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カテゴリ:文系( 152 )

読んでなかった……

ひさし振りに読み返そうと本棚から発掘した本。
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分かったことは、まともに読んでいなかった……
何で読み返そうと思ったかというと、最近読んだ
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の内容が記憶とは随分と異なっていたため。
で読み返した結果、本の最初の部分しか目を通していなかったらしいことが分かった。
上の本、タイトルからは、文系と理系の相互不理解を扱った本で、最初の方は、そんな内容なのだけれども、後半部分になると、技術官僚により効率的に運営される政府という方向の話になっていく。科学の負の面が、それほどあらわではなかった頃の楽天的な考えの先にある話で、下の本は、後半部分を巡る論争の話。対立は、文系と理系というより、文化と文明の対立という印象がある。この視点、今でも対立が続いている気がする。
by ZAM20F2 | 2019-12-11 05:21 | 文系 | Comments(0)

そっちもデタラメか:にわか地震談義

南海トラフ地震の30年確率が80%という発表がなされているけれども、その数値に科学的根拠が存在しないという話が中日新聞に掲載されているそうだ。

早速眺めてみると、確率の計算根拠が他の地震と違っていて、同様の手法で計算すると20%程度にしかならないのだそうだ。ただ、それを発表してしまうと、南海トラフ地震への備えが疎かになるというので、かつて発表してしまった数値を死守しているらしい……。

今週は公共放送が首都直下地震週間とか称して、あたかも高い確率で東京都心部で直下地震が生じるような映像を流しているらしいけれども、少し前に記したように、首都直下地震の70%が、どう考えても科学的根拠皆無な話だし、その確率ですら、房総沖まで含めての話。東京新聞あたりが、中日新聞に倣って、くずな話であることをきちんと報道してもらいたいものだ。それにしても、公共放送、全うに科学的なことを扱える人材は皆無なのか。無批判に70%を受け入れることといい、大科学実験の反科学性といい、番組作成、報道系には、理系の人間を1人も雇っていないのではないかと疑いたくなる。

ついでに、中日新聞の「南海トラフ地震の確率予想のみ特別な方法」というのが本当なら、他の地震の確率は、どこにあるか分からない断層をもとに、適当な期間をとってのポアソン分布から求めていることになる(何しろ、首都直下地震に使われている手法がこれだから)。それって、すべての確率が科学的に屑っていう話になるのだけれど、思わず、他の確率をどうやって計算しているのかを調べなければという気になっている。


by ZAM20F2 | 2019-12-05 07:41 | 文系 | Comments(0)

草稿:観察すること

「見てはいるけど観察していない。そこだよ。」
これは、ベーカー街の2階に上がる階段の段数をワトソンが答えられなかった時のホームズの科白だ。観察することが単なる目視とは質的に異なるものであることを示唆しているけれども、何がどのように違うのかは、このやりとりだけからは理解出来ない。

ホームズは別の場面で「探偵術に最重要なのは、数ある事実から周辺のものと本質とを見極める能力です。」

とも言っている。周辺と本質を見極める部分がまさに観察に相当する部分で観察は論理的推論を行う基礎となるものであることは確認できるのだけれども、ここでも、観察自体がどのようなものであるべきかは示されていない。

「観察」は推理や研究の開始点に関わる事柄ではある。しかしながら、意味のある観察を行うためには、観察を行う時点で、何らかの価値判断基準がなければいけない。そうでないと、視野に入ってくる画像から何を抽出すべきかが定まらない。

では、何を知っていなければいけないかと言うと、幅があり、一つの観察対象についてさえ、一概に言えない。

例えば、液晶のシュリーレン組織と言われる文様は、初めて見る人にとっては、美的判断の対象とはなっても、科学的な意味が想像つかないものだろうと思う。
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黒い領域が細くなって、点で交差するように見える場所は、液晶中に存在する欠陥構造で、液晶の入門書の多くには、点の回りで液晶の細長い分子がどのように並んでいるかと、何故2本か4本の黒い領域が点で交わるのかの説明がなされている。液晶の入門書の知識を持って文様をみれば、科学的な意味が理解出来るようになる。知識がない状態とは異なった風景として認識できるようになる。
けれども、最初にこのような文様を観察した人の時代には液晶の入門書は存在しなかった。それ故、液晶の欠陥に関する知識無しに文様を眺めて、そして、欠陥の存在に気がついたはずである。入門書の内容は、そうした研究者が観察を通して理解したことの結果を記したものなのである。
そう考えると、液晶の並び方に関する知識は文様理解のための必要条件ではない。光学的異方性を持った物質が偏光顕微鏡でどのように見えるかさえ知っていれば、文様を引き起している状況を解明できるはずだ。

ところが、この必要最低限の知識を持っている人でも、文様の意味を読み解くのが困難である場合が少なくはない。ある人にとっては、必要十分である知識が、別の人にとっては、十分な知識とはならないのである。

両者の違いは知識の活用の仕方にあるように思える。偏光顕微鏡下で暗くなる領域では細長い分子は、一方の偏光子の軸と平行か垂直方向に向いている。従って、90度の方向の不確かさはあるけれども、暗い領域での分子の向きは仮定できる。暗くないところは、それ以外の方向を向いているので、それをつなぎ合わせれば向きの分布図ができる。

例えば、4つの領域が集る点の回りの分布を考えると、分子の向きが放射状に分布している可能性や、途中で斜めを向くけれども、元に戻るような分布である可能性が考えられる。上の写真だけからはどちらであるかは決定出来ないけれども、ステージを回転すれば、放射状なら黒い領域の方向が変らないのに対して、もう一つのパターンだと変ることになるので、区別は可能となる。

液晶の組織観察とは、見えている文様が何故生じているかをステージを回転したり、位相差板を入れたりして検討していく作業だ。見えている文様から、それを作り出している構造を解明するというのは、まさに後ろ向き推論の作業である。

こうしてみると、今の場合の最低限の知識で行う観察には、(後ろ向き)推論能力も必要ということになる。逆に、液晶の並び方や欠陥についての知識を持っているなら、前向き推論のみで文様の理解(確認)が可能である。

無謀は承知の上で言うなら、未知の事柄の理解を目的とした観察では、後ろ向き推論との組み合わせが必要となる。見えたものが何故そうなっているのかを原因を遡って思案し、その原因から予想される兆候の有無を新たな観察対象とする。見るべき事柄が分ることにより、漠然とした文様が意味をもつ情報へと転化する。

見るべき物が分っている必要があることについては、別の事例がある。昔、器機の整備をしていたとき、一緒にやっていた人にケーブルのコネクタへの接続を頼んだら、途方に暮れられてしまったことがある。
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理由を尋ねたら、どの向きに差込んで良いのか分らないというので、よく見るように言ったのだけれど、やはり身動きが取れていない。改めて理由を尋ねると、4本のピンが正方形の頂点にあるので、向きが定らないという答が戻って来た。確かにピンは正方形の頂点にあるのだけれど、その外側の円周部分には一箇所の切込みがある。切込みが見えるか見えないかは、ガイドとなるものを探そうとするか否かによっている。

見る物が定っていないと見えない一方で、見る物が定っていると、存在しない物を見てしまう危険性がある。ホームズの

「データなしに理論を立てるのは、致命的な誤りだ。無意識のうちに、事実と符合するべく推理するのではなく、推理に符合すべく事実を歪曲することになる。」

という科白は、この点を正しくついている。思い込みのために、見えているものを正しくなく解釈していたという経験の持ち合せは多くの人にあるだろうと思う。予断がなければ観察は不可能だし、予断があると誤った観察を行う危険性がある。

この点、観察の熟達者は、多様な予断を元に観察を行うという芸を行っているように思える。ホームズの科白にも、

「常に別の可能性を探究し、それに備えているべきなんだ。」

「間違いなくまっすぐに一つのことを示すように見えても、少し観点をずらすと、同じように妥協の余地なく何かまったく別のことを示していることがわかるかもしれない。」

「僕は七通りの説明を考え出したが、そのどれもが僕たちの知る限りの事実に当てはまる。しかしそのどれが正しいかは新たな情報によってのみ決定されるものだし、それがきっと僕たちを待っていることがわかるだろう。」

といったものがある。七通の説明を考えていれば、七通の方向から物を見ることが可能になる。一つの視点から物を見ることに比べると、死角は少なくなると期待できる。熟達者は、最初から一つの可能性を考えていたかのように見える場合でも、おそらくは、短い時間の間に多様な可能性を考えた上で、その時点での観察から、絞り込みをした結果を提示しているのではないかと思う。そして、その予断を元に、必要に応じて、さらなる観察を行う。

観察するためには、多様な可能性を考える想像力が必要なのだ。


最後に、ここまでの話に押込められなかった事態をややこしくする可能性の問題を付け加える。ここまでの議論は、人は同じように物を見ていることを暗黙の前提としている。しかしながら、この前提は、おそらくは正しくない。視力や色覚の個人差もあり得るけれど、ここでは、その後の過程が関与するであろう事象を取り上げることにする。

世の中には「映像記憶」を持っている人がいることが知られている。この能力を持っている人は、見た物を一瞬で記憶して、後に細部まで再現できる。もし、ワトソンがこの能力を持っていたなら、ホームズから聞かれた後で、映像記憶を引きずり出して階段の段数を正確に答えられただろうと思う。

映像記憶は極端な例ではあるのだけれど、個人的な経験の範囲で人が物を見るときの視点が関係していそうな事例を経験している。
一つは、装置の描き方で、上手なスケッチで描くのだけれども、その部分の機能を理解していない人もいれば、部分の機能を重視して、結果として全体のプロポーションがおかしな状態の図となる人もいる。これは、純粋な映像記憶により近い感覚として物体を形態として捉えられるか、映像記憶からは遠いところで、意味や機能として把握するかの違いが関係している気がする(もちろん、機能は理解した上でスケッチが上手な人も存在する。ダビンチのように。)。

もう一つは絵を描くときと写真撮影の違いだ。知合いのデザイナーは絵は上手に描くのだけれど、写真撮影では、フレームの切り方がおかしいものを量産するらしい。一方、私はというと、絵は彼に遙かに及ばないけれども、彼の評価としては、彼よりはまっとうな写真を撮影できるようだ。どこまで一般論として成立するのかは分らないけれども、物の見かたが何か違っているのだろうと思う。

また、深視力や動体視力と言われるものも単純に光学系やセンサーを越えた部分に係わる可能性のある事柄で、この点でも見えるものには個人差があるだろうと思う。

物の見方や見え方が違う人間が、同じ対象を観察したとしても、そもそも見えているものが違うのだから、それ以外の背景知識などが同じでも、そこから得る情報は、おそらくは、異なっている。もちろん、見る以外の聞くや嗅ぐ、味わう、触るについても感じ方の個人差があり、見ることと同様の事が生じる。このような理由で観察結果に違いが生じている場合には、結果の違いは、対話により検討できるが、何故違ってしまったかを解き明すことは非常に困難だろうと思う。




by ZAM20F2 | 2019-12-01 06:50 | 文系 | Comments(0)

さすが

高校の時の芸術系課目は選択必修で、確か、音楽・美術・工芸・書道から一つを選ぶシステムだったと思う。工芸を選らんだ身の上であるので、音楽に関しては中学が最終学歴となる。
というわけで、音楽とは無縁な暮らしなのだけれども、時々、縦笛で遊んだりしている。縦笛は小学校の時に習った芸だけれども、お酒が飲めるようになってから、木の縦笛を買い込んだ。それから、大夫年月がたって、その縦笛の継ぎのコルクが劣化して交換しなければならなくなった。

安直には、東急ハンズあたりで、コルクテープを買って切って貼ればよいのだろうけれども、コルクテープは細かいコルクを寄せ集めたものが多く、今ひとつ風情がない。というわけで、補修用のコルクを求めて、銀座のヤマハに行ってみた。

各社リコーダーが揃ったコーナーでもコルクは置いてないので、あきらめ半分でお店の人に尋ねてみたら、同じ階の奥の方、楽器修理工房へと案内された。で、待つこと暫し、コルク板が出てきた。さすが、ヤマハさん。1mmと1.5mmがあり、測ってきていなかったけれど、薄すぎると意味ないので、厚い方を購入することにした。
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価格は、思っていたのの数倍はして、この点でも、さすがヤマハさんと思ったのだけれど、降りるわけにはいかず、ついでにコルクグリスを尋ねたら、場所を教えてくれた。実は、尋ねる前は、プラスチックリコーダーコーナーにあるリコーダークリームしか見つけられておらず、それを買って帰ろうかと思っていたわけで、聞かなければ間抜けなものを買ってしまうところだった。

コルク板。帰ってつけてみたら、1mmでも良かったようで、600番の耐水ペーパで削ることになったけれども、見た目は元に戻って幸せな気分となっている。

by ZAM20F2 | 2019-11-29 06:41 | 文系 | Comments(0)

半分正しい

本は生ものなので見つけた時に買っとかないと手に入れるのが困難になる。
もちろん、乾物となった本もあるので、そういう物は、長らく棚に並んでいるので、慌てて買う必要はないのだけれど、習性として、すぐに必要ではなくても、とりあえず買い込んでしまうことがある。

これも、そんな感じで入手した一冊。本屋で眺めてたら買わなかったかもしれないけれども、とりあえず、注文してしまったもの。
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出版元は、なんとMITプレス。

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そして本のタイトルは
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というわけで、科学者や技術者向けの写真撮影の本。

ザックリ眺めただけなんだけれど、半分ぐらいは必要なものかなとも感じる。フィルムカメラの昔には、結構多くの人が一眼レフなんかを持っていて、そうなると、少しは知識がないとまともに写真が撮れないわけで、某大学の学部の学生実験でも、写真撮影なんてのがあったらしい。

デジタルカメラとスマートフォンの世の中になって、レンズ交換式カメラを持っている人は随分と少なくなった。そして、日常的な写真は、特別な技術がなくても、すてきに撮影できるようになったため、某大学の学生実験でも写真撮影なんかはやっていないのではないかと思う。

その結果として、学会発表などで映される写真の中には、結構と技術レベルが低くて見苦しいのが出てきている。その点、この本は絞りと被写界深度の説明やら、
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スキャナーを使って画像を作り出す芸など、写真撮影に経験のない人に役立つ情報が含まれている。
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その一方で、デジタルカメラになって、見た目の華々しい凝った写真を出してくる人々も出現している。もっとも、これは写真に限った事ではなく、妙なポンチ絵が論文誌の表紙を飾る世の中になっているので、そこに掲載されることを目指して写真撮影する研究者が出現するのは当然の成り行きなのだけれど、それって、研究内容の深化には関係のない努力であって、本来の研究者の仕事ではないだろうと思う。

というわけで、この本、半分は正しい。でも残りの半分は科学の発展を変な方に導くガイドでもあるように思える。

by ZAM20F2 | 2019-11-03 07:25 | 文系 | Comments(0)

神無月の終わり

気がつけば神無月も明日限り。ぼーっとしていたら、お会式も終わっていた。
というわけで、
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これは、かなり昔に手に入れた物。まだ、普通に売っているお店があった頃のものだ。

by ZAM20F2 | 2019-10-30 20:27 | 文系 | Comments(0)

何かが違う

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こんな本のパラグラフライティングの章を新西蘭で高校教育を受けた人に見せたら、懐かしがっていた。パラグラフの最初の文で、そのパラグラフの内容をキッチリと表記して、それ以降の文章で内容を展開していけという話なんだけれども、新西蘭では高等学校の作文で、この書き方をたたき込まれるのだそうだ。そんなこと言っても文学作品なんかは違うんじゃないと尋ねたら、文学作品は違うけれども、文学作品を批評する文は、キッチリと書かないと大幅減点になるのだそうだ。

そんな話を聞いてしばらくたった後で、独逸系の企業で働いている人と話していたら、向こうが求めるレポートの作法が極東の島国の普通のスタイルと違っていて、意思の疎通がスムーズじゃない面があるなんて話が出てきた。先方は、パラグラフの組み立てが新西蘭と同じスタイルで、まず結論ありきでその後に説明が来る。それに対して極東の島国の小父さんが書く物はダラダラしているという話らしい。

そんな事も頭にあって、思わず買込んだ本。
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パラグラフライティングを主張しているのだけれども、上の本とは何かが違う……

どうも、こちらの本のパラグラフライティングの目的は「論理的な文章を書くこと」なんだけれども、上の本の目的は「読者に伝わる文書を書くこと」でその手段としてパラグラフの構成があるという作りになっている。両方の本で段落の最初の文章に主題を書くといった手法は同じなのだけれども、その背景にある思想が、根本的に違っている。上の本では、科学技術文書について、決定権のある多忙な管理職は文書をきちんと読んでる時間がないから、ザックリと目を通せる文書にすると、読んでもらえて影響力が出るよねとか、マニュアルなんかは、読者がすぐに必要とする情報を見つけて、内容を理解できるようにする必要があるよねと言った、わかりやすい文書を書く必要性が示されていて、その上で、分かりやすく書くことには努力が必要だけれども、やる価値があるんだという説明が続く。そして、

基本原理
読者にとって新しい情報を、読者が既に知っている情報の枠組みに付け加えよ。

という文言があり、パラグラフの構成へと続いていく。

上の本、文法に関する部分も、Nativeの感覚での説明があり、読み返す度に、へえと思うところがある。



by ZAM20F2 | 2019-07-28 11:23 | 文系 | Comments(0)

百害あって一利なし

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施主さんには悪いんだけれども、この看板見た瞬間に、この会社ダメだなと思ってしまった。
よくもまあ、これだけ無意味な事柄を看板にして、人目につくところにぶら下げておける物だ。

こんな事を書くと、「施主様に感謝を込めて、そして現場に敬意を払う姿勢の何が悪い」などと言われてしまいそうなんだけれど、理系的感覚から言えば、きちっとした仕事をしてくれるのが一番よいので、そのために、余計なことは、なるべく減らすべきなのである。こんな事に手間をかけて気を使っている暇があったら、その分の注意力や気力を作業に向けるのが正しい姿勢で、その足を引っ張るような、こんな看板で要求される動作はうち捨てた方がよい。

などと書くと、さらに「きちんとした仕事をするためには、対象に敬意をもって、また感謝の念をもって行う必要があるのを知らないのか。宮大工だって、現場に入るときには一礼している(多分)」などと行った精神論を振回されそうなんだけれど、そういう心持は強制されてやる物ではないわけで、心持がないのに強制されてやっている場合には、上に記したように、能率の低下は引き起しても良いことは何にもない。

それに、この会社の作業者が全員、きちんとした心持を持っているなら、上のような看板は無用。それなのに、看板があると言うことは、看板の内容が、この会社の作業員が持ち合せていないものであるか、さもなければ、会社として、施主に気を使っていることをアピールしたいためかのどちらかとなる。前者だと、そんな作業員を使っている会社を疑う話だし、後者だとすると、会社の根本姿勢を疑う話だ。いずれにせよ、ろくな会社ではないという結論となってしまう。

もうさ、こういう過剰な礼儀的慣行は止めた方が良い。世の中をがんじがらめにして、効率を下げる一方だ。こんなの掲げて満足するのは、大変に無能な経営者だけだ。
by ZAM20F2 | 2019-07-19 06:40 | 文系 | Comments(1)

見つけた

科学の学校「にじ」は少し前までは国会図書館にも全部は揃っていなかった。5月号に関しては、マイクロフィルム版は存在しているのだけれども、モノクロ画像のために表紙の色がどうなっているのかが想像つかなかった。
「にじ」は中々古本屋には出てこない。もっとも、人気がないので、出てきても1000円程度で済むので、出てきさえすれば入手は困難ではない。
この前、5月号が出ているのを見つけて、当然のように買い込んだ。
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国会図書館にもないものが家にあるぜと喜んでいたのだけれど、そのうちに、寄贈でもしてみようかと蔵書を調べたら、5月号は存在する事になっている。これは……マイクロフィルム版も入れて何だろうか。残念ながら、ネット上からは確認できないので、そのうちに出かけなければならなくなってしまった……。
by ZAM20F2 | 2019-07-05 07:38 | 文系 | Comments(0)

線形

中谷宇吉郎の「科学の方法」初刷の発行年月日を確認したら1958年6月だった。ということは今月で満61才となったわけだ。
なんで、そんな確認をしたかというと大夫前に作りかけた「科学の方法」の刷の西暦依存性のグラフを久しぶりに目にして、日本の古本屋の出品情報を元に、もう少しばかり穴を埋めてみたからだ。
そのグラフがこちら。
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1刷あたりの数が変化しているかはわからないのだけれども、また、最新の情報が拾えていないのだけれども、随分と長い期間にわたって、コンスタントに売れている。見ていて、なんかうれしくなるグラフだ。
本の写真も載せようと思ったのだけれど、行方不明中……。代わりに発掘されたものの写真を掲載する。こちらは、絶版になっている。
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by ZAM20F2 | 2019-06-29 16:22 | 文系 | Comments(0)