人間の理解が皮相的になりがちであるのは、我が身を振り返って屡々感じること。そんなこともあり、本屋でタイトルに惹かれて手に取った本の中に前向き推論(Reasoning forward)と後ろ向きの推論(Reasoning backward)の話が書いてあった。
前向き推論というのは、その時点で知られている事柄を元に、その結果を予測する操作。本では予測推論(causal reasoning あるいはpredictive reasoning )という言葉も使われている。後ろ向きの推論というのは、生じた事象に対して、その原因を遡って推測する操作で本では診断推論(diagnostic reasoning)とも記されている。本によると、前向き推論の方が後ろ向き推論より容易であるという。 もっとも、この話は、この本で始めて主張されたことではなく、私の知る限りでは、ホームズ氏がワトソン氏に向かって話していることそのままである。ホームズ氏は前向き推論をreason synthetically、後ろ向き推論をreason analyticallyと記している。ホームズ氏によれば、後ろ向き推論を出来る人は50人に1人程度だという。ホームズ氏はこの点について、日常生活では前向き推論の方が役に立つ能力であると記している。ホームズ氏は、この方法は簡単な物だとも言っているのだけれど、ワトソン氏には出来ないと、その後で主張しているところを見ると、ホームズ氏にとっては簡単な方法でも、普通の人にとっては、必ずしも容易ではない印象が強い。しかし、ホームズ氏も、この本の著者も、何故前向き推論の方が容易であり、多くの人が前向き推論しかしない理由を説明していない。 後ろ向き推論は、理系の研究現場では頻繁に使われる手法であるように思える。医者の病理診断は診断推理であり、まさに後ろ向き診断そのものだ。病理診断の場合には、その症状を起こす可能性のある理由を可能な限り考えて、その中で最も適合するものを選んでいくようだけれども、これは、未解明の問題に立ち向かう時の人のやり方そのものでもある。謎に対して、可能な解釈を考え、その解釈の妥当性を検討しながら先に進んでいく。科学の進み方そのものである。 可能な解釈は、仮説(作業仮説)と呼ばれることもある。よくある科学の進め方の解説では、一つの仮説が提示され、それの成否を検証するという筋道になっているけれども、診断推論では、複数の仮説が並列に存在して、しかも、それらの仮説の間には矛盾が存在するのが普通である。研究の進み方は、決して単線的なものではなく、複雑な分岐から、もっともらしいことを選んでいく作業だ。研究は、仮説の妥当性の検証ではなく、複数の仮説の中から、より正しいものを選択する作業であることが多い。 さて、本題に戻って、後ろ向き推論が何故難しいのかを、一つの例を用いて考えて見よう。上では医者の病理診断の話を出したけれども、そちら方面の知識はないので、もう少し身近な機器のトラブルシューティングを扱うことにする。例えば、ある機器を使う時には、その機器の電源ケーブルをコンセントに差し込む。これは、「電源ケーブルが入っていない→その機器のスイッチを入れても動かない」という前向き推論があるから、前段を満たす操作をおこなっていると考えて良いかと思う。一方、日常的に使っていたはずの機器が動かない場合には、後ろ向き推論では、単一ではない複数の可能性が考えられる。たとえば ・器機に接続したケーブルが抜けていないか ・ケーブルが断線していないか ・本体のヒューズかブレーカーが落ちていないか ・テーブルタップの元の電源が抜けていないか ・コンセントのブレーカーが落ちていないか ・停電していないか ・バックアップバッテリーは大丈夫か ・機器の故障ではないか ・部屋の空調がついていないか ・部屋のドアの開っていないか ・仏滅ではないか と言った可能性をあげることが出来る。そして、上の方の理由をより重視して、「仏滅だからだ」などと冗談で言うことはあっても、真剣には考えないでいられるためには、それなりの背景知識が必要となる。実際、電気に関する一切の知識の持ち合わせがなかったら、心から「仏滅だから」とか、「蜘蛛を殺した祟り」だと考えていても驚かない。仏滅の上の2つは、トラブルとは直接結びつかないように思うかもしれないけれども、空調の故障で部屋の温度が上がって装置が停止している可能性や、空調がついているなら停電の可能性は除外する情報になっているなど、実は事象に関わっている可能性は排除できない。ドアの開閉についてはその建物に特異な事象として関係がある可能性がある。この場合は、その場所に限った知識の有無が重要となる。 この例で分かることは、前向き推論では、分かっている情報以外の新たな情報は用いずに推論を行えるのに対して、後ろ向き推論では、関連する情報を選択する必要があること。いわゆるフレーム問題が関わってくる。そして、適切な枠組みを選ぶためには、生じていることに対する、ある程度の知識が要求される。勿論、前向き推論でも、「電気がなければ動かない」という知識は要求されているのだけれども、後ろ向き推論は、より具体的に、電気が遮断されうる状況や装置の状態に関する知識が必要となる。 実際、ホームズ氏は古今東西の犯罪に関する知識は豊富に持ち合せているし、お医者さんも一般人に比べると症例に関する豊富な知識の持ち合せがある。ただし、持っている知識の中で、どれが適合出来るかの判断が出来なければ知識は使い物にならない。この作業は、診断結果が既知の現象で、的確な情報が得られており、その現象に関する知識も存在する場合には、機械的に行える要素が強くなる。少し前に病理診断のAIが人間の医者には見抜けなかった、特殊な白血病の判断を正しく下したことが話題になったが、病因毎に症例のリストが存在していて、それらの比較検討が可能なら、たしかに起こりうる事だろうと思う。 しかし、対象が未知の事象の場合は、何を情報として取り上げるかから問題となる。ホームズ氏が「探偵術に最重要なのは、数ある事実から周辺のものと本質とを見極める能力です」と言っている部分が最初の関門となる。 この項続く (たぶん) 2019年12月追記: 多少は関連のある草稿:観察することもあります。
by ZAM20F2
| 2018-05-13 08:56
| 文系
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