食べある記の中にある豊田屋では、猿肉を出していたことを紹介したけれど、その豊田屋の紹介記事は次のように始まる。
もゝんじい 豊田屋 久し振りに両国橋を渡りました、寒い晩です、川風が身にしみじみと堪えます。橋詰の右角もゝんじいの豊田屋、古い店です、陳列窓に猿の頭の黒焼き孫太郎蟲と薄気味のよくないものが色々列べられています、入口を入ると新築早々と見えて木の香も新しいばかりです、広い幅の梯子段を一行六人トン々々(原文ではく方くり返し記号)と勇ましく上がりました定連のS、M、H、久夫に今宵の相手はもゝんじいとあって新手の加勢としてK、N、の二人が加わりました。 句読点は注意して原文のままに拾っている。この後の文章でも現在なら句点を使うであろうところに読点を使っていて、ですます調の文体と合わせて、なんとなく子供の作文を読んでいる気分にもなる。 もっとも、著者は複数らしく、本の総てがこのような文体ではない。例えば亀戸のくず餅は、 亀戸のくず餅 暖かい日射がお壕の水を膨らませています。「今日の食べ歩き?」原稿に筆を入れていたSが頭を上げました。「そうですね、今日はどこか-どうでしょう亀戸のくず餅は」Mが書き終えた原稿の端をキチンと揃えて、クリップで留めながら答えました。 とですます調だけれども、現代的な句読点の使い方がされている。そしてまた、目黒の栗めしは 目黒栗めし 珍しい秋晴れで表へ出るに外套もいらない程の暖かさだ。栗飯の目黒へ行こうという相談がまとまって-目黒の栗飯と云わない所が名物食べあるきの本性を忘れぬところである-一行四人S、M、H、小ガ武、勢揃いして目黒へ自動車を飛ばす。行人坂をくねくねと下って左へ切れて不動前の入口に車を止める。門前には昔ながらの角伊勢、大國屋が古い構えでどっしりとかまえている。 とですます調でない小気味よい文体だ。蒲田、穴守方面も小気味よいのだけれど、句読点の使い方h現代的ではない。 蒲田、穴守方面 蒲田で乗替た穴守行電車は田甫の中を走って行く、所々に乾されている海苔の青さに暖かい冬の陽ざしが一杯に当たっている。時折磯の香りが鼻をかすめる、穴守近く電車は小さな川を渡る、船宿に「つり船でます」の看板が見える、川一筋に見える羽田の海は、潮が一杯に膨んで、小波が舷(みよし)に光る釣船の影も長閑だ。電車はやがて穴守に着いた。 それにしても、ほんの少し前には羽田の手前に田甫があって、江戸前の海苔が乾されていたわけで、そういえば、これより少し下った時代だけれど、小田急が多摩川を渡るあたりで川で泳いで遊んでいたという話を聞いた事もあり、東京も中心部を少し離れれば、田舎だったんだなぁとしみじみと思う。 話がそれてしまったけれど、上の4つ、どれをとっても現在のグルメガイドやエッセイのスタイルとは違っている。句読点の使い方や、間延びしたですます調なんてあたりも違ってはいるのだけれど、今のものに比べて付加情報が少なく、全体にすっきりとまとまっている。たとえば、店の来歴などという記述がない。これは、上にあげた店だけでなく、たとえば神田藪そばでも 神田連雀町の藪、先ずそばやとしては代表的な定評のある店の一つだろう。更科のそば愛好家には、あるいは藪そばは不向きかも知れぬが、藪はまた藪でたいした藪党をもっているものである、店構えはちょっくら小粋なもの、縄暖簾をくぐると、相当客で賑やかだ。 と店構えも小粋なの一言で済ませている。食べ物の内容についても、 つゆもよしたねもよし。勿論そばはうまく、薬味のわさびがこれまた上等で流石に藪だと大体一行感心する。 -中略- 化粧室の綺麗なことは昔から有名だが、バラック建てとは言え、清潔でよい。 とあっさりした物。これが、今のグルメガイドだと「北海道の契約農家で育てた蕎麦を熱がこもらないように石臼で毎朝ひいているだけあって」なんて感じの付帯情報やら蘊蓄が山ほど着いてくるだろうと思う。 藪だけでなく、豊田屋さんでも、 見た所羆の肉は黒ずんで、その中に濃い血の色をほの見せる咲き切って地に落ちた寒椿の日陰に、そのまま一日二日と経った色である。 -中略- ぐぢぐぢ煮えて来たのを先ず羆の肉片を一片箸に挟んで、ペロリ舌に載せる。濃厚な脂と獣特有の山野の土の香りとでも云いたいような香りが、混沌として味覚に譬がたない愉悦を与える、噛みしめてコクがある、之迄食べた総ての肉の中で最上味に位すべき物であると思った、 と、著者が感じたことをストレートに持ってきている。間違えても羆とアイヌ猟師の格闘の物語りなどは出てこない。アルプと自然の終焉のエントリーのところで、アルプが廃刊になるのと入れ違いぐらいに、百名山を読んでそれらの山を登ることを目的にする層が出はじめたと記したけれども、グルメガイドにしても、だんだんと書き手も読み手も、付帯情報やら蘊蓄やらで相互武装する必要が生じてきたようだ。なんか、アルプの終焉のころを境に、グルメ本の内容が変わったのかを確かめたくなってしまった。 ところで、豊田屋さんの記事はですます調で始まったはずだけれども、いつの間にかである調に変わっている。とても同じ人が書いているとは思えない状況だ。そして、豊田屋の記事の終わりは、 石原の電車停留所前、木村屋という喫茶店、所柄とは思はれぬハイカラな建物、中の作りも凝っていて銀座へ出しても恥ずかしくない店構え、一行飛び込んで矢鱈と覚えて来た渇をソーダ水、紅茶に潤す、濃厚な肉を飽食した揚句のせいか、ソーダ水の味の美味いこと、一行ほっとしてヤレヤレという気分で思い出したら、此所は本所の石原、帰る先はSの世田谷、久夫の渋谷、MHの白山と「アッ遠いんだ」で一同慌てゝ店を飛び出して浅草行きの青バス目がけて一目散。 という唐突さ。これまた、出だしとも羆の肉の描写とも異なる印象の文体だ。こうなってくると、一つの記事さえ、1人の記者が書いたのかさえ疑問になってくる。とはいえ、これが、雑誌の掲載され、そして単行本化されているわけだから、当時としては問題のない文章であったはずだ。この唐突な終わり方、個人的には気に入っている。伊達や酔狂に少しの間抜けさがはいった食べある記一行の感じが良く出ている気がする。 話は再びそれてしまうけれど、豊田屋さんは、今の両国にある。石原の電停は、豊田屋さんから両国駅を越えた北側。蔵前橋を西から渡ったあたり。ご一行は豊田屋から木村屋まで、直線で1kmの道をあるいている(まあ、この時代の人は歩くのを苦にはしておらず、本の中の太田窪の鰻では(この記事は店名は出ていないけれど小島屋さんだ)、浦和駅から店までを歩いている。もっとも昭和30年代の食べ歩き本でも小島屋さんは浦和駅徒歩40分とさらっと紹介されているので、そのころまでは小一時間歩くのは普通のことだったようだ。)。その石原から、川の西側に戻るのに両国駅に行かずに浅草目指すのが不思議だったのだけれど、調べてみると当時の総武線は両国始発だったようで、お茶の水まで伸びたのが昭和7年、新宿を越えて中野までいけるようになったのが昭和8年のことのようだ。一方、銀座線の浅草-上野間は昭和2年には開通している。というわけで、この記事が書かれた時点では、ご一行は浅草に出て、それから上野に戻るしかルートがなかったようだ。
by ZAM20F2
| 2015-06-29 21:19
| 文系
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