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科学者そしてサイエンスライター(II)

 伏見さんは、「光る原子、波打つ電子」の中で波束としての電子の解説を行った後で、
「以上、話はたいへん難しくなりましたが、皆さんも一奮発して、何度も読み返して下さい。何しろここでお話ししていることは最も難しい物理学の理論すなわち量子論に関係していることなのですから、そうすらすらとわかるべきものではないのです。
今までのところをまとめて言いますと、エネルギーがEで、運動量がpであるような粒電子に、それぞれに比例する振動数ν、波数kの分散性の波を対応させて考えますと、この波の塊として電子の粒としての性質がある程度まで理解することができるということです。」

と記している。注目すべきはこの前半部分で、伏見さんが読者の努力を要求していることである。最近のグラフィカルな科学雑誌も、そして、多くの科学教室の説明も、対象者には、あまり努力を要求してはいない。科学雑誌の場合は、下手に努力を要求すると読者が付いてこなくなるとう面はあるだろうけれども、努力なしに理解出来ることは、基本的にはその人が既に知っていた程度の事でしかない。それでは、基本的には賢くなれないだろうと思う。

読者に努力を要求する一方で、それに食いついて来る人のためには、惜しげもなく物理的な考え方を伝えようとしている。例えば、

「デカルトがその「方法序説」で一つの格率として「研究しようとする問題の各々を出来るだけ多くのそうしてよりよき解決のために要請され得るかぎりの小部分に分割すること」と説いているのを、今引用するのは索強附会かも知れませんが、全体として眺めていてはどうにも手のつかない多くの物理上の問題が、その微分要素に考察を向けることによってどんなに近づき易くなるかは苟(いやしく)も物理の初歩を学ばれる方には分かるはずです。」

なんて言うのは、問題の取扱の基本的な事の一つだけれども、あんまり明示的には教えられていないことである気がする。そしてまた、

「新しい見慣れない現象に出会った時、人々のとる態度は何でしょうか。それは先ず第一に既得の知識を使ってそれを説明しようとすることでしょう。それがどうしても旨く行かない時、人々は今度は自分の知識の体系を変更しなければならないことに気付くのです。これは全く正しい生き方と順序です。その第一段の手続きを怠るならば、私どもは不断に現象の驚異に曝され、決して自然の秩序に思い至ることがないでしょう。私共は野蛮人のように、事毎に独立不覊(ふき)の神を認めて多神教を信奉するようになるでしょう。
 私は今まで物理学就中理論物理学の最前線で、どんなに古い知識体系が崩れ去って、新しい革命的思想がとって代わったかを話してきました。このような瞠目的な前進の物語をするのは、話をする方も叉聴く方も面白いには違いありませんが、それには一つの危険の冒されていることを強調しなければなりません。このような目覚ましい事件というものは要するに珍しければこそ人々の注意を集めるのでありまして、物理学全体の前進はもっと地道な生き方を辿っているのであることを充分に知らなければなりません。
 先ず大部分の新しい研究領域では、古い慣れた考え方が(その外見が甚だしく見慣れないものであるにしましても)その儘運用するのであります。私共の長い戦線からの報告は、結局「異状なし」であることが多いのであります。」

は、ものすごく大事な内容だ。なにしろ、こんな忙しい世の中になってくると、人目を引くために、見つけたことを既得の知識を使って説明する努力を省いたような仕事も発表されるわけで、それに対する警告にもなっている。

一方で、より具体的に役に立つ話もある。

「物理学者は不必要な精密ということを嫌います。問題問題に依って何が大切な肝心なものとなるかをよく知らなければなりません。会計検査官に取っては最後の何銭の桁が問題かもしれませんが、何十億円の国病予算の審議に一議員がこの最後の何銭を問題にしたとならば、私共は彼の常識を疑うことでしょう。常識の健全なる発達であります科学は、今一度言いますが不必要な精密さを嫌うものです。かかる立場にあれば「高い山に登ると太陽に近づくのに何故寒くなるの?」という子どもの質問に対して、あまりびくびくしなくてもすむことになりましょう。大気の温度分布に就いて気象学者がどういう説明をするか私は詳しくしりませんが、少なくとも子どもの疑問が無意味なものであることだけは判ります。假令ヒマラヤの山頂を極めたとしたところで、私共は太陽にいくら近づいたというのです。九牛の一毛も近寄ってはいないのです。」

なんかは、もっと具体的に有効数字という概念を感覚的に分かりそうな例を使って説明している。確かに、学生実験などを通して有効数字の扱い方は教わるわけだけれども、そもそも、何桁の有効数字で物事を扱うかは、有効数字の扱いとは別の話で、そっちの感覚も大事だと気づかせてくれる。


伏見さんは、理論家なのだけれども、実験に対する感覚もきちんと持っている印象がある。たとえば、
「『自然は真空を悪む』という言葉があります。近頃科学教育ということが頻りに問題になっておりますが、そういう論の中に「自然は真空を悪む」などという言葉はけしからん、こういう擬人的な言葉こそ凡そ非科学的で、客観的真理を記述する科学精神とは相容れないものであるという方があります。私をして言わしめて下さるものでしたら、そういう批判こそ、一知半解も甚だしいと申しあげたいものです。近頃の物理学の実験を試みられた方なら、先ず十中の八までは真空を取り扱われた筈でありますが、およそ一度でも真空を作って見られた方なら、此の「自然は真空を悪む」という言葉をつくづく身を以て味あわれることでしょう。よく言い表したものであると感心しないわけにはいきますまい。」

なんて言うのは、真空度の上がらない装置と格闘したことがある人なら実感を持って受け入れられる所だろうと思う(もっとも、最近では出来合の装置の性能が上がってしまったために、真空が上がらなくて苦労するなんて状況にも余りお目にかからないようだけれど。)。さらに、実験あるいは実験家について

「けれども実験がどんなにむずかしいものであるかを知る人は少ない。学生は大抵の場合、頭の悪い奴は実験へ廻れと教えられています。それは単に技術を習得するというだけならば或いは当たっているかも知れません。併しいやしくも独創的な仕事をしようとする人ならば充分の頭の働きが必要です。その上にあらゆる人間の徳、強固な意志、粘り、注意力、厳格、正直、思想の自由性、体力がなければなりません。此のあらゆる徳を以てぶつかって行った時、初めて頑固な自然はその秘密を私共に開いてくれるのです。」

とも記している。今の世の中、趣味の工作が廃れてしまったためか、物を扱う経験量が全体的に低下している。そうなると、出来合の装置を使って、ボタンを押せば済むような測定は出来ても、何かを作り上げて新しいことを測定するのは困難になっていく。




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by ZAM20F2 | 2018-10-17 06:07 | 文系 | Comments(0)

科学者そしてサイエンスライター(I)

大分前の「専門家とサイエンスライター」「専門家とサイエンスライターまた」では、専門外の事についてはある分野では専門家である人も1人のサイエンスライターでしかなく、間違った内容を記してしまう場合もあることを取り上げた。逆に、世の中には科学者としてもサイエンスライターとしても一流で、書いた物を読むだけで、目から鱗が何枚も落ちてしまうような素敵な本を書く人もいる。物理分野のガモフや生物系のグールドなどはこのような人々だし、そして、ガモフの著書を戦前から戦中に訳した伏見康治さんも、優れた科学者兼サイエンスライターの一人であると思う。なにしろ、卵の実験なんて意表をついた本まであるのだ。


著作集からだいぶ経って出版された「伏見康治コレクション」は数学セミナー、科学朝日などに連載されたものをまとめたものらしく、それなりの予備知識を持つ読者を対象にしている感がある。しかし、戦前に書かれた「驢馬電子」や「光る原子、波打つ電子」は掲載雑誌から考えると、少し背伸びをしたいぐらいの旧制中学生ぐらいも視野にいれた解説だ。だいぶ前のエントリーで驢馬電子を取り上げたときは、もう少し年上向けと記したけれど、考えが変わったのは、驢馬電子の中には兄弟による問答形式の話があり、そこに出てくる弟が旧制中学程度の年齢だからだ。あえて、その年齢を選ぶと言うことは、そこを対象読者として考えているということになると思う。

 少し話はそれるけれども、「小国民理科の研究叢書」にも問答形式は結構使われていて、あるいはこの時代には、この手の科学読みもの(だけでなく一般的な子ども向け読み物もかもしれないけれども未確認)に一般的な記述形式だったのかもしれない。

 さて、その解説において、伏見さんは流石に大学の教科書に出てくるような数式は使わずに、原子物理や原子核物理の話をしていくのだけれど、そこでは、単に知識を伝えるのではなく、科学の考え方を伝えようとする意識が働いているのが色々なところににじみ出ている。例えば、驢馬電子の前書きには

「こんな懸け離れて小さい世界に私達の探求の手が延びていく時、粗大世界で私達の慣れた言葉、概念が重大な障碍に出会うことは予め覚悟していなければならないことでありましょう。こんな遠い世界の涯まで私達の日常の言葉がそのまま通用すると考えるのは、世界中どこでも英語が通用するとするイギリス人よりも思い上がった考えと言わなければなりません。事実はそれ程心配しなくても宜しいので、驚くべき程私達の粗雑な言葉は極微粒子の世界でも通るのであります。勿論適当な補正を加えて。
 もしこの偶然ともいうべき幸運がなかったなら、私はこんなお話を始める勇気を持ち合わせなかったことでしょう。ただそのような小さい世界の現象に浸り切ることによってのみ体得できる言葉を、いわゆる術語を使って皆様にわかる話をしようとしたとて、無理なことは明らかですから。物理学が科学の華と言われる程の大発展を遂げましたのも此の好都合が幸いしているために違いありません。
 けれども此の幸運になれてはいけません。私は多くの類推を並べたてることでしょうけれども、学問というものは類推だけで成り立っているわけではありません。類推が理解を援け、叉専門家が新しい領域に踏み込む時の足場の役を務めることも確かでありますが,併し試みに踏み出した足先が堅い地盤に触れたかどうかを審判するのは、ただ実験事実、現象そのものであるのです。つまり、現象に慣れ親しむことによってその言葉と文法とを体得する,現象に即して考えるという純粋な思惟が本質的な役目を果たしているのであろうことを御注意下さい。」

と、これから行うであろう類推を用いた説明には限界があることを読者に示している。(ついでに記すと、自分のやってることがグローバルというのは第二次大戦前からのアングロサクソンの感覚なのだなぁと思ってしまった。)

さらに、二原子分子の分光のところでも

「人々はよくギリシア、ローマの哲人達が近代の科学の獲得した思想に似たものを既に所有していたことを説きますが、私共はかような先走った空想に何の価値も認めることは出来ません。私共は一歩の飛躍は尊重しますが、千歩の飛躍はこれを肯ずることが出来ません。一歩の飛躍の後には左右を見渡して自分の足場を確かめることが出来ます。千歩の飛躍の後にはそれは不可能でしょう。」

と一足飛びの議論ではなく、着実に前に進むことの重要性を記している。このような意識があるために、原子核物理二十話という副題のある本の中でも、真空を作る話、霧箱、ガイガー計数器など実験のことに随分と頁を費やしていて、その後で、

「一体私のこれまでのお話では、少し世の中の慣習をはづして道具のお話を詳しくし過ぎた惧がないでもないのです。普通ならば、今度の話あたりから始めるべきものであったのでしょう。原子級の世界に於ける微粒子同士の様々な交渉、衝突や崩壊や放射能の現象に就いて私共物理学者が現在抱いている像をお知らせするのが本筋であったかも知れません。併し私はそのような話が齎(もたら)す危険を思ってみました。原子級物理の応用は宣伝的には色々なされてはおりますが、現在のところ電気とかラジオとかのように私共の日常生活と密接な結び付きを持っているわけではありません。この通り世界にいきなり皆様を連れて行くとしましたなら、それは実はおとぎ話の世界へご案内するのと大差ないこととなりましょう。世の科学通俗化を目指すお話の大部分はこの遠い世界のことを面白おかしく説いているようですが、それでは「科学」の通俗化にはならず、科学の成果の文学的記述で、驚異に満ちているという点でアラビアン・ナイトや西遊記と選ぶことがないこととなりましょう。」

などと、寄り道をしていることの真意を改めて説いている。それにしても、「現実とは解離した原子級物理の応用の話は驚異に満ちているという点でアラビアン・ナイトや西遊記と変わらない」という指摘は、クラークの「十分に発達した科学技術は魔法と見分けが付かない(1973年発表らしい)」という指摘に通じるところのある内容を30年程も前に記しているわけで、東西を問わずに似たようなものだなと思うし、クラークの発表から40年経過した今でも、西遊記と変わらない科学読み物が結構ありそうなことを考えると、時代を超えて注意しておかなければならない事柄であると感じられる。なにしろ、科学技術・学術政策研究所の「科学雑誌に関する調査」では、若年層の科学技術離れをなくす手段の一つとして、研究者・研究機関側からの情報提供を上げているが、伏見さんが注意点を書いた時代から、さらに先に進んでしまった先端の科学研究を伝えることは、伏見さんの時代以上に文学的記述となる危険性があるはずであるにも係わらず、伏見さんの指摘された危険性はほとんど意識されていないように思える。アラビアン・ナイトや西遊記は元々がお話であるという認識にあるものだから、それらが面白かったからといって、学校の理科が難しくてつまらないものにはならない。しかし、科学の成果の文学的記述を読んで、それが面白いと思えば、より面白くない学校の理科から離れていく理由にはなるわけで、これまでも、同じような事を書いているので、繰り返しになるけれども、荒唐無稽な物語とは違って、科学に害をなすものになりかねないのである。

 話はそれてしまったけれど、伏見さんに限らず、きちんとした科学者でありサイエンスライターでもある人の書く読み物には、知識というより考え方を伝える意識があるように感じられる。科学によって得られた知識というよりは科学という考え方を伝えようとしている印象がある。もう少し、伏見さんの言葉を拾ってみたい。
 
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by ZAM20F2 | 2018-10-15 06:57 | 文系 | Comments(0)

まっとうだった

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売れている本には近づかないことが多いのだけれど、待ち合わせまでに時間があって立ち寄った本屋でぱらぱらしていたら、思ったよりまっとうで買い込んでしまった。
えっと、内容については、方々で書評がが出ていると思うので、多分、他では取り上げられない重要なメッセージをひとつ。
「読解力は成人後にも上昇する(例が少なくとも一つはあった)」
ということ。これは、重要な知見じゃないかと思う。
それにしても、改めて人の能力の多様性について思案している。世の中には、ペーパーテストが出来て、AIが入れそうにない大学に入って、中央官庁のお役人になる人々もいるわけだけれども、その人々が政治家に転身したあとの言動を見ていると、「アホじゃないの」と感じられる例がある。もちろん、「アホじゃないの」な政治家は中央官庁以外に、弁護士あがりなんかもあるわけで、それらの人々は、AIではまねできない読解力は持っているはずなんだけれども、でも、言動がが「アホ」になるのは、読解力とはまた、別の、もっと重要な能力も存在しているようだ。

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by ZAM20F2 | 2018-09-14 20:36 | 文系 | Comments(0)

そのカッター、刃を出し過ぎです

赤いキノコの本の数冊横にあって、ついでに買われてきた本。肥後の守を含むナイフが教育効果あるよね系の本で、まあ、ある意味予想どおりの内容。ただ、出てくる刃物は肥後の守やアーミーナイフ、鉈などで、カッターナイフは使用例としては出てこない。その点はまっとう。
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一つ、なるほどと思ったのは、子供に肥後の守を使わせている小学校の話。その導入を行った校長先生は、時間をかけて親を説得して導入を果たし、そのときに、子供に向かって、「鉛筆を削るためのナイフで悪ふざけをして、もし友達を傷つけてしまうようなことが起こったときは、校長先生は学校をやめなくてないけません。ナイフというものは危ないものですが、でも、あえて皆さんには使って欲しい。」と語りかけたそうだ。本当に責任をとる覚悟のある大人の言葉は、子供も重大に受け止める。

ところで、このブログで昔に、中学生向けの自由研究の本に、刃を出しすぎのカッターの使い方が出ていると晒したことがあるけれども、どうやら、その本には悪い手本があったのではないかという気になりつつある。

その悪い手本の1冊がこれ。
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そこら辺の本屋には置いておらず、神保町に行ったのは、この手の本を入手するため。最初の方に、ルーペの使い方なんかが書いてあるのは悪くはない。ルーペを目に近づけて持つのは大人にも、あんまり知られていないこと。現場でどれだけ実践されているかはともかく正しいことが書いてある。
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で、悪い手本の部分はというと、カッターナイフの使用例。
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これは、明らかに刃先の出し過ぎだ。これ以外の似たような本も見たけれども、そちらでも刃先が出し過ぎの図がある。これらの本、一応、
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と、お役所が内容をチェックしたことになっている。ということは、お役所からして、カッターナイフの危険な使い方を推奨していることになる。

この本には、何カ所か同じようなカッターナイフの使用例が出てくるけれども、薄片を作る場面では、さすがにカミソリを使うことになっている(同種の別の本では、その場面でカッターナイフの刃をホルダーから取出した状態で使う絵になっていた)。図を見ると、カミソリの反対側は、テープか何かでカバーをしてそちら側の刃で手を切らないようにしているように見える。カミソリの刃に注意という文言はあるのだけれども、何をつかって、どのように処理をしているのかの説明はない。カミソリの刃に注意なんて書くより、具体的に、何をすべきかを記すのがより重要なはずだ。責任をとる気のない大人のアリバイ作りというのは、間が抜けていて見苦しいだけのものだ。

子どもの刃物場慣れを心配する前に、生物学教育者の刃物離れを心配した方が良さそうな状況だ。

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by ZAM20F2 | 2018-05-27 13:58 | 文系 | Comments(0)

CASEと現実の間 又

前のエントリーで前向き推論と後ろ向き推論を取りあげた。後ろ向き推論は科学研究で多用されるものだが、、科学教育として明示的に意識され、それをはぐくむ手法が検討されてはいない手法である気がしている。多くの「考える科学教育」は提唱されているけれども、それらで扱われているのは「観察」から一本道に「仮説」を立てて進むような、前向き推論に基づいたものである印象が強い。

こうなってしまっている理由の一つは科学教育は教育学者によりなされており、前向き推論の使い手であっても、後ろ向き推論を研究に使うことは少なく、理系の科学研究の方法が体感出来ていないためだろうと思う。しかし、後ろ向き推論が研究の現場で使われる手法で、しかも、多くの生徒さんが、その思考法を身につけていないとするならば、後ろ向き推論こそ、このブログで昔に取上げたCASEと現実の間を繋ぐもの(の少なくとも1つ)として、科学教育の一つの柱になりそうだ。

「CASEと現実の間」にひさしぶりに戻ってきたのは、高等学校の課題研究で「未知で新規なことがら」を対象とする「教育的意義」について少しばかり思案していたためだ。理数科の高校では課題研究というものが行われているし、新しい指導要領では、探求活動というのが入ってきて、高等学校の生徒さんも「研究的なこと」をやる場面が出現することになるらしい。でも、個人的には、それらの「研究的なこと」の内容や進め方は、研究者視点からは「研究ではないなにか」になりそうな気がしている。そして、「研究ではないなにか」をやっても、生徒さんが学ぶことは少ないだろうと思う。そんな、背景があるものだから、課題研究の感想を求められた時に、「それは研究ではない」と言ったことを口に出してしまうことがあるのだけれど、それに対して、高校の先生方からは「企業や大学のような装置がない高校では新規な事柄を対象にした研究はできないし、目的は教育だ。」と言われると、なかなかに返す言葉が見つからなかった。これは、私だけのことではなく、どうも、研究を生業とする人間と、高校の先生型の研究のやり方を巡る議論は平行線で不毛なものとなってしまいがちのようだ。

このような状況を打開するためには、高等学校の先生に、理系の普通の研究スタイルと、その手法により「未知で新規な事柄」を相手にすることによって初めて得られる「教育的価値」を説明して、それらの価値を理解してもらう必要がある。理系の研究スタイルを理解してもらうためには、平賀壯太さんの『蝶・サナギの謎』などを題材に説明するのがわかりやすいかと思案している。この説明の過程で、同時に、後ろ向き推論がどのように研究の過程で使われているかも示す事が出来ると思う。

ただ、未知で新規な事柄を相手にしたからと言って無条件で後ろ向き推論の技術を身につけられるわけではない。効果的な教育を行うためには、それなりの準備が必要となる。「未知で新規な事柄」を扱う場合には、後ろ向き推論をする前提として「探偵術に最重要なのは、数ある事実から周辺のものと本質とを見極める能力です」が必要となる。最初のステップで着目した事実が本質から外れた物であったとすると、いくら後ろ向き推論をおこなっても、正しい結論には行き着けない。このため、「数ある事実から周辺のものと本質とを見極める能力」をとりあえずは棚上げして、本質的な事実がは限定して与えられた状況で、後ろ向き推論を行う練習から始めるのが良い気がする。

後ろ向き推論を行う課題開発に対して参考になるのは、NHKの「ドクターG」という番組で、研修医が症例とその再現ドラマを元に病理診断を目指すものである。この番組では、最初に示された症例を引き起す病因を可能な限りあげて、その病因で症例を全体的に説明できるか、反する部分はないかなどをチェックしていく。そして、複数の候補が残った場合には、さらにそれらを区別する検査を行い、最終診断となることが多い。この仮定で、研修医達は、自分か考えていなかった可能性も含めて思考の幅を広げ、さらに初期診断で説明不可能な症例部分を追求される。実際の医療の現場でも症例検討などで、このような作業を通して全体を見渡しながら、可能性を絞っていく後ろ向き推論の芸が身についていくのだろうと思う。ただ、さかのぼれる深さは、研修医の知識レベルにも依存している。番組では研修医は、その場の議論に対応できる知識は持ち合せている。それ故、自分の診断では説明のつかない症状があると追求されれば、その診断が誤っていることを認識出来る。また、最終的な診断も納得して理解できる。

前のエントリーであげた、装置の故障診断で話を進めるなら、ヒューズの存在を知らない人間は、故障の原因としてヒューズ切れを上げることは出来ない。ただ、一方で、また、ヒューズが切れていることが故障の原因であると示されても、新たな(単体の)知識の習得にはなっても、論理的な思考方法の訓練とはならない。しかし、それでもケーブルや電源等の確認を通して、装置本体に問題があるまではたどり着ける。知識のレベルにより、最終的に到達する深さは異なり、また、後ろ向き推論の幅も変化するけれども、一応の訓練は可能であるようには感じられる。


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by ZAM20F2 | 2018-05-18 07:05 | 文系 | Comments(0)

草稿:前向き推論と後ろ向き推論について

人間の理解が皮相的になりがちであるのは、我が身を振り返って屡々感じること。そんなこともあり、本屋でタイトルに惹かれて手に取った本の中に前向き推論(Reasoning forward)と後ろ向きの推論(Reasoning backward)の話が書いてあった。
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前向き推論というのは、その時点で知られている事柄を元に、その結果を予測する操作。本では予測推論(causal reasoning あるいはpredictive reasoning )という言葉も使われている。後ろ向きの推論というのは、生じた事象に対して、その原因を遡って推測する操作で本では診断推論(diagnostic reasoning)とも記されている。本によると、前向き推論の方が後ろ向き推論より容易であるという。

もっとも、この話は、この本で始めて主張されたことではなく、私の知る限りでは、ホームズ氏がワトソン氏に向かって話していることそのままである。ホームズ氏は前向き推論をreason synthetically、後ろ向き推論をreason analyticallyと記している。ホームズ氏によれば、後ろ向き推論を出来る人は50人に1人程度だという。ホームズ氏はこの点について、日常生活では前向き推論の方が役に立つ能力であると記している。ホームズ氏は、この方法は簡単な物だとも言っているのだけれど、ワトソン氏には出来ないと、その後で主張しているところを見ると、ホームズ氏にとっては簡単な方法でも、普通の人にとっては、必ずしも容易ではない印象が強い。しかし、ホームズ氏も、この本の著者も、何故前向き推論の方が容易であり、多くの人が前向き推論しかしない理由を説明していない。

後ろ向き推論は、理系の研究現場では頻繁に使われる手法であるように思える。医者の病理診断は診断推理であり、まさに後ろ向き診断そのものだ。病理診断の場合には、その症状を起こす可能性のある理由を可能な限り考えて、その中で最も適合するものを選んでいくようだけれども、これは、未解明の問題に立ち向かう時の人のやり方そのものでもある。謎に対して、可能な解釈を考え、その解釈の妥当性を検討しながら先に進んでいく。科学の進み方そのものである。

可能な解釈は、仮説(作業仮説)と呼ばれることもある。よくある科学の進め方の解説では、一つの仮説が提示され、それの成否を検証するという筋道になっているけれども、診断巣いるでは、複数の仮説が並列に存在して、しかも、それらの仮説の間には矛盾が存在するのが普通である。研究の進み方は、決して単線的なものではなく、複雑な分岐から、もっともらしいことを選んでいく作業だ。研究は、仮説の妥当性の検証ではなく、複数の仮説の中から、より正しいものを選択する作業であることが多い。

さて、本題に戻って、後ろ向き推論が何故難しいのかを、一つの例を用いて考えて見よう。上では医者の病理診断の話を出したけれども、そちら方面の知識はないので、もう少し身近な機器のトラブルシューティングを扱うことにする。例えば、ある機器を使う時には、その機器の電源ケーブルをコンセントに差し込む。これは、「電源ケーブルが入っていない→その機器のスイッチを入れても動かない」という前向き推論があるから、前段を満たす操作をおこなっていると考えて良いかと思う。一方、日常的に使っていたはずの機器が動かない場合には、後ろ向き推論では、単一ではない複数の可能性が考えられる。たとえば
・器機に接続したケーブルが抜けていないか
・ケーブルが断線していないか
・本体のヒューズかブレーカーが落ちていないか
・テーブルタップの元の電源が抜けていないか
・コンセントのブレーカーが落ちていないか
・停電していないか
・バックアップバッテリーは大丈夫か
・機器の故障ではないか
・部屋の空調がついていないか
・部屋のドアの開っていないか
・仏滅ではないか
と言った可能性をあげることが出来る。そして、上の方の理由をより重視して、「仏滅だからだ」などと冗談で言うことはあっても、真剣には考えないでいられるためには、それなりの背景知識が必要となる。実際、電気に関する一切の知識の持ち合わせがなかったら、心から「仏滅だから」とか、「蜘蛛を殺した祟り」だと考えていても驚かない。仏滅の上の2つは、トラブルとは直接結びつかないように思うかもしれないけれども、空調の故障で部屋の温度が上がって装置が停止している可能性や、空調がついているなら停電の可能性は除外する情報になっているなど、実は事象に関わっている可能性は排除できない。ドアの開閉についてはその建物に特異な事象として関係がある可能性がある。この場合は、その場所に限った知識の有無が重要となる。

この例で分かることは、前向き推論では、分かっている情報以外の新たな情報は用いずに推論を行えるのに対して、後ろ向き推論では、関連する情報を選択する必要があること。いわゆるフレーム問題が関わってくる。そして、適切な枠組みを選ぶためには、生じていることに対する、ある程度の知識が要求される。勿論、前向き推論でも、「電気がなければ動かない」という知識は要求されているのだけれども、後ろ向き推論は、より具体的に、電気が遮断されうる状況や装置の状態に関する知識が必要となる。

実際、ホームズ氏は古今東西の犯罪に関する知識は豊富に持ち合せているし、お医者さんも一般人に比べると症例に関する豊富な知識の持ち合せがある。ただし、持っている知識の中で、どれが適合出来るかの判断が出来なければ知識は使い物にならない。この作業は、診断結果が既知の現象で、的確な情報が得られており、その現象に関する知識も存在する場合には、機械的に行える要素が強くなる。少し前に病理診断のAIが人間の医者には見抜けなかった、特殊な白血病の判断を正しく下したことが話題になったが、病因毎に症例のリストが存在していて、それらの比較検討が可能なら、たしかに起こりうる事だろうと思う。

しかし、対象が未知の事象の場合は、何を情報として取り上げるかから問題となる。ホームズ氏が「探偵術に最重要なのは、数ある事実から周辺のものと本質とを見極める能力です」と言っている部分が最初の関門となる。

この項続く (たぶん)

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by ZAM20F2 | 2018-05-13 08:56 | 文系 | Comments(0)

五人囃子の不在について

百貨店を覗くとひな人形売り場に行き当たる季節になっている。
で、ふらふらと、買う気もないくせに覗くことになるのだけれど、ほとんどの店で昭和の時代にはなじみの深かった七段飾りはなく、内裏びなだけか、内裏びなと三人官女のセットのみになっている。五人囃子は不人気らしく、眺めた中で一組しか存在していなかった。あと、右大臣、左大臣も一組眺めただけの気がする。
昭和から平成になり、さらに収納スペースがなくなっているのか、それとも、ひな人形に関する固定観念が変化してきたのか分からないけれども、昭和の人間としては、内裏だけのセットや、三人官女までのセットには、違和感を感じている。
失業した楽師達、どこで何をやっているのだろうか……

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by ZAM20F2 | 2018-02-12 11:26 | 文系 | Comments(0)

こっちのブログのこと



リンクしている天文古玩さんに「このブログのこと」というエントリーが上がった。ブログの行く末に思いを巡らせるエントリーだ。

天文古玩さんは13年目をむかえたそうだけれど、こちらのブログは、2008年の夏に発作的に始まったので今年の夏で丸10年となる。当時、知り合いと光がらみの科学写真を撮っていて、それらの一部はプロジェクトTタグになっているのだけれど、もともと、フリーのWeb素材があったら良いねなんて話も出ていたので、それも引き金になっていると思う(実は、科学写真を撮るという口実で、デジタル1眼レフを買い込んで、随分と写真を撮影していたのが直接の原因かもしれない)。

プロジェクトTはだいぶ前に終わってしまっている。そういう意味ではブログの最初の目的は消失したことになるけれども、その後もしぶとく続いていることになる。

ブログをやめられないことについては、ブログの奴隷という記事が「panoramaheadの蔵」にある。


「アクセス数を意識した記事づくりを始めるとそこは地獄の一丁目」なのだそうだけれど、このブログ、平均訪問者は数十人のレベル。アクセス数を意識した記事作りはしていないためというよりは、自分が面白いと思うことが世間様からずれているために、アクセス数は増えないというのが実体だろうと思う。そういう意味では、存在意義があるか分からないんだけれど、でも、逆に、流行り物でないから、存在していてもいいような気もする。

ネットが発達して、ちょっと検索すれば、似たような情報が山ほど出てくるけれども、その隙間で探しても見つからないような話もある。そんな話は需要が、そもそも少ないのかもしれない。でも、有理数が無限にあるにも関わらず、それだけでは数直線を埋められないように、隙間になる情報というものも必要なんじゃないかと思う。

情報を置いておく場所として、ブログは書き手にとっては匿名で、読み手にとってはアクセスフリーなのが良い点だろうと思う。facebookはアカウントを持っていないと見られるものが限られるし、書き手も素性をさらさないといけないあたりに自由さがない。実は、何かにアクセスする必要から、架空の人物の名前でfacebookのアカウントを作って、その後は放置しているんだけれど、そこに、知り合いじゃないか申請が来てしまって、途方にくれている。そんな、感じのつきあいでなく、お互いに素性が分からずに、あるいは道で毎日すれ違っているけれども、読み手と書き手とは認識していないなんていうつきあいがあっても良いんじゃないかと思う。それに、その方が、書き手を離れて、内容だけに集中出来る。

かつて、ネットが繋がり始めたころは、個人アカウントなんてのが存在しなかったので、所属がはっきり分かるアカウント(というかメールアドレスかな)などでfjなどのニュースサイトの書き込みが行われ、そして、そこでの発言は組織とは無関係な個人のものと見なされていた。でも、個人でアカウントが簡単に持てるようになり、いろいろな場所での発言に組織のアカウントを使う場合は、組織を背負っての発言と見なされるようになっている。今日では所属が明らかになるような形でサイトを運営するのは、組織を背負っていると理解されるだろうと思う。そんなことを考えると、完全に匿名で運営できるブログというのは悪くない媒体であるように思う。

ただ、ブログの一つの問題は、情報が過去に埋もれていくこと。備忘録には悪くないのだけれども、プロジェクトTのような一連の情報を晒しておくのには、掘り出すのに大変なところもある。そんなこともあり、このブログで何度か出したこともある「科学の学校 にじ」については、まとめて紹介する場所を作りつつある。


そちらのサイトも未来永劫完成しそうにないけれども、ぼちぼちとブログを加えながら、ゆっくりと、まとめていくのも悪くはないかなと思っている。

Webの更新速度と寿命に関係があるのじゃないという話が平林さんのところにあったけれど、
要は、ぽつぽつと続けるのが良いのではないかと思う。


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by ZAM20F2 | 2018-02-08 21:27 | 文系 | Comments(0)

刃物店員の刃物知らず……

国道の拠点の近傍にいく用事があったので、ついでに刃物屋さんにも足を伸ばした。
非売品ではあるけれども、藤原良明の小刀が飾ってある。ショーケースの中でアクリルの台で斜めに立てかけているのだけれど、小刀が長すぎて先端が後ろの壁に当たっている。でも、記憶をたどると、前回来たときは、藤原良明ではなく藤原真平の小刀だった気がする。で、先端が壁にめり込んでいるのにショックをうけて、店員さんに扱いに注意するようにお願いした。
記憶が正しければ真平銘を良明銘に替えたわけで、裏では随分と在庫を持っているのかなぁという気分になっている。
そういえば、その前来たときには、重房の小出刃とアジ包丁が入れ替わって展示していて、最初に指摘した店員さんは、「手作りだからばらつきがある」なんて重房さんに失礼な事を言っていたけれど、しつこく喰い探った結果として呼ばれてきた店員さんは、一目見るなり間違いを認めて入れ替えていた。
で、本日は、まだアジ包丁があるか見に行こうと思ったら、手前で店員さんが段ボールを使った梱包作業をしていて、奥にいけない。まあ、見ても買うわけではないので声をかけて通してもらったりはしなかったのだけれど、梱包作業を見ていると、段ボールを切るのに、小型のカッターナイフを使って、刃をものすごく出して使っている。切っている最中に刃が撓うのが見て分かる。
いや、これ、危なすぎるでしょう。というか、伝統ある刃物屋の店員さんの作業としては、あるまじき刃物の使い方。
決して若い店員さんではなかったわけで、この店、確かによい刃物は置いてあるのだろうけれども、店員さんは決して刃物好きではなく、単なる商品でしかないんだろうなぁと感じてしまっている。
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by ZAM20F2 | 2017-12-02 20:37 | 文系 | Comments(0)

瓜田でタップダンス

瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず
というのは、出典はしらないけれど教養のない私でも知っている文言。政治家の皆さんに最低限守って欲しい事柄だと認識している。
でも、極東の島国では、そんな古い話は流行っておらず、最近の流行は
瓜田でドジョウすくい、李下に阿波踊り
という印象だ。
派手に踊っている人が、実際に瓜や李を取ったのかは知らないけれど、踊るだけでは足りないらしく、教育にも口を出しそうな勢いだ。
でも、こんな踊りをしている人が教育に口をだしたら、さらにドジョウすくいや阿波踊りが流行るか、それとも、グローバル化とか言って瓜田でタップダンスを強要し、瓜の実も蔓も葉も根もずたずたにするんじゃないかと心配している。


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by ZAM20F2 | 2017-09-25 20:41 | 文系 | Comments(0)