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文系と理系の研究スタンスの違いについて  -あるいは、文系の議論が罵りあいになりがちという伝聞について-

前のエントリーでは、定量データの統計比較による文系の研究が、
(観察)→仮説→検証
というプロセスを経て、仮説が結論に出てくる文系の研究プロセスではなく、
研究動機→データ→解析→結論
という、理系でも納得できる、理系の普通の研究で馴染みのあるプロセスで進行していく例がある話をした。
前のエントリーで取上げた本と、普通の理系の研究で共通していることは、観察や実験結果などから、新しい知見を得るということで、その新しい知見に興味を持つことが、研究動機となることを考えると、上記の研究プロセスは極めて自然なものである。

そうなると、逆に、文系の仮説→検証と称する研究プロセスが、どのような理由により生じてしまうのかが不思議になる。理系の端くれとしては、この不思議さを動機にデータを集めて解析しないといけないのだけれども、そんな気力も暇もないので、ここは、文系の研究スタイルである、(思いつきの)仮説→(適当な論拠による)検証というプロセスで議論を進める。

このスタイルを引き起している理由として、「文系の研究の目的が、世界に新しい知見を加えることではなく、新しい考えを示すことであることが、文系の研究スタイルを生み出している。」という仮説を提示したいと思う。この仮説は、別の言い方をすると、理系の研究の大半は、クーンの言うパラダイムの中で行われているのに対して、文系の研究は(部分的にでも)パラダイム変換を意図するものである点が違うという言い方ともなる。

パラダイムのことを適当に説明すると、ある事柄に対する、その集団の共通となる考えといったものである。例えば、19世紀の物理学では力学と電磁気学などの古典力学がパラダイムであった。ところが、黒体放射とか、原子からの発光はど古典力学では説明できない事象が発見され、25年ほどの歳月をかけて量子力学が形成され、これらの現象をりかいするための共通となる考えの変更(パラダイム変換)が生じた。パラダイム変換の途中ではボーアの原子模型のように、古典力学のは反する考えを含んだモデルが、その不完全さにもかかわらず、提案されている。
自然科学におけるもう一つの例として、大陸移動説を上げることができる。これは、アフリカと南米の海岸線の形状が類似するといったことから提唱されたが、提唱時には、移動機構の説明はまったくされておらず、学会の主流には受入れられない仮説であった。しかし、その後にマントル対流という移動機構が考えられるようになり、復活を遂げている。
これら2つは後に正当性が確かめられたような事柄であるが、自然科学においても、東日本大震災で無力を晒したアスペリティを使った地震の説明のように、集団幻想としか思えないような事柄も存在する。

理系におけるパラダイムの例を挙げたのは、理系においてもパラダイム転換期には、観察事項の重要性の判断基準や解釈が、用いるパラダイムにより大きく異なることがあることに注意して頂きたいためである。別の言い方をすれば、異なるパラダイムにのっかっている研究者の間では、議論が原理的にかみ合わない状況が生じうる。

さて、文系の研究に戻ってくると、彼らの研究がパラダイム変換を目指すものである以上は、それ以外の研究者との間で、議論を行うことが困難であることは十分に理解できる。何しろ、異なるパラダイムに従って、事実の重要性を判断するから、論拠とする事実が互いに異なるだろうし、同じ事実を扱っても、解釈が正反対になることだってあり得る。また、自分の議論に対して反例となりうるような事実は、例外とか、重要性が低いといって取上げなくてもかまわない。なにしろ、パラダイム間の喧嘩なのだから。

このため、文系の研究者が、論争相手に対して、「あなたの考えは間抜けだ」と言うのは、「おまえのかーちゃんでべそ」という程度の意味となる。相互に判断基準が違う以上、両者に共通の間抜けさは存在しないから合意は不可能だ。あとは、罵りあいが待っている。

一方、理系の研究者が「間抜けな考え」という場合には、けっして、相手の「かーちゃん」の事は考えておらず、言っていることが、本当に論理的に駄目だと思っている。表面的な言葉は同じでも、それが意味するところは全く違っているのだ。

この違いを認識していない理系の研究者が、文系の研究者と話している時に相手の発言について「間抜けだ」発言をすると、人格攻撃と捕えられてしまうことがある(人格攻撃と捕えずに、間抜けなことを言っていると反省してもらいたいものなのだけれど。)。文系の人間と会話をする時には、相手は共通となる論理基盤の持ち合せがないことを意識しておいた方がよい。

文系の研究者の場合、互いに異なるパラダイムを持っているので、相互の感情がこじれた場合には、客観的な相互批評は不可能となる。そうなると収拾がつかないから、大人の対応としては、相互に、査読無しの論文を通す状況になりうることも理解はできる。また、文系の研究者が、事実背景なしに、思いつきで、面妖なことを主張するのも理解はできる(何しろ、それは、彼らにとって、これから、恣意的にでもデータを集めて検証する仮説であり、その主張は普通の行動だからだ)。

というわけで、文系の研究が、新しいパラダイムを言放つことを目的とするという仮説を考えると、彼らの行動パターンが理解はできる。

この稿では文系の研究手法の是非を問うつもりはない。ただ、そうした研究手法が「科学」かと言われると、それは違うと言って良いだろう。そして、間違えても、高校などの課題研究の指導書で、理科系の研究にまで文系手法を持込むようなまねはしないで欲しい。
by ZAM20F2 | 2018-10-31 07:07 | 文系 | Comments(0)
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