できない。しかし、それを十分承知したのに日記を書く気持ちになれなかったのは、言論弾圧の具に使われる危険性があったためである。

と回想の元となる日記が存在しないことから始まる。

小倉さんは岩波書店で書籍を担当した後に雑誌の編集を行いたく中央公論に移っているのだけれど、その中央公論と改造社は軍部と特高に目をつけられて解散させられている。また、完全に言いがかりの嫌疑で多くの人が拘束され、亡くなった方もいる(横浜事件)。
小倉さんは中央公論で「図解科学」の編集に携わり、そこには、後に「光る原子、波うつ電子」としてまとめられることになった伏見康治さんの解説も掲載されていた。
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図解科学は、中央公論の解散時に朝日新聞社に移ったのだが、小倉さんは朝日に移ることはせず戦時下を過ごし、戦後になり中央公論が再建に参加し、中央公論から科学系雑誌「自然」を発行した。
さて、その戦後の始まった「自然」は小倉さん自身によれば

『自然』は高校以上の理科系学生の基礎知識を基準に、広く科学に興味を持つ一般的知識層と研究者を読者対象とした。科学分野の本質的究明の解説を中心に、科学の進歩をはばむ障害を排除するための啓発的論文を掲載、無視されていた社会科学と自然科学の連携をはかるなど、民主日本のかどでにふさわしい意気込みで出発した。

「民主日本のかどでにふさわしいもの」と記してあるけれども、創刊号で伏見康治さんが進駐軍による理研のサイクロトロン破壊を「進駐軍の犯した非文化的措置」と書いたのがGHQの検閲に引っかかり跡形もなく削除することを要求されたことから、決して無条件の自由ではないことを感じながらの出発であったようだ。

その時代に出回っていた言説は、戦前の体制に対する反発から今から見ると過剰なものも混ざっている感じもする。
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これは、たまたま入手した戦後に出てきた雑誌だけれども、目次を見ると、自然科学というより、哲学か社会科学という気すらしてしまう。

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さて、そのような社会の流れの中で、中央公論の6月号に羽仁五郎さんが「科学と資本主義」という記事を書いている。
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小倉さんによれば、
「科学と資本主義」と題して湯川秀樹氏に対し誹謗に近い独断的論文を発表した。このため『自然』八月号に坂田昌一氏に「湯川理論発展の背景」を執筆させ、湯川氏を擁護しようとしたことが波紋をおこした。羽仁氏は社員に私を「ギャングだ」と非難したそうだが、一部の進歩的文化人の行きすぎも目にあまる時代であった。

とのことで、簡単に話を紹介すると、羽仁さんは湯川理論の発展を唯物論的弁証法に結びつけて、武谷さんや坂田さんといった弁証法を理解した人々が湯川さんから引き離された結果として中間子論が戦中に発展しなかったと主張しているのだけれど、坂田さんはアメリカからの実験物理に関する情報の途絶が理論研究の停滞を招いたときっぱりと説明している。

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羽仁氏の好きな唯物論的弁証法を理解している坂田さんの解説を掲載したことに対して、羽仁さんが小倉さんのことを「ギャングだ」と非難する正当な理由がまったく見当が付かないのだけれども、イットリウム君の発言は、こんな騒動を受けているように思えたのだ。

調べてみると8月号以降の伏見さんの記事は9月号、12月号で、イットリウム君が出てくるのは12月号である。9月号では8月号の内容を受けることは無理だから、羽仁さんと坂田さんの記事に反応するとしたら、12月号が最初の機会となるだろうと思う。


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その12月号の記事タイトルは「言葉のつまずき」。
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日常的な概念が原子の世界には通用しなくなる話ではあるのだけれど、最初の節のタイトルは「民主的な説明」第2段落を書き出すと
「戦争が終わって民主主義の世の中になりました。民主主義とは何でしょうか。それはすべての人が樹種的にものを考え、判断し、その意見を言い、行うことであると思います。他人の指図に盲従することはたやすいことですが、自分でものを考えることはむずかしいことです。すべての人がそうするためには、何よりもまず言葉づかいをやさしくして、一部の人が占有していた知識を誰でもわかてしまうことが必要でしょう。むずかしい言葉を使って学問を習うことをやめ、本当のことはもともとやさしいはっきりしたことなのですから、飾りけなしに言ったならば、誰でも真理が分かるはずです。」
このあと、気体の分子論の話が続き、それにより2原子分子の比熱の説明が可能であったが、原子の構造となると、古典的な言葉は通用しなくなり、まとめの部分で
「今日の話の要旨をまとめてみましょう。気体の分子運動論は物質構造の初期の成功の一時期を画しておりますが、そのはなばなしい成功の裏に古典的力学の崩壊がひそんでおりました。私たちは、気体運動論の自己矛盾の中に、単原子分子が回るべきで回っていない事実の中に、古典力学に代わるべき新しい言葉の体系、量子力学発生の萌芽を認めるのです。」
と述べたあとで、イットリウム君の質問が飛びだしてくることになる。

それにしても、質問者がイットリウムの理由が思いつかない。原子番号が82(羽仁)とか56(五郎)の元素だったら、「伏見先生、お茶目すぎますよ」と大爆笑なんだけれども、残念ながらイットリウムの原子番号は39。どうしても、イットリウムを選んだ理由が見いだせない。



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# by ZAM20F2 | 2018-10-23 07:19 | 文系 | Comments(0)

イットリウムの謎

伏見さんは驢馬電子の他に、戦前に「図解科学」に、そして戦後に「自然」に原子物理の解説を書いている。図解科学も自然も中央公論の雑誌で、編集者は両方とも小倉真美さんだ。
驢馬電子と光る原子、波打つ電子は単行本として出されているが、自然に掲載された解説は著作集にしか収録されていない。

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というわけで、著作集を買い込んで読んでいたのだけれど、次のところで思わず吹き出してしまった。

「回るはずで実はまわっていないのを止揚したのは弁証法ですか」とイットリウム君がすまして言ったのです。

これだけ見ると何で吹き出したのか分からないと思うけれども、並木美喜雄さんの解説にも
「戦後の科学評論には、哲学またはイデオロギー過剰ともいえる風潮があり、その中で武谷方法論をめぐって激しい論争が続けられていた。伏見先生が知らないはずがない。しかし、今ここでそれを詮索することはやめよう。それに戦前派の先生方は、激しい論争を続けた間柄だったとしても、私たち戦後派にはうかがい知れない友情で結ばれていたようだ-うっかりsたことはいえない。いずれにしても、その風潮の中で、「原子物理シリーズ」は哲学的・イデオロギー的用語を一切使うことなく量子力学の解説を続けてゆく、ただ一つの例外はイットリウム君の発言「回るはずで実は回っていないにを止揚したのは弁証法ですか」であった。何となく面白い。」
とあり、にやっとするところであるのは間違いなさそうだ。吹き出したのは、この解説を読む前なんだけれど、何で反応してしまったかというと、少し前に読んだ本に関係ありそうな話があったためだ。
その本のことは次回に。


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# by ZAM20F2 | 2018-10-21 07:16 | 文系 | Comments(0)