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科学者そしてサイエンスライター(I)

大分前の「専門家とサイエンスライター」「専門家とサイエンスライターまた」では、専門外の事についてはある分野では専門家である人も1人のサイエンスライターでしかなく、間違った内容を記してしまう場合もあることを取り上げた。逆に、世の中には科学者としてもサイエンスライターとしても一流で、書いた物を読むだけで、目から鱗が何枚も落ちてしまうような素敵な本を書く人もいる。物理分野のガモフや生物系のグールドなどはこのような人々だし、そして、ガモフの著書を戦前から戦中に訳した伏見康治さんも、優れた科学者兼サイエンスライターの一人であると思う。なにしろ、卵の実験なんて意表をついた本まであるのだ。


著作集からだいぶ経って出版された「伏見康治コレクション」は数学セミナー、科学朝日などに連載されたものをまとめたものらしく、それなりの予備知識を持つ読者を対象にしている感がある。しかし、戦前に書かれた「驢馬電子」や「光る原子、波打つ電子」は掲載雑誌から考えると、少し背伸びをしたいぐらいの旧制中学生ぐらいも視野にいれた解説だ。だいぶ前のエントリーで驢馬電子を取り上げたときは、もう少し年上向けと記したけれど、考えが変わったのは、驢馬電子の中には兄弟による問答形式の話があり、そこに出てくる弟が旧制中学程度の年齢だからだ。あえて、その年齢を選ぶと言うことは、そこを対象読者として考えているということになると思う。

 少し話はそれるけれども、「小国民理科の研究叢書」にも問答形式は結構使われていて、あるいはこの時代には、この手の科学読みもの(だけでなく一般的な子ども向け読み物もかもしれないけれども未確認)に一般的な記述形式だったのかもしれない。

 さて、その解説において、伏見さんは流石に大学の教科書に出てくるような数式は使わずに、原子物理や原子核物理の話をしていくのだけれど、そこでは、単に知識を伝えるのではなく、科学の考え方を伝えようとする意識が働いているのが色々なところににじみ出ている。例えば、驢馬電子の前書きには

「こんな懸け離れて小さい世界に私達の探求の手が延びていく時、粗大世界で私達の慣れた言葉、概念が重大な障碍に出会うことは予め覚悟していなければならないことでありましょう。こんな遠い世界の涯まで私達の日常の言葉がそのまま通用すると考えるのは、世界中どこでも英語が通用するとするイギリス人よりも思い上がった考えと言わなければなりません。事実はそれ程心配しなくても宜しいので、驚くべき程私達の粗雑な言葉は極微粒子の世界でも通るのであります。勿論適当な補正を加えて。
 もしこの偶然ともいうべき幸運がなかったなら、私はこんなお話を始める勇気を持ち合わせなかったことでしょう。ただそのような小さい世界の現象に浸り切ることによってのみ体得できる言葉を、いわゆる術語を使って皆様にわかる話をしようとしたとて、無理なことは明らかですから。物理学が科学の華と言われる程の大発展を遂げましたのも此の好都合が幸いしているために違いありません。
 けれども此の幸運になれてはいけません。私は多くの類推を並べたてることでしょうけれども、学問というものは類推だけで成り立っているわけではありません。類推が理解を援け、叉専門家が新しい領域に踏み込む時の足場の役を務めることも確かでありますが,併し試みに踏み出した足先が堅い地盤に触れたかどうかを審判するのは、ただ実験事実、現象そのものであるのです。つまり、現象に慣れ親しむことによってその言葉と文法とを体得する,現象に即して考えるという純粋な思惟が本質的な役目を果たしているのであろうことを御注意下さい。」

と、これから行うであろう類推を用いた説明には限界があることを読者に示している。(ついでに記すと、自分のやってることがグローバルというのは第二次大戦前からのアングロサクソンの感覚なのだなぁと思ってしまった。)

さらに、二原子分子の分光のところでも

「人々はよくギリシア、ローマの哲人達が近代の科学の獲得した思想に似たものを既に所有していたことを説きますが、私共はかような先走った空想に何の価値も認めることは出来ません。私共は一歩の飛躍は尊重しますが、千歩の飛躍はこれを肯ずることが出来ません。一歩の飛躍の後には左右を見渡して自分の足場を確かめることが出来ます。千歩の飛躍の後にはそれは不可能でしょう。」

と一足飛びの議論ではなく、着実に前に進むことの重要性を記している。このような意識があるために、原子核物理二十話という副題のある本の中でも、真空を作る話、霧箱、ガイガー計数器など実験のことに随分と頁を費やしていて、その後で、

「一体私のこれまでのお話では、少し世の中の慣習をはづして道具のお話を詳しくし過ぎた惧がないでもないのです。普通ならば、今度の話あたりから始めるべきものであったのでしょう。原子級の世界に於ける微粒子同士の様々な交渉、衝突や崩壊や放射能の現象に就いて私共物理学者が現在抱いている像をお知らせするのが本筋であったかも知れません。併し私はそのような話が齎(もたら)す危険を思ってみました。原子級物理の応用は宣伝的には色々なされてはおりますが、現在のところ電気とかラジオとかのように私共の日常生活と密接な結び付きを持っているわけではありません。この通り世界にいきなり皆様を連れて行くとしましたなら、それは実はおとぎ話の世界へご案内するのと大差ないこととなりましょう。世の科学通俗化を目指すお話の大部分はこの遠い世界のことを面白おかしく説いているようですが、それでは「科学」の通俗化にはならず、科学の成果の文学的記述で、驚異に満ちているという点でアラビアン・ナイトや西遊記と選ぶことがないこととなりましょう。」

などと、寄り道をしていることの真意を改めて説いている。それにしても、「現実とは解離した原子級物理の応用の話は驚異に満ちているという点でアラビアン・ナイトや西遊記と変わらない」という指摘は、クラークの「十分に発達した科学技術は魔法と見分けが付かない(1973年発表らしい)」という指摘に通じるところのある内容を30年程も前に記しているわけで、東西を問わずに似たようなものだなと思うし、クラークの発表から40年経過した今でも、西遊記と変わらない科学読み物が結構ありそうなことを考えると、時代を超えて注意しておかなければならない事柄であると感じられる。なにしろ、科学技術・学術政策研究所の「科学雑誌に関する調査」では、若年層の科学技術離れをなくす手段の一つとして、研究者・研究機関側からの情報提供を上げているが、伏見さんが注意点を書いた時代から、さらに先に進んでしまった先端の科学研究を伝えることは、伏見さんの時代以上に文学的記述となる危険性があるはずであるにも係わらず、伏見さんの指摘された危険性はほとんど意識されていないように思える。アラビアン・ナイトや西遊記は元々がお話であるという認識にあるものだから、それらが面白かったからといって、学校の理科が難しくてつまらないものにはならない。しかし、科学の成果の文学的記述を読んで、それが面白いと思えば、より面白くない学校の理科から離れていく理由にはなるわけで、これまでも、同じような事を書いているので、繰り返しになるけれども、荒唐無稽な物語とは違って、科学に害をなすものになりかねないのである。

 話はそれてしまったけれど、伏見さんに限らず、きちんとした科学者でありサイエンスライターでもある人の書く読み物には、知識というより考え方を伝える意識があるように感じられる。科学によって得られた知識というよりは科学という考え方を伝えようとしている印象がある。もう少し、伏見さんの言葉を拾ってみたい。
 
by ZAM20F2 | 2018-10-15 06:57 | 文系 | Comments(0)
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