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草稿:観察すること

「見てはいるけど観察していない。そこだよ。」
これは、ベーカー街の2階に上がる階段の段数をワトソンが答えられなかった時のホームズの科白だ。観察することが単なる目視とは質的に異なるものであることを示唆しているけれども、何がどのように違うのかは、このやりとりだけからは理解出来ない。

ホームズは別の場面で「探偵術に最重要なのは、数ある事実から周辺のものと本質とを見極める能力です。」

とも言っている。周辺と本質を見極める部分がまさに観察に相当する部分で観察は論理的推論を行う基礎となるものであることは確認できるのだけれども、ここでも、観察自体がどのようなものであるべきかは示されていない。

「観察」は推理や研究の開始点に関わる事柄ではある。しかしながら、意味のある観察を行うためには、観察を行う時点で、何らかの価値判断基準がなければいけない。そうでないと、視野に入ってくる画像から何を抽出すべきかが定まらない。

では、何を知っていなければいけないかと言うと、幅があり、一つの観察対象についてさえ、一概に言えない。

例えば、液晶のシュリーレン組織と言われる文様は、初めて見る人にとっては、美的判断の対象とはなっても、科学的な意味が想像つかないものだろうと思う。
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黒い領域が細くなって、点で交差するように見える場所は、液晶中に存在する欠陥構造で、液晶の入門書の多くには、点の回りで液晶の細長い分子がどのように並んでいるかと、何故2本か4本の黒い領域が点で交わるのかの説明がなされている。液晶の入門書の知識を持って文様をみれば、科学的な意味が理解出来るようになる。知識がない状態とは異なった風景として認識できるようになる。
けれども、最初にこのような文様を観察した人の時代には液晶の入門書は存在しなかった。それ故、液晶の欠陥に関する知識無しに文様を眺めて、そして、欠陥の存在に気がついたはずである。入門書の内容は、そうした研究者が観察を通して理解したことの結果を記したものなのである。
そう考えると、液晶の並び方に関する知識は文様理解のための必要条件ではない。光学的異方性を持った物質が偏光顕微鏡でどのように見えるかさえ知っていれば、文様を引き起している状況を解明できるはずだ。

ところが、この必要最低限の知識を持っている人でも、文様の意味を読み解くのが困難である場合が少なくはない。ある人にとっては、必要十分である知識が、別の人にとっては、十分な知識とはならないのである。

両者の違いは知識の活用の仕方にあるように思える。偏光顕微鏡下で暗くなる領域では細長い分子は、一方の偏光子の軸と平行か垂直方向に向いている。従って、90度の方向の不確かさはあるけれども、暗い領域での分子の向きは仮定できる。暗くないところは、それ以外の方向を向いているので、それをつなぎ合わせれば向きの分布図ができる。

例えば、4つの領域が集る点の回りの分布を考えると、分子の向きが放射状に分布している可能性や、途中で斜めを向くけれども、元に戻るような分布である可能性が考えられる。上の写真だけからはどちらであるかは決定出来ないけれども、ステージを回転すれば、放射状なら黒い領域の方向が変らないのに対して、もう一つのパターンだと変ることになるので、区別は可能となる。

液晶の組織観察とは、見えている文様が何故生じているかをステージを回転したり、位相差板を入れたりして検討していく作業だ。見えている文様から、それを作り出している構造を解明するというのは、まさに後ろ向き推論の作業である。

こうしてみると、今の場合の最低限の知識で行う観察には、(後ろ向き)推論能力も必要ということになる。逆に、液晶の並び方や欠陥についての知識を持っているなら、前向き推論のみで文様の理解(確認)が可能である。

無謀は承知の上で言うなら、未知の事柄の理解を目的とした観察では、後ろ向き推論との組み合わせが必要となる。見えたものが何故そうなっているのかを原因を遡って思案し、その原因から予想される兆候の有無を新たな観察対象とする。見るべき事柄が分ることにより、漠然とした文様が意味をもつ情報へと転化する。

見るべき物が分っている必要があることについては、別の事例がある。昔、器機の整備をしていたとき、一緒にやっていた人にケーブルのコネクタへの接続を頼んだら、途方に暮れられてしまったことがある。
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理由を尋ねたら、どの向きに差込んで良いのか分らないというので、よく見るように言ったのだけれど、やはり身動きが取れていない。改めて理由を尋ねると、4本のピンが正方形の頂点にあるので、向きが定らないという答が戻って来た。確かにピンは正方形の頂点にあるのだけれど、その外側の円周部分には一箇所の切込みがある。切込みが見えるか見えないかは、ガイドとなるものを探そうとするか否かによっている。

見る物が定っていないと見えない一方で、見る物が定っていると、存在しない物を見てしまう危険性がある。ホームズの

「データなしに理論を立てるのは、致命的な誤りだ。無意識のうちに、事実と符合するべく推理するのではなく、推理に符合すべく事実を歪曲することになる。」

という科白は、この点を正しくついている。思い込みのために、見えているものを正しくなく解釈していたという経験の持ち合せは多くの人にあるだろうと思う。予断がなければ観察は不可能だし、予断があると誤った観察を行う危険性がある。

この点、観察の熟達者は、多様な予断を元に観察を行うという芸を行っているように思える。ホームズの科白にも、

「常に別の可能性を探究し、それに備えているべきなんだ。」

「間違いなくまっすぐに一つのことを示すように見えても、少し観点をずらすと、同じように妥協の余地なく何かまったく別のことを示していることがわかるかもしれない。」

「僕は七通りの説明を考え出したが、そのどれもが僕たちの知る限りの事実に当てはまる。しかしそのどれが正しいかは新たな情報によってのみ決定されるものだし、それがきっと僕たちを待っていることがわかるだろう。」

といったものがある。七通の説明を考えていれば、七通の方向から物を見ることが可能になる。一つの視点から物を見ることに比べると、死角は少なくなると期待できる。熟達者は、最初から一つの可能性を考えていたかのように見える場合でも、おそらくは、短い時間の間に多様な可能性を考えた上で、その時点での観察から、絞り込みをした結果を提示しているのではないかと思う。そして、その予断を元に、必要に応じて、さらなる観察を行う。

観察するためには、多様な可能性を考える想像力が必要なのだ。


最後に、ここまでの話に押込められなかった事態をややこしくする可能性の問題を付け加える。ここまでの議論は、人は同じように物を見ていることを暗黙の前提としている。しかしながら、この前提は、おそらくは正しくない。視力や色覚の個人差もあり得るけれど、ここでは、その後の過程が関与するであろう事象を取り上げることにする。

世の中には「映像記憶」を持っている人がいることが知られている。この能力を持っている人は、見た物を一瞬で記憶して、後に細部まで再現できる。もし、ワトソンがこの能力を持っていたなら、ホームズから聞かれた後で、映像記憶を引きずり出して階段の段数を正確に答えられただろうと思う。

映像記憶は極端な例ではあるのだけれど、個人的な経験の範囲で人が物を見るときの視点が関係していそうな事例を経験している。
一つは、装置の描き方で、上手なスケッチで描くのだけれども、その部分の機能を理解していない人もいれば、部分の機能を重視して、結果として全体のプロポーションがおかしな状態の図となる人もいる。これは、純粋な映像記憶により近い感覚として物体を形態として捉えられるか、映像記憶からは遠いところで、意味や機能として把握するかの違いが関係している気がする(もちろん、機能は理解した上でスケッチが上手な人も存在する。ダビンチのように。)。

もう一つは絵を描くときと写真撮影の違いだ。知合いのデザイナーは絵は上手に描くのだけれど、写真撮影では、フレームの切り方がおかしいものを量産するらしい。一方、私はというと、絵は彼に遙かに及ばないけれども、彼の評価としては、彼よりはまっとうな写真を撮影できるようだ。どこまで一般論として成立するのかは分らないけれども、物の見かたが何か違っているのだろうと思う。

また、深視力や動体視力と言われるものも単純に光学系やセンサーを越えた部分に係わる可能性のある事柄で、この点でも見えるものには個人差があるだろうと思う。

物の見方や見え方が違う人間が、同じ対象を観察したとしても、そもそも見えているものが違うのだから、それ以外の背景知識などが同じでも、そこから得る情報は、おそらくは、異なっている。もちろん、見る以外の聞くや嗅ぐ、味わう、触るについても感じ方の個人差があり、見ることと同様の事が生じる。このような理由で観察結果に違いが生じている場合には、結果の違いは、対話により検討できるが、何故違ってしまったかを解き明すことは非常に困難だろうと思う。




by ZAM20F2 | 2019-12-01 06:50 | 文系 | Comments(0)
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