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そのカッター、刃を出し過ぎです

赤いキノコの本の数冊横にあって、ついでに買われてきた本。肥後の守を含むナイフが教育効果あるよね系の本で、まあ、ある意味予想どおりの内容。ただ、出てくる刃物は肥後の守やアーミーナイフ、鉈などで、カッターナイフは使用例としては出てこない。その点はまっとう。
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一つ、なるほどと思ったのは、子供に肥後の守を使わせている小学校の話。その導入を行った校長先生は、時間をかけて親を説得して導入を果たし、そのときに、子供に向かって、「鉛筆を削るためのナイフで悪ふざけをして、もし友達を傷つけてしまうようなことが起こったときは、校長先生は学校をやめなくてないけません。ナイフというものは危ないものですが、でも、あえて皆さんには使って欲しい。」と語りかけたそうだ。本当に責任をとる覚悟のある大人の言葉は、子供も重大に受け止める。

ところで、このブログで昔に、中学生向けの自由研究の本に、刃を出しすぎのカッターの使い方が出ていると晒したことがあるけれども、どうやら、その本には悪い手本があったのではないかという気になりつつある。

その悪い手本の1冊がこれ。
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そこら辺の本屋には置いておらず、神保町に行ったのは、この手の本を入手するため。最初の方に、ルーペの使い方なんかが書いてあるのは悪くはない。ルーペを目に近づけて持つのは大人にも、あんまり知られていないこと。現場でどれだけ実践されているかはともかく正しいことが書いてある。
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で、悪い手本の部分はというと、カッターナイフの使用例。
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これは、明らかに刃先の出し過ぎだ。これ以外の似たような本も見たけれども、そちらでも刃先が出し過ぎの図がある。これらの本、一応、
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と、お役所が内容をチェックしたことになっている。ということは、お役所からして、カッターナイフの危険な使い方を推奨していることになる。

この本には、何カ所か同じようなカッターナイフの使用例が出てくるけれども、薄片を作る場面では、さすがにカミソリを使うことになっている(同種の別の本では、その場面でカッターナイフの刃をホルダーから取出した状態で使う絵になっていた)。図を見ると、カミソリの反対側は、テープか何かでカバーをしてそちら側の刃で手を切らないようにしているように見える。カミソリの刃に注意という文言はあるのだけれども、何をつかって、どのように処理をしているのかの説明はない。カミソリの刃に注意なんて書くより、具体的に、何をすべきかを記すのがより重要なはずだ。責任をとる気のない大人のアリバイ作りというのは、間が抜けていて見苦しいだけのものだ。

子どもの刃物場慣れを心配する前に、生物学教育者の刃物離れを心配した方が良さそうな状況だ。

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by ZAM20F2 | 2018-05-27 13:58 | 文系 | Comments(0)

CASEと現実の間 又

前のエントリーで前向き推論と後ろ向き推論を取りあげた。後ろ向き推論は科学研究で多用されるものだが、、科学教育として明示的に意識され、それをはぐくむ手法が検討されてはいない手法である気がしている。多くの「考える科学教育」は提唱されているけれども、それらで扱われているのは「観察」から一本道に「仮説」を立てて進むような、前向き推論に基づいたものである印象が強い。

こうなってしまっている理由の一つは科学教育は教育学者によりなされており、前向き推論の使い手であっても、後ろ向き推論を研究に使うことは少なく、理系の科学研究の方法が体感出来ていないためだろうと思う。しかし、後ろ向き推論が研究の現場で使われる手法で、しかも、多くの生徒さんが、その思考法を身につけていないとするならば、後ろ向き推論こそ、このブログで昔に取上げたCASEと現実の間を繋ぐもの(の少なくとも1つ)として、科学教育の一つの柱になりそうだ。

「CASEと現実の間」にひさしぶりに戻ってきたのは、高等学校の課題研究で「未知で新規なことがら」を対象とする「教育的意義」について少しばかり思案していたためだ。理数科の高校では課題研究というものが行われているし、新しい指導要領では、探求活動というのが入ってきて、高等学校の生徒さんも「研究的なこと」をやる場面が出現することになるらしい。でも、個人的には、それらの「研究的なこと」の内容や進め方は、研究者視点からは「研究ではないなにか」になりそうな気がしている。そして、「研究ではないなにか」をやっても、生徒さんが学ぶことは少ないだろうと思う。そんな、背景があるものだから、課題研究の感想を求められた時に、「それは研究ではない」と言ったことを口に出してしまうことがあるのだけれど、それに対して、高校の先生方からは「企業や大学のような装置がない高校では新規な事柄を対象にした研究はできないし、目的は教育だ。」と言われると、なかなかに返す言葉が見つからなかった。これは、私だけのことではなく、どうも、研究を生業とする人間と、高校の先生型の研究のやり方を巡る議論は平行線で不毛なものとなってしまいがちのようだ。

このような状況を打開するためには、高等学校の先生に、理系の普通の研究スタイルと、その手法により「未知で新規な事柄」を相手にすることによって初めて得られる「教育的価値」を説明して、それらの価値を理解してもらう必要がある。理系の研究スタイルを理解してもらうためには、平賀壯太さんの『蝶・サナギの謎』などを題材に説明するのがわかりやすいかと思案している。この説明の過程で、同時に、後ろ向き推論がどのように研究の過程で使われているかも示す事が出来ると思う。

ただ、未知で新規な事柄を相手にしたからと言って無条件で後ろ向き推論の技術を身につけられるわけではない。効果的な教育を行うためには、それなりの準備が必要となる。「未知で新規な事柄」を扱う場合には、後ろ向き推論をする前提として「探偵術に最重要なのは、数ある事実から周辺のものと本質とを見極める能力です」が必要となる。最初のステップで着目した事実が本質から外れた物であったとすると、いくら後ろ向き推論をおこなっても、正しい結論には行き着けない。このため、「数ある事実から周辺のものと本質とを見極める能力」をとりあえずは棚上げして、本質的な事実がは限定して与えられた状況で、後ろ向き推論を行う練習から始めるのが良い気がする。

後ろ向き推論を行う課題開発に対して参考になるのは、NHKの「ドクターG」という番組で、研修医が症例とその再現ドラマを元に病理診断を目指すものである。この番組では、最初に示された症例を引き起す病因を可能な限りあげて、その病因で症例を全体的に説明できるか、反する部分はないかなどをチェックしていく。そして、複数の候補が残った場合には、さらにそれらを区別する検査を行い、最終診断となることが多い。この仮定で、研修医達は、自分か考えていなかった可能性も含めて思考の幅を広げ、さらに初期診断で説明不可能な症例部分を追求される。実際の医療の現場でも症例検討などで、このような作業を通して全体を見渡しながら、可能性を絞っていく後ろ向き推論の芸が身についていくのだろうと思う。ただ、さかのぼれる深さは、研修医の知識レベルにも依存している。番組では研修医は、その場の議論に対応できる知識は持ち合せている。それ故、自分の診断では説明のつかない症状があると追求されれば、その診断が誤っていることを認識出来る。また、最終的な診断も納得して理解できる。

前のエントリーであげた、装置の故障診断で話を進めるなら、ヒューズの存在を知らない人間は、故障の原因としてヒューズ切れを上げることは出来ない。ただ、一方で、また、ヒューズが切れていることが故障の原因であると示されても、新たな(単体の)知識の習得にはなっても、論理的な思考方法の訓練とはならない。しかし、それでもケーブルや電源等の確認を通して、装置本体に問題があるまではたどり着ける。知識のレベルにより、最終的に到達する深さは異なり、また、後ろ向き推論の幅も変化するけれども、一応の訓練は可能であるようには感じられる。


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by ZAM20F2 | 2018-05-18 07:05 | 文系 | Comments(0)

草稿:前向き推論と後ろ向き推論について

人間の理解が皮相的になりがちであるのは、我が身を振り返って屡々感じること。そんなこともあり、本屋でタイトルに惹かれて手に取った本の中に前向き推論(Reasoning forward)と後ろ向きの推論(Reasoning backward)の話が書いてあった。
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前向き推論というのは、その時点で知られている事柄を元に、その結果を予測する操作。本では予測推論(causal reasoning あるいはpredictive reasoning )という言葉も使われている。後ろ向きの推論というのは、生じた事象に対して、その原因を遡って推測する操作で本では診断推論(diagnostic reasoning)とも記されている。本によると、前向き推論の方が後ろ向き推論より容易であるという。

もっとも、この話は、この本で始めて主張されたことではなく、私の知る限りでは、ホームズ氏がワトソン氏に向かって話していることそのままである。ホームズ氏は前向き推論をreason synthetically、後ろ向き推論をreason analyticallyと記している。ホームズ氏によれば、後ろ向き推論を出来る人は50人に1人程度だという。ホームズ氏はこの点について、日常生活では前向き推論の方が役に立つ能力であると記している。ホームズ氏は、この方法は簡単な物だとも言っているのだけれど、ワトソン氏には出来ないと、その後で主張しているところを見ると、ホームズ氏にとっては簡単な方法でも、普通の人にとっては、必ずしも容易ではない印象が強い。しかし、ホームズ氏も、この本の著者も、何故前向き推論の方が容易であり、多くの人が前向き推論しかしない理由を説明していない。

後ろ向き推論は、理系の研究現場では頻繁に使われる手法であるように思える。医者の病理診断は診断推理であり、まさに後ろ向き診断そのものだ。病理診断の場合には、その症状を起こす可能性のある理由を可能な限り考えて、その中で最も適合するものを選んでいくようだけれども、これは、未解明の問題に立ち向かう時の人のやり方そのものでもある。謎に対して、可能な解釈を考え、その解釈の妥当性を検討しながら先に進んでいく。科学の進み方そのものである。

可能な解釈は、仮説(作業仮説)と呼ばれることもある。よくある科学の進め方の解説では、一つの仮説が提示され、それの成否を検証するという筋道になっているけれども、診断巣いるでは、複数の仮説が並列に存在して、しかも、それらの仮説の間には矛盾が存在するのが普通である。研究の進み方は、決して単線的なものではなく、複雑な分岐から、もっともらしいことを選んでいく作業だ。研究は、仮説の妥当性の検証ではなく、複数の仮説の中から、より正しいものを選択する作業であることが多い。

さて、本題に戻って、後ろ向き推論が何故難しいのかを、一つの例を用いて考えて見よう。上では医者の病理診断の話を出したけれども、そちら方面の知識はないので、もう少し身近な機器のトラブルシューティングを扱うことにする。例えば、ある機器を使う時には、その機器の電源ケーブルをコンセントに差し込む。これは、「電源ケーブルが入っていない→その機器のスイッチを入れても動かない」という前向き推論があるから、前段を満たす操作をおこなっていると考えて良いかと思う。一方、日常的に使っていたはずの機器が動かない場合には、後ろ向き推論では、単一ではない複数の可能性が考えられる。たとえば
・器機に接続したケーブルが抜けていないか
・ケーブルが断線していないか
・本体のヒューズかブレーカーが落ちていないか
・テーブルタップの元の電源が抜けていないか
・コンセントのブレーカーが落ちていないか
・停電していないか
・バックアップバッテリーは大丈夫か
・機器の故障ではないか
・部屋の空調がついていないか
・部屋のドアの開っていないか
・仏滅ではないか
と言った可能性をあげることが出来る。そして、上の方の理由をより重視して、「仏滅だからだ」などと冗談で言うことはあっても、真剣には考えないでいられるためには、それなりの背景知識が必要となる。実際、電気に関する一切の知識の持ち合わせがなかったら、心から「仏滅だから」とか、「蜘蛛を殺した祟り」だと考えていても驚かない。仏滅の上の2つは、トラブルとは直接結びつかないように思うかもしれないけれども、空調の故障で部屋の温度が上がって装置が停止している可能性や、空調がついているなら停電の可能性は除外する情報になっているなど、実は事象に関わっている可能性は排除できない。ドアの開閉についてはその建物に特異な事象として関係がある可能性がある。この場合は、その場所に限った知識の有無が重要となる。

この例で分かることは、前向き推論では、分かっている情報以外の新たな情報は用いずに推論を行えるのに対して、後ろ向き推論では、関連する情報を選択する必要があること。いわゆるフレーム問題が関わってくる。そして、適切な枠組みを選ぶためには、生じていることに対する、ある程度の知識が要求される。勿論、前向き推論でも、「電気がなければ動かない」という知識は要求されているのだけれども、後ろ向き推論は、より具体的に、電気が遮断されうる状況や装置の状態に関する知識が必要となる。

実際、ホームズ氏は古今東西の犯罪に関する知識は豊富に持ち合せているし、お医者さんも一般人に比べると症例に関する豊富な知識の持ち合せがある。ただし、持っている知識の中で、どれが適合出来るかの判断が出来なければ知識は使い物にならない。この作業は、診断結果が既知の現象で、的確な情報が得られており、その現象に関する知識も存在する場合には、機械的に行える要素が強くなる。少し前に病理診断のAIが人間の医者には見抜けなかった、特殊な白血病の判断を正しく下したことが話題になったが、病因毎に症例のリストが存在していて、それらの比較検討が可能なら、たしかに起こりうる事だろうと思う。

しかし、対象が未知の事象の場合は、何を情報として取り上げるかから問題となる。ホームズ氏が「探偵術に最重要なのは、数ある事実から周辺のものと本質とを見極める能力です」と言っている部分が最初の関門となる。

この項続く (たぶん)

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by ZAM20F2 | 2018-05-13 08:56 | 文系 | Comments(0)

五人囃子の不在について

百貨店を覗くとひな人形売り場に行き当たる季節になっている。
で、ふらふらと、買う気もないくせに覗くことになるのだけれど、ほとんどの店で昭和の時代にはなじみの深かった七段飾りはなく、内裏びなだけか、内裏びなと三人官女のセットのみになっている。五人囃子は不人気らしく、眺めた中で一組しか存在していなかった。あと、右大臣、左大臣も一組眺めただけの気がする。
昭和から平成になり、さらに収納スペースがなくなっているのか、それとも、ひな人形に関する固定観念が変化してきたのか分からないけれども、昭和の人間としては、内裏だけのセットや、三人官女までのセットには、違和感を感じている。
失業した楽師達、どこで何をやっているのだろうか……

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by ZAM20F2 | 2018-02-12 11:26 | 文系 | Comments(0)

こっちのブログのこと



リンクしている天文古玩さんに「このブログのこと」というエントリーが上がった。ブログの行く末に思いを巡らせるエントリーだ。

天文古玩さんは13年目をむかえたそうだけれど、こちらのブログは、2008年の夏に発作的に始まったので今年の夏で丸10年となる。当時、知り合いと光がらみの科学写真を撮っていて、それらの一部はプロジェクトTタグになっているのだけれど、もともと、フリーのWeb素材があったら良いねなんて話も出ていたので、それも引き金になっていると思う(実は、科学写真を撮るという口実で、デジタル1眼レフを買い込んで、随分と写真を撮影していたのが直接の原因かもしれない)。

プロジェクトTはだいぶ前に終わってしまっている。そういう意味ではブログの最初の目的は消失したことになるけれども、その後もしぶとく続いていることになる。

ブログをやめられないことについては、ブログの奴隷という記事が「panoramaheadの蔵」にある。


「アクセス数を意識した記事づくりを始めるとそこは地獄の一丁目」なのだそうだけれど、このブログ、平均訪問者は数十人のレベル。アクセス数を意識した記事作りはしていないためというよりは、自分が面白いと思うことが世間様からずれているために、アクセス数は増えないというのが実体だろうと思う。そういう意味では、存在意義があるか分からないんだけれど、でも、逆に、流行り物でないから、存在していてもいいような気もする。

ネットが発達して、ちょっと検索すれば、似たような情報が山ほど出てくるけれども、その隙間で探しても見つからないような話もある。そんな話は需要が、そもそも少ないのかもしれない。でも、有理数が無限にあるにも関わらず、それだけでは数直線を埋められないように、隙間になる情報というものも必要なんじゃないかと思う。

情報を置いておく場所として、ブログは書き手にとっては匿名で、読み手にとってはアクセスフリーなのが良い点だろうと思う。facebookはアカウントを持っていないと見られるものが限られるし、書き手も素性をさらさないといけないあたりに自由さがない。実は、何かにアクセスする必要から、架空の人物の名前でfacebookのアカウントを作って、その後は放置しているんだけれど、そこに、知り合いじゃないか申請が来てしまって、途方にくれている。そんな、感じのつきあいでなく、お互いに素性が分からずに、あるいは道で毎日すれ違っているけれども、読み手と書き手とは認識していないなんていうつきあいがあっても良いんじゃないかと思う。それに、その方が、書き手を離れて、内容だけに集中出来る。

かつて、ネットが繋がり始めたころは、個人アカウントなんてのが存在しなかったので、所属がはっきり分かるアカウント(というかメールアドレスかな)などでfjなどのニュースサイトの書き込みが行われ、そして、そこでの発言は組織とは無関係な個人のものと見なされていた。でも、個人でアカウントが簡単に持てるようになり、いろいろな場所での発言に組織のアカウントを使う場合は、組織を背負っての発言と見なされるようになっている。今日では所属が明らかになるような形でサイトを運営するのは、組織を背負っていると理解されるだろうと思う。そんなことを考えると、完全に匿名で運営できるブログというのは悪くない媒体であるように思う。

ただ、ブログの一つの問題は、情報が過去に埋もれていくこと。備忘録には悪くないのだけれども、プロジェクトTのような一連の情報を晒しておくのには、掘り出すのに大変なところもある。そんなこともあり、このブログで何度か出したこともある「科学の学校 にじ」については、まとめて紹介する場所を作りつつある。


そちらのサイトも未来永劫完成しそうにないけれども、ぼちぼちとブログを加えながら、ゆっくりと、まとめていくのも悪くはないかなと思っている。

Webの更新速度と寿命に関係があるのじゃないという話が平林さんのところにあったけれど、
要は、ぽつぽつと続けるのが良いのではないかと思う。


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by ZAM20F2 | 2018-02-08 21:27 | 文系 | Comments(0)

刃物店員の刃物知らず……

国道の拠点の近傍にいく用事があったので、ついでに刃物屋さんにも足を伸ばした。
非売品ではあるけれども、藤原良明の小刀が飾ってある。ショーケースの中でアクリルの台で斜めに立てかけているのだけれど、小刀が長すぎて先端が後ろの壁に当たっている。でも、記憶をたどると、前回来たときは、藤原良明ではなく藤原真平の小刀だった気がする。で、先端が壁にめり込んでいるのにショックをうけて、店員さんに扱いに注意するようにお願いした。
記憶が正しければ真平銘を良明銘に替えたわけで、裏では随分と在庫を持っているのかなぁという気分になっている。
そういえば、その前来たときには、重房の小出刃とアジ包丁が入れ替わって展示していて、最初に指摘した店員さんは、「手作りだからばらつきがある」なんて重房さんに失礼な事を言っていたけれど、しつこく喰い探った結果として呼ばれてきた店員さんは、一目見るなり間違いを認めて入れ替えていた。
で、本日は、まだアジ包丁があるか見に行こうと思ったら、手前で店員さんが段ボールを使った梱包作業をしていて、奥にいけない。まあ、見ても買うわけではないので声をかけて通してもらったりはしなかったのだけれど、梱包作業を見ていると、段ボールを切るのに、小型のカッターナイフを使って、刃をものすごく出して使っている。切っている最中に刃が撓うのが見て分かる。
いや、これ、危なすぎるでしょう。というか、伝統ある刃物屋の店員さんの作業としては、あるまじき刃物の使い方。
決して若い店員さんではなかったわけで、この店、確かによい刃物は置いてあるのだろうけれども、店員さんは決して刃物好きではなく、単なる商品でしかないんだろうなぁと感じてしまっている。
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by ZAM20F2 | 2017-12-02 20:37 | 文系 | Comments(0)

瓜田でタップダンス

瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず
というのは、出典はしらないけれど教養のない私でも知っている文言。政治家の皆さんに最低限守って欲しい事柄だと認識している。
でも、極東の島国では、そんな古い話は流行っておらず、最近の流行は
瓜田でドジョウすくい、李下に阿波踊り
という印象だ。
派手に踊っている人が、実際に瓜や李を取ったのかは知らないけれど、踊るだけでは足りないらしく、教育にも口を出しそうな勢いだ。
でも、こんな踊りをしている人が教育に口をだしたら、さらにドジョウすくいや阿波踊りが流行るか、それとも、グローバル化とか言って瓜田でタップダンスを強要し、瓜の実も蔓も葉も根もずたずたにするんじゃないかと心配している。


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by ZAM20F2 | 2017-09-25 20:41 | 文系 | Comments(0)

ルイセンコ 今

プレートテクトニクスの拒絶と受容を読んで、しばらくたったら、みすずさんからルイセンコ論争の本が新版として出版された。


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こちらは生物系の話で、話の主舞台はソ連邦だけれども、この本では、その学説が極東の島国でどのように取り扱われたのかを扱っている。


今の目から見ると、トンでも学説が一党独裁の共産党下で教義的になり、科学の発展を大きく損なったもので、極東の島国でも、それにかぶれた人々が、学問的ではなく、教義を振りかざして人々を非難していた、なんてまとめも可能な話なのだけれど、この本の著者は、過去の教条主義者による過ちとしてではなく、現在でも普遍的に起こりうるし、著者自身も類似のことをやる危険性がある問題として、起こったことをとらえており、それ故に現時点での復刊にも意味があるように感じた。

日本の地震予知研究の本には、地震学者がオオカミ少年的な予言を行い、決して当たったことのない予言を反省することなく、震災後に焼け太りをしてきたことがさらっと記されている。科学がまっとうに進んでいかないのは決して思想がらみだけでなく、研究者の欲望というやつの影響によることの方が事例としては多いように思う。


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by ZAM20F2 | 2017-09-18 14:02 | 文系 | Comments(0)

「プレートテクトニクスの拒絶と受容」から野尻湖を思い出す

体が鍛えられる本を買い込んだのは、その前に買った同じ著者の本が面白かったからだ。
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この本は日本の地質屋業界において、プレートテクトニクスに基づいた研究の展開が諸外国より10年程度遅れていたことに関するもの。ちなみに、地球物理屋業界では地質屋業界より素早くプレートテクトニクスが受け入れていたとのこと。

地質屋業界でプレートテクトニクスの受け入れが遅れたのは、地向斜という考え方に基づいた日本列島形成史がドグマ的に受け入れられていて、そこからの転換に大きな抵抗があったためらしい。そして、その背景には、数億年規模で同様の造山プロセスが続いていいると考えるプレートテクトニクスと、地球の発展もマルクス主義社会学のような歴史的発展過程をとるものであり、造山プロセスも時代により異なるとする考えの対立があったようだ。

そのためには、地向斜による理論は人民の科学であるのに対して、プレートテクトニクスはブルジョア科学であるという、どこかで聞いたことのあるような事柄なんぞも言われていたようだ。

ここまでの書き方だと、マルクス主義に染まった一派の影響により、日本の地質屋業界が誤った道に進んでしまったという話と受け取られかねないのだけれど、そういう面があることは否定しないけれど、別にマルクス主義を振り回さなくても、同じような過ちは生じうるし、そしてまた、全否定するのにはもったいない諸々もあるような気がしている。

昔取った写真をスキャンしたら出てきた1コマ。
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写っている2人のおじさんは、確証はないけれど、井尻正二さんと亀井節夫さんではないかと思う。場所は、野尻湖付近にある小学校の講堂だったような記憶がある。第6次発掘調査(か、翌年にあったかもしれない発掘のまとめ)の時の一コマだ。

井尻正二さんは、上の話に出てくる地学団体研究会に大きく関わっていた人。一時は共産党にも所属しており、マルクス主義的な方法論を実践していた方だと思う。野尻湖の大衆発掘調査は井尻さんの提案がきっかけになって始まったようで、発掘調査の指導的な立場にあったはずだ。その人が、他の参加者と一緒に体育館にごろごろしていた訳で、そういう意味では、おそらく、気さくな部分を持った人だったんだろうと思う。でも、その一方で、ブルジョア主義的科学には、けんか腰の議論を展開いていたようで、その両面のどちらを見るかで、人物評価が大きく異なるだろうと思う。


野尻湖では3月頃の水位が下がったときに発掘調査を行っている。普通の発掘調査というものは専門家がやるような印象があるけれども、野尻湖の発掘は素人が集まって、数m四方に区切ったマスに何人かを割り振って、一度にわらわらと行うものだった。もちろん、専門家もいて、何か出てくると専門家が見に行くのだけれど、専門家の到着以前に素人さんが完全に掘り出していて、発掘状況が分からなくなるなんて状況も結構あったらしく、そういう意味では粗い仕事ではあるのだけれど、でも、随分といろんなものが出てきたような印象がある。

野尻湖の発掘では、小学校の講堂での勉強会も開かれていた。プロジェクターどころかOHPもあまり普及していない昔のことだから、模造紙を使ったり、あとはスライドプロジェクターを使ったりしているけれど、参加者を人手と見るのではなく、教育を行うあたりに戦後に始まった、この手の活動の流れが見て取れる。
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全体の勉強会に加えて、グループでの個別の勉強会や、新聞発行などの活動も存在していて、参加者も希望すれば、これらの活動に携われた。これは、まあ、言っちゃえばオルグ活動なんだけれど、政治の話とは無関係に、きちんと学問的に機能していた印象もある。
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本を読んで井尻さんの行動の起源には、戦前の閉鎖的な学問体制があったような印象を受けている。ボス支配体制からの開放された民主的な体制を構築しようとした結果として自らが権威になってしまった面がある。もっとも、権威といっても、研究費の分配では、広く浅く配布する方針を行っていて、金を関連グループで独り占めしたがる、そこらへんに転がっている権威とは、まったく別のものなのだけれども、学説においては、後には誤りとされる一つの方向性を強く押し進めてしまう結果になった。

本を見ながら感じるのは引き際の難しさ。地学団体研究会は、当初は若手の団体として形成されたようだけれども、中心メンバーの加齢にともない、年齢制限が引き上げられていく。創立メンバーが、当初の規約通りの年齢で抜けて行っていたら、随分と違った話になっていたような気もする。

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by ZAM20F2 | 2017-09-17 17:24 | 文系 | Comments(0)

亀に悪い

頭の格好を変えてくれる学習塾の広告、これまでは、問題を眺めていて、ほんとにこの問題で良いのかなぁと感じる時に取上げてきたんだけれど、今回の問題は悪くない、というか結構気に入っている。
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亀の雌雄が孵化までの温度で決るという話の上で、1問目はデータを元に、何度が雌雄の境界になっているかを問う設問
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2問目は本土と沖縄で、沖縄の方が雄が多い理由を尋ねる問題である。

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データを眺めると、高温側で一旦雌の割合が増加した後に、割合0に戻って、その後で1へとジャンプする。

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1問目に関しては、与えられたデータをどのように読込むかが問われているし、2問目は、沖縄の方が平均気温が高いという知識と、珊瑚が炭酸カルシウムで出来ているという知識、そして、炭酸カルシウムは近赤外まで含めて透明な物質で珊瑚の砂は太陽光を吸収しにくいという知識、さらに本州の砂浜は、経験的に、白砂は少ないという知識を組合わせて答を出す必要がある。

データの読込みや、経験も含めた知識の統合がきちんとした回答には必要で、これは、なかなかの良問だと思う。というわけで、学習塾の回答を見てみると

問1の回答は29.3℃、問2の回答はサンゴ砂は白いので日光を反射しやすく、砂浜の温度が高くなりにくいから。

となっている。この回答……………、私が採点者だったら、かなり点は低い。というか不合格。

元のブラフを見ると、確かに、29.4℃以上では雌比率は1に近いけれども、29.8℃は0.84程度。一方、割合が0で無くなるのは28.1℃の0.1、28.3℃の0.35。その後、28.9℃が0.1で29.0℃で一旦0になるのだけれど、境界が29.3℃というと、28.3℃の0.35は説明つかなくなる。そうなると、29℃付近で一旦低下するのが、測定ミスなのか、意味があるのかも分らないし、28℃後半と29℃前半のデータの欠落も気になる。というわけで、1の回答は、データ欠落があり、不確定要素もあるが、29℃付近で雌雄の決定確率が半々程度になると予想される。というのが、とりあえずの回答になる。でも、さらに考え出すと、砂の温度は日中と夜間で異なるはず。沖縄の方が平均気温が高いであろうことを考えると、夜間(少なくとも明け方)の砂の温度は、沖縄の方が高いと期待できるだろうと思う。こうなると、砂の温度は、平均温度なのが、それとも最高温度なのかが気になってくる。さらに言えば、孵化寸前では、雌雄は決定しているだろうから、卵の成長のある時点での話になるのだけれど、そのタイミングが昼か夜でも変るんじゃないかという気分になってくる。

こうなると、設問の設定が不充分だねというのが結論だ。悪くない問題なんだけれど、詰めがあまい。

問2に関しては、白いので反射しやすくというより、透明なので光吸収が少なくというべきだけれども、それでも上に上げたように夜間温度の問題もあるし、前段として沖縄の方が本州より平均気温が高いと思いたいので、

「本州より緯度が低いため、平均気温は高いと考えられるが、炭酸カルシウムの太陽光吸収量が本州の平均的な砂より小さいために、日中の温度上昇が低いことが寄与していると予想される」というぐらいになりそうな気がする。

ところで、実際に海亀の雌雄が何度で決るのかをWebで調べていたら、温暖化の影響で雌比率が上昇すると、絶滅するのではないかと危惧する人々のWebにも行きあった。

いや、でも、少なくとも海亀の人たちは、ほんの7000年前の縄文海進も経験して、まだ、この島国のあたりにいてくれるわけで、温度が上がったら、その分、産卵域を北方にのばすのではないかという気がするんだけれど。絶滅を気にするのは、亀の能力を低く見た人類のおごりのような気もする……


などと書いていて思い出したのは、中学生の頃に、「今度氷河期が来たら、生残る生物はどのようなものか」という問題に対して、授業中には、ほ乳類は鳥類のような恒温動物で、は虫類は両生類は生残れないだろうと教わっていたにもかかわらず、発作的にひらめいて「これまで何度も氷河期を乗越えて現在の生物がいるので、次回も、大体全部生残る」と書いて×をつけられたこと。未だに腑に落ちていない。



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by ZAM20F2 | 2017-08-12 07:50 | 文系 | Comments(0)