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弁天神-高原風物詩

大吉野の御泉水源泉仕込みに絡んで水出という地名を出したけれど、蓼科の林の中をあるいていると水出の他にもいくつかの水源に行き当たる。それらの中で水出と双璧をなすのが弁天神(べていじん)、南平の奥にある水源だ。弁天神にも湧水口の脇に祠がある。
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この写真は
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という本にあったもの。この写真が撮影された頃には祠のある水源まで入れたけれど、今は周りに柵があり立ち入れないようになっている。弁天神の水は樽ヶ沢へと下っていく。その途中、農工社(舎?)の跡地あたりに塩沢堰(しおざわせんぎ)への分岐がある。川は等高線に垂直に下っていき、堰は等高線とほぼ平行に流れる。塩沢堰は番所の下を通り蓼科牧場の脇を抜けて芦田宿の農地へと下っていく。途中で水出からの水とも合流する。かつては、塩沢堰の少し下を宇山堰が、さらに下を八重原堰が流れていた。今では、宇山堰は途中で切れてしまい使われていない。八重原は新しくコンクリートで護岸され、立科一号幹線用水路として使われている。このあたりのことは
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に色々と書かれている。

 高原風物詩というタイトルからは、色々な高原をあるいた紀行文のような印象がする本なのだが、この本に出てくるのは霧ヶ峰から池の平を越えて赤沼の牧場あたり、蓼科山の北斜面の一帯だけだ。著者の今井雄二さんは、都会人だけれども、第二次大戦末期に柏原に疎開して、そして、南平で番所の隠居に弟子入りして炭焼を習っていた人。戦前にあのあたりを歩き回る都会人なんて、今井さんと大薬研の少し上に寮をかまえた学校の関係者ぐらいだったんじゃ無いかと思う。まあ、でも、炭焼に弟子入りしたなんて人はいなかったようだから、今井さんは大変に珍しい人だと思う。

高原風物詩の中には、鋸のアサリを調整する様子や、鋸での伐採の写真も出てくる。写真の説明には丹念に目立てをしていると書かれているので、アサリ出しだけでなく、目立ても目立屋ではなく炭焼をやっている人がやっていたようだ。考えて見れば、刈払い機の目立ても現場で行うわけで、それなりに目立てが出来ることが作業をはかどらせるのに必要なことだったのだろう。使っている鋸は手曲ではなく手長鋸。炭焼の材はそんなに太くなく、また、白樺や水楢の林は密集度が高くないので、手長鋸でも柄が邪魔にならなかったのかもしれない。
by ZAM20F2 | 2014-10-07 21:10 | 風景系 | Comments(0)
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