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カテゴリ:文系( 146 )

何かが違う

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こんな本のパラグラフライティングの章を新西蘭で高校教育を受けた人に見せたら、懐かしがっていた。パラグラフの最初の文で、そのパラグラフの内容をキッチリと表記して、それ以降の文章で内容を展開していけという話なんだけれども、新西蘭では高等学校の作文で、この書き方をたたき込まれるのだそうだ。そんなこと言っても文学作品なんかは違うんじゃないと尋ねたら、文学作品は違うけれども、文学作品を批評する文は、キッチリと書かないと大幅減点になるのだそうだ。

そんな話を聞いてしばらくたった後で、独逸系の企業で働いている人と話していたら、向こうが求めるレポートの作法が極東の島国の普通のスタイルと違っていて、意思の疎通がスムーズじゃない面があるなんて話が出てきた。先方は、パラグラフの組み立てが新西蘭と同じスタイルで、まず結論ありきでその後に説明が来る。それに対して極東の島国の小父さんが書く物はダラダラしているという話らしい。

そんな事も頭にあって、思わず買込んだ本。
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パラグラフライティングを主張しているのだけれども、上の本とは何かが違う……

どうも、こちらの本のパラグラフライティングの目的は「論理的な文章を書くこと」なんだけれども、上の本の目的は「読者に伝わる文書を書くこと」でその手段としてパラグラフの構成があるという作りになっている。両方の本で段落の最初の文章に主題を書くといった手法は同じなのだけれども、その背景にある思想が、根本的に違っている。上の本では、科学技術文書について、決定権のある多忙な管理職は文書をきちんと読んでる時間がないから、ザックリと目を通せる文書にすると、読んでもらえて影響力が出るよねとか、マニュアルなんかは、読者がすぐに必要とする情報を見つけて、内容を理解できるようにする必要があるよねと言った、わかりやすい文書を書く必要性が示されていて、その上で、分かりやすく書くことには努力が必要だけれども、やる価値があるんだという説明が続く。そして、

基本原理
読者にとって新しい情報を、読者が既に知っている情報の枠組みに付け加えよ。

という文言があり、パラグラフの構成へと続いていく。

上の本、文法に関する部分も、Nativeの感覚での説明があり、読み返す度に、へえと思うところがある。



by ZAM20F2 | 2019-07-28 11:23 | 文系 | Comments(0)

百害あって一利なし

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施主さんには悪いんだけれども、この看板見た瞬間に、この会社ダメだなと思ってしまった。
よくもまあ、これだけ無意味な事柄を看板にして、人目につくところにぶら下げておける物だ。

こんな事を書くと、「施主様に感謝を込めて、そして現場に敬意を払う姿勢の何が悪い」などと言われてしまいそうなんだけれど、理系的感覚から言えば、きちっとした仕事をしてくれるのが一番よいので、そのために、余計なことは、なるべく減らすべきなのである。こんな事に手間をかけて気を使っている暇があったら、その分の注意力や気力を作業に向けるのが正しい姿勢で、その足を引っ張るような、こんな看板で要求される動作はうち捨てた方がよい。

などと書くと、さらに「きちんとした仕事をするためには、対象に敬意をもって、また感謝の念をもって行う必要があるのを知らないのか。宮大工だって、現場に入るときには一礼している(多分)」などと行った精神論を振回されそうなんだけれど、そういう心持は強制されてやる物ではないわけで、心持がないのに強制されてやっている場合には、上に記したように、能率の低下は引き起しても良いことは何にもない。

それに、この会社の作業者が全員、きちんとした心持を持っているなら、上のような看板は無用。それなのに、看板があると言うことは、看板の内容が、この会社の作業員が持ち合せていないものであるか、さもなければ、会社として、施主に気を使っていることをアピールしたいためかのどちらかとなる。前者だと、そんな作業員を使っている会社を疑う話だし、後者だとすると、会社の根本姿勢を疑う話だ。いずれにせよ、ろくな会社ではないという結論となってしまう。

もうさ、こういう過剰な礼儀的慣行は止めた方が良い。世の中をがんじがらめにして、効率を下げる一方だ。こんなの掲げて満足するのは、大変に無能な経営者だけだ。
by ZAM20F2 | 2019-07-19 06:40 | 文系 | Comments(1)

見つけた

科学の学校「にじ」は少し前までは国会図書館にも全部は揃っていなかった。5月号に関しては、マイクロフィルム版は存在しているのだけれども、モノクロ画像のために表紙の色がどうなっているのかが想像つかなかった。
「にじ」は中々古本屋には出てこない。もっとも、人気がないので、出てきても1000円程度で済むので、出てきさえすれば入手は困難ではない。
この前、5月号が出ているのを見つけて、当然のように買い込んだ。
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国会図書館にもないものが家にあるぜと喜んでいたのだけれど、そのうちに、寄贈でもしてみようかと蔵書を調べたら、5月号は存在する事になっている。これは……マイクロフィルム版も入れて何だろうか。残念ながら、ネット上からは確認できないので、そのうちに出かけなければならなくなってしまった……。
by ZAM20F2 | 2019-07-05 07:38 | 文系 | Comments(0)

線形

中谷宇吉郎の「科学の方法」初刷の発行年月日を確認したら1958年6月だった。ということは今月で満61才となったわけだ。
なんで、そんな確認をしたかというと大夫前に作りかけた「科学の方法」の刷の西暦依存性のグラフを久しぶりに目にして、日本の古本屋の出品情報を元に、もう少しばかり穴を埋めてみたからだ。
そのグラフがこちら。
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1刷あたりの数が変化しているかはわからないのだけれども、また、最新の情報が拾えていないのだけれども、随分と長い期間にわたって、コンスタントに売れている。見ていて、なんかうれしくなるグラフだ。
本の写真も載せようと思ったのだけれど、行方不明中……。代わりに発掘されたものの写真を掲載する。こちらは、絶版になっている。
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by ZAM20F2 | 2019-06-29 16:22 | 文系 | Comments(0)

ルートは大人は使わないという台詞について

久しぶりに出かけた芝居の一幕に、「大人になったらルートは使わない」という台詞があって、客席ではそれなりに受けていた。この劇団には、「技術」なんて役職のスタッフがいて、電子的な小道具を作ったり、劇団アプリを作ったりしているらしいのだけれども、その仕事にルートは必要ないのかしらとか、そこの大道具の階段の斜めの板の長さはルートがないと求められないだろうなどと思いながら、「ルートを使わない」というのが芝居の台詞となるということ自体にインパクトを受けていた。

芝居の方は、見終わって思い起こしたのはヘッセの小説の何か。主人公が遍歴の結果として等身大の自分に行き着く系のやつ。芝居にはオームを彷彿とさせる集団が出てきたのだけれど、教祖、少しばかり物わかりが良すぎる印象があった。まあ、物わかりが悪かったりすると、最後の方の筋がぐだぐだになるのかも知れないけれども。

私の頭の中の感覚だと物わかりのよい人間は教祖になれない。教祖というのは磁石のようなもので、磁力に引きつけられる元素は100種類の中で3種類しかないとしても、その3種類には力を及ぼす。力は常に同じ方向に働いているべきで、物わかりの良さは力の揺らぎを引き起こすため継続して何かを引きつけるのが困難となる。

今回の講演は劇団の15周年。パンフレットによると大学卒業時に旗揚げされているようなので、主催は40少し手前のはず。サリン事件は四半世紀ほど昔だから、当時は小学校高学年から中学生程度だっただろうと思う。おそらくは関西の人だと思うので、あの事件による衝撃は、私が感じた物と比較して弱かったのかなぁなどとも感じていた。

閑話休題。ルートの話に戻ろう。確かに、日常的にルートを使った計算をする場面はあまり思いつかないのだけれども、人々が日常的に使っている機器はルートどころでない高度な数学が使われている。そういう意味では文明社会において、ルートと無縁の生活を送っている人はいない。

ただ、ルートの計算が万人に必須のものかというと、確かに微妙なところはある。少し前にネット上で、対数の知識は教養かという話題が出ていた。理系の人の中には、教養であると主張する人もいたけれども、一応理系の身でありながら、道具としての対数は教養じゃないよなと思っていた。では、対数がまったく教養でないのかというと、そんなことはなく、人類の数概念の拡張と結びついているなら立派な教養だろうなぁと思える。ルートも同様で、数の概念の拡張と結びついて、初めて教養となる。


物理法則についても、知っていて使うだけなら教養じゃないけれども、その法則による概念の拡張を合わせた知識なら立派な教養だ。実際、高神 覚昇の「般若心経講義」には、「もちつもたれつとは、独ひとり人間同志の問題ではありません。世間の一切の万物、皆もちつもたれつなのです。現代の物理学者は相補性原理といっています。相補性原理とは、もちつもたれつということです。有名なアインシュタインはかつて相対性原理を唱えましたが、もはやそれは古典物理学に属するもので、今日ではすべてのものは、互いにもちつもたれつの関係にある、すなわち相補性原理こそが真実だといわれています。」なんて文言もあり、著者が相対性理論も、相補原理も理解してなさそうなのは分るけれども、それにも関わらず、それらを振回す必要があり、文系の人間の間でも教養と見なされていたことが伺える。

しかし、時代が下って、科学技術がさらに発達すると状況が変化する。理由の一つは、科学技術のネガティブな面が顕になったことだと思うのだけれど、それ以上に、文系の人間が科学技術を教養とは別のものと見なして理解しようとしなくなったことにあるように感じている。


科学技術が教養ではなくなったのには、科学技術に携る側が、自分の専門は語れても、科学を語れなくなったという理由もある。最先端の科学とやらを語ろうとする人々はいるのだけれども、ファラデーがロウソクを使って科学を語ったように、日常的な事柄を使いながら現代科学の基本的な概念が展開されることは、あまりないように思う。その一つの理由は研究者の専門が細分化された結果として、「何とか化学者」とか、「何とか物理学者」は存在しても、一般的な科学者が存在しなくなっているためではないかと思う。高等学校の物理基礎などまででは、量子論も相対論も実質的に出てこない。また統計物理や熱力学に関しても、知識としての伝達はあっても、概念として十分に伝達できているとは思いがたい。それ故に、最先端の科学の話をする前に、それを支えている概念の理解が必要なはずだ。先端の研究を普通の人にわかりやすく説明するなんてことが求められる世の中になって、「科学者」の人々が自分の研究を嬉々としながら話したりもしているみたいだけれども、そんなことが可能なら、高等学校の科目も、大学の教養や専門科目もなくてよいはずだ。それらが存在するということは、先端の「科学」とやらをきちんと理解するためには、多くの基礎知識が必要であることを意味している。

しっかりした基礎の上にない「最先端の科学」は魔術と区別のつかない物になってしまう。

魔術と区別がつかなければ、魔女狩りの対象となる。世の中が平和だと魔女狩は起りにくいのだけれども、社会的な不安は魔女狩の温床となる。それは、科学的な知識が欠乏したエキセントリックな発言からはじまるかもしれないし、あるいは、金銭絡みの悪意というか作為をもった者によって引き起されるかもしれない。いずれせよ、魔女狩がはじまってしまうと、終息させるのは大変な作業になる。


科学を魔術レベルで伝えるのではなく、当たり前の知識と方法を教養として伝えることが出来たなら、今よりは魔女狩りにあう危険性を減らせるだろうと思う。

そのためには、「わかりやすく科学を語る」ような活動は厳に慎んで、科学のわかりにくさに正面から取り組む必要がある。「科学の学校『にじ』」の創刊号で編集者の藤田圭雄は、「科学は近よりにくいものでもないし、わからないものでもない。しかし求めようとしなかったり、わかろうと努力しない人のためには全くの他人である。科学的な真理を、やさしく面白く解説する-ということがよく言われる。しかしそんなことは出来ることではない。ルールを知らないで野球を見ているようなもので、いつまでたっても本当の面白さもたのしさもわいては来ない。まず諸君はルールを覚える努力をすべきである。ルールをしっかりと覚え込めば、それから先のたのしみは無限に広い。」と少年少女に語りかけている。

ルートは使わないという台詞を書いた作家さんも、科学の否定的な面を強調する文系の研究者も、科学のルールを覚える努力を積極的には行わないだろうなぁという気もする。ただ、「人体に含まれる窒素原子の半分は空気中の窒素を化学工場によりアンモニアへと変換することにより得られたもの」(「大気を変える錬金術」(トーマス・ヘイガー;みすず書房)による)という知識の前では、ルートは出来なくても、足し算か引き算が出来る人間なら、科学に、いくら否定的な面があろうとも、科学の作り出したものなしに、現在の世界の人の生活は成り立たないことを認めざるを得ないと思いたい。現実には、それでも、化学肥料を全面的に否定する人間はいるだろうけれども、理性のある大くの人間が納得してくれるなら、魔女狩りの炎は押さえられるだろう。まず必要なのは、先端の科学とやらではなく、日常にしみこんだ科学の必須性とそれと引き替えに引き起こしている問題の併せての認識だ。そして、確立した知識の上に、当たり前のことを、当たり前にやるのが科学だという認識。「法則は本当だろうか。大科学実験で試してみよう」なんて台詞とは真逆の発想が科学の根本にある。


「政治家が政治のことだけより知らなかったり、文学者が文学以外に無関心だったり、世の中のことを何にも知らない科学者を大学者のように思ってありがたがったり、そういう片輪の人間が出来るところに国の不幸が生まれる。」これも、先ほどの藤田の編集の言葉にある文言だ。

残念ながら生まれてしまっている不幸、せめて、これ以上に不幸を育てないように心がけたい。


by ZAM20F2 | 2019-06-22 07:38 | 文系 | Comments(0)

豚コレラ、そしてIQの変化について

数日前にも、豚コレラが新に発生したというニュースが流れていた。人間に感染しないせいか、鳥インフルほど報道されていない気がするのだけれど、それでも多くの豚が殺処分になっているわけで、早い終息を祈っている。

少し前に天文古玩さんのところで、この話題に関係するエントリーがあった。殺処分にも立会われたようで、それは、厳しい現場であったようだけれども、そのときの話として、豚は群れから引離される時には、悲鳴を上げて逃惑うけれども、群れから離された個体が殺処分を上げ悲鳴を上げている時には、平常と変らない様子で過しているという。

そのエントリーでは、それに関連して家畜化による知能の低下の話を紹介しているのだけれども、そして、それが、豚だけの話ではないことを感じられたとの文言もある。そのエントリーを読みながら二つのことが頭に浮んできた。


一つ目は、人間の自己家畜化という話。本川さんの「ゾウの時間ネズミの時間」の中にあったのか、それとも、本川さんの講演を拝聴した時に得た知識なのかは定かではないのだけれど、動物の寿命も体の大きさと相関があるけれども、家畜化した生物は、その相関よりも長寿命化しているのだそうだ。そして、人間も相関より長寿命化しており、その一つの説明として自己家畜化という概念があるらしい。

もう一つは、「田中宇の国際ニュース解説」さんの5月28日のエントリー。田中さんは、フリーのジャーナリストで、海外の様々なメディア記事をもとにした時事解説をしている。ただし、視点は独自で、米国の政治は、軍産複合体を中心とした、米国の覇権を保って、世界の紛争解決に介入することを通して軍事産業に永続的な利益を確保する勢力と、覇権を放棄することにより、世界の秩序は多元的な国の協調で維持するようにして、軍産に流れている金を国内経済に回して普通の国としてやっていこうという勢力の競合で行われているとしている。このように書くと、民主党が覇権放棄で、共和党が覇権維持となりそうだが、視点が独自すぎるのは、トランプは隠れ多元主義者で、局地戦を超える戦争を行いそうな派手なパフォーマンスで、軍産をびびらせながら、揺り戻しで多元方向に舵を切っていると分析していること(軍産も本気の戦争になると不味いので精々、局地的な戦争までしか踏込むつもりはない)。こうなると、陰謀史観的な感じもあり、話3/4程度に聞いておいた方がよさそうなところもあるのだけれども、田中宇さん、私の知る限りで、トランプの当選を予測していた、ほぼ唯一の人。ここのところの北朝鮮とのやり取りでは、朝鮮戦争が会談で終結するという勇み足な分析もあったけれど、他とは違いすぎる視点は面白い。

その田中さんの最近の記事の一つが、先進国でIQ調査の平均値が低下しているというもの。有料記事なので、差障りのなさそうな範囲で紹介すると、

「ノルウェーの徴兵時の知能試験では、20世紀を通じ、IQの平均値が10年ごとに3ずつ上がっていた。-中略-このIQの上昇は、1994年ごろを境に、低下傾向に転じている。昨年来の報道によるとノルウェーの徴兵時知能試験でのIQ平均値は94年以降、10年ごとに7ずつ下がっている。今世紀に入ってのIQ低下は、欧州を中心とする多くの先進諸国で起こり、今も続いている。」

とのことで、田中さんは、近年の動向を支配階層の都合のよい方へのバイアスによるという視点で説明している。

IQテストが人の思考力の何を反映したものであるかは、議論が分れるところだし、このブログでも、ときおいIQの高そうな人々の愚かしい行為に言及はしているのだけれども、それでも、大昔に国際キリスト大学の先生から聞いた記憶のある「入試ではIQテストみたいな問題もあり、実は、この成績と入学後の成績に高い相関がある」といった文言を思い出すと、何らかの思考力、あるいは、思考しようとする指向性に関わる事柄であるように思える。

人間が自己家畜化を始めたのは、何万年も前の話だろうとは思うのだけれども、どうやら、それは、その時代で完結した話ではなく、社会の変化に伴って、その方向性も変化していく事柄であるのかもしれない。

近年、高等学校の普通科を改組するような話を聞く。大学改革とやらが、どうも、大学の疲弊をもたらしている様子であることを思うと、それが、下まで進行して先にろくな事柄を思い起せない。この手のことを進めたがる人は、教育現場の閉鎖性と社会経験のなさを口にしがちだけれども、日本の会社の現状を見ていると、それ以上に閉鎖的に感じられるし、英知も知見も感じられない。まあ、だからこそ、自分のことは棚に上げてというか、立派なものだと思っていて、余計な口出しが出来るのだろうけれども。


by ZAM20F2 | 2019-06-09 21:15 | 文系 | Comments(0)

選別力あり

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新聞に載っていたもう一つの問題は国語で、これは、塾オリジナルの問題のようだ。
内容は、日本語はそれなりにしゃべれるけれども、日本文化を知らない(謎の前提だ!)坊やが家にやってくるので、日本文化が分る遊びをするつもりだけれども、何をするのかとその理由を述べよという問。
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この問題、実にえげつない選別力がある。

答を見れば、本人というより、その家庭がどんな家庭であるかが見えてしまう。もちろん、付け焼刃的に「百人一首」なんて答えを出して、理由として「和歌という日本の伝統的文化に加えて、和服の装束も絵で楽しめる」などという、この手の塾が指導していそうな答えも出てくるかもしれないけれども、そんな小賢しい技をたたき込まれていない子どもは、素直に、日常体験を元に遊びを書いてしまうだろうと思う。それは、家庭での日常が反映されたものであり、その家庭が学校として望ましい家庭であるのかの判断材料を与えることになる。これは、国語の問題ではなく、家庭環境調査だ。

まあ、私立の学校には校風があるだろうから、それにあった家庭の子どもを入れるのは、その学校にとっての正しい選択なのかもしれないけれども、この広告の中に、「塾経由で私学へ、そして未来へ」なんて書いてあるのを見ると、未来が明るい物ではないようにしか思えなくなるのが辛い。

by ZAM20F2 | 2019-06-07 07:42 | 文系 | Comments(0)

この答、理科ではない

今月の学習塾の車内問題、写真を撮ろうかと思っていたら、何故か新聞に広告としても掲載されていた。
問題は、海亀がレジ袋をクラゲと間違えて食べてしまうのを防ぐ方法を尋ねるもの。ただし、レジ袋としては機能することが求められている。
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問題を眺めながら、学習塾の解答は、海亀が消化できる材質の利用程度かなとおもっていたけれども、解答例としてあがっていたのは、
消化可能+水にはとけないけれども、海水に溶ける。
毒のある生物に似た色にして食べないようにする。
という2点。いずれも、私が採点者だったら、低い点をつける内容だ。

どこが気に入らないかというと、きっちりした科学的な知見に基づいていない解答だからだ。まず最初のものに関しては、水に溶けずに海水に溶ける素材があるかという点が引っかかる。私の知識の範囲では、思いつく素材がない。こんな回答でよいなら、「レジ袋としてはちゃんと使えるけれども、使い終ったら消滅する素材を使う」でも立派な回答となる。科学的な根拠がない回答は、道徳授業の回答にはなっても、理科の回答にはならない。それに、そんな素材があったとして、スーパーでネット入のアサリでも買込んで袋に入れたら、大惨事になりそうだ。魚のパックの液体が漏れても危ないかもしれない。実用性にも疑問があるのだ。
2番目の回答は、一見もっともらしいのだけれども、海亀の生態をきちんとしった上でないと、可能であるか判断できないはずだ。海亀が補食しない色の生物がいることが前提なのだけれども、学習塾がそれを知った上で出しているとは思えない。そういう意味では、これも空想科学の回答であって、理科の回答ではない。それに、着色しても、砕片となってしまったら、やっぱり食べそうだ(クラゲの破片と間違えて)。


では、理科的に考えても、大丈夫な回答があるのかと言われると……
コスト的とか他の点ではダメな回答なら無いこともない。
一つは、袋の底部分に比重のかなり高い材料を用いること。条件は、それなりの速度で海中でも沈降すること。底部分としたのは、それなら、袋に空気が入って水中を浮遊する危険性が減らせると考えるため。陸の近郊だと、海底を漂うものをそれでも食べられてしまうかもしれないけれども、大洋を漂うことはないので、海亀に対する安全性は高まるだろうと思う。その分、海底で良からぬ作用をするだろうけれども(でも、それは問題では問題にされていない)。比重を上げるのには、安く済ませるなら、鉛あたりでも練り込んどけばいいけれども、それじゃあ毒性がというのなら、金でも練り込めばよい。もっとも、そうすれば、海に流れることなく、人々が競い合って拾い集めるので、そもそも、ゴミとしての排出が減るというメリットもあるだろう。理科的解答をあきらめて、社会科的解答まで許容するなら、レジ袋の価格を1000円ぐらいにして、レジ袋には1000円と記入して、これを回収場所に持って行けば950円程度のキャッシュバックがあるようにしても良いかもしれない(差額は諸経費のつもり)。話としては、捨てられたレジ袋が海に漂うのを防ぐことなので、回収率を上げるのも一つの方策だ。


もう一つ思いついた答は、クラゲを使ってレジ袋を作ること。これは、材料科学的な観点の解答になる。エチゼンクラゲのような巨大なクラゲを伸せば、それなりのレジ袋になるかもしれない。で、これなら、使い終って、そのまま海に流れて、海水に溶けなくて漂っているところを亀に食べられても大丈夫! エチゼンクラゲ対策にもなるので一石二鳥だ。まあ、この問題を出した学校と、学習塾からは、「ふざけている」といって最低点をつけられそうだけれども。

by ZAM20F2 | 2019-06-05 07:56 | 文系 | Comments(0)

令和の少年技師

これは昭和の御代の少年技師の本。
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昭和といっても中頃の話で、昭和も末には絶版になっていたし、平成の時代もそして令和になっても再版されて、現在の少年少女に読まれるようになることはないだろうと思う。
本の中身、
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世の中にどんな道具があるのか、
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どんな手法があるのか、
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どうやってつなげるのか、
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どうすると強くなるのかなど、
単なるノウハウを越えて工作をするのに必要な基礎知識を概念を含めて十分に学べるだろうと思う。

この手の本は絶版となって久しい。まあ、考えて見れば、電子器機なんかがなかった時代には、電磁石やモーターは、それなりに格好いい存在だったけれども、現在では、旧式な存在に見えてしまうのは仕方がないことで、そのための本にも需要がないのは当り前の事ではあるのかもしれない。

そして、子ども向けの本のコーナーなどを眺めながら、これらの本に代る物はないなぁと長らく思っていたのだけれど、先日になって、存在に気がつかされる出来事に遭遇した。遭遇したのは、ふらふらと出かけた中学生の課題研究発表会の場。マイコンボードを使って、スマートフォンから操作できるペットボトル回収ロボットを作るという発表に行きあったのだ。まあ、この発表には、黒幕の人がいて、全体の流れの仕切とマイコンボードの選択も黒幕の仕事らしい。話によると、まず、生徒さんは、割箸と輪ゴムで動く車を作って、3つほど試作をしてみて、その経験も踏まえて回収ロボット作業に入ったそうだ。工作経験が非常に少ないので、まずは、ハードウェアを作る上での困難さを実感して、かつ、作って終りでなく、作った経験を元に改良を行うことを経験させたかったようだ。
その上で作りつつあるロボットは、アーム部分などは、なかなかにシンプルだけれども割箸ゴム車の経験が生きているような構造で、なかなか面白そうな具合になっていた。ソフトの方はどうしているのかと尋ねたら、中学生から、最初は難しかったけれど、段段分ってきて、自分で組めるようになったという答が戻って来た。

思い起してみれば、ワンボードマイコンの存在は知っていて、それを使って、面白いことをやっているのは脇で眺めていた事はあるのだけれど、それをやっていた人は、ハードもソフトも出来る人だったので、素人には敷居が高そうだなぁと、自分で手をつける気にはならなかった。でも中学生がやっているのを見せられると、なんか、自分でも出来るような気分にもなってくる。

ワンボードのマイコンといっても、調べてみると、いろんな種類がある。分っている人からすると、機能の高くて汎用性のある物を選ぶんだろうけれども(前に見たやつはmbedだった)とりあえず、ある程度の入出力デバイスも揃っているところで眺めるとArudinoというやつが魅力的に見えてきた。

これがArudinoの入門書。
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Arudinoは、非理系の芸術家なんかでも、電子デバイスを使った作品を作れることを意識して作られているみたいで、取っつき易い作りになっている。そしてまた、発想として、右往左往しながら試作を作ってねという感じ。昭和の少年技師達が、半田ごてを持ちながら右往左往していたのが、スクリーン上で右往左往するのに変ったという印象だ。

もちろん、最初はプログラム言語なんて分っていないから、本の例題を呪文のように打込んで、本の通の結線をすれば、動作する。このあたり、最初はブラックボックスなんだけれども、それは、大昔の少年少女が、雑誌に付属のコードをPCに打込んだのと同じ作業。繰返していくうちに、ブラックがグレーになって、やがてホワイトになっていくだろうと思う。本の後ろには、言語リファレンスもついている。また、本に書いてある以外の外部器機と接続しようとすれば、自ずと、色々な知識が必要になっていくはずだ。

本を眺めながら思うのは、ソフトウェア絡みのことはハードウェア絡みに比べて回転が速いよなということ。たとえば、LEDの点滅周期を変える課題など、その場で、待ち時間を変えれば、点灯時間が変るのが目に見える。これをコンデンサと抵抗の変化でやろうなんて考えると、(ブレッドボードならともかく、)結構な時間がかかる。ソフトウエア絡みのことは、何かをやった結果に対するフィードバックが早く、それ故に、ハードウェアをいじるのに比べると、同じ時間で、より多くの試行錯誤が出来るだろうと思う。

少年技師という言葉は死語だろうから、それに代わる言葉が必要なんだけれど、そんな言葉の持ち合わせがないので、死語とは思いながら使うなら、この本、令和の少年技師には合っていると思う。


by ZAM20F2 | 2019-04-21 09:24 | 文系 | Comments(0)

理科じゃない

学習塾が今月取り上げた問題は、定性的と定量的な表現に関するものだ。
この学習塾、毎月2つの問題を取り上げていて、使っている鉄道会社では、路線毎にどちらかの問題が掲載されているようだ。
今月の理科の問題、見た記憶はあるのだけれども、使っている路線ではもう一つの方の問題にしか行き当たらず写真を撮れていない。学習塾のWebから拾うことも考えたのだけれど、そんなことをすると、警察に踏み込まれかねない世の中、とりあえず画像なしで話を進めようと思う。

今月の問題、定性的表現と定量的表現に関する説明があった後で、例文中から定量的な表現を選べというものだ。説明文での具体的な例としては、「今日は昨日より暑い」というのと「今日は昨日より気温が5℃高い」が示されている。

一般的には定量的な方が定性的な事柄より、物事を正確に表現するものと思われているけれども、中谷宇吉郎が「測定によって得られた数字が、自然の実態を表していないか、あるいは実態のうちごく一部の性質しか表していない場合は、科学的の価値は少ないのである。」と記しているように、数値で表現したからといって情報量が増えたり、正確になったりするとは限らない。
たとえば、上の二つの表現を比べると、定性的な表現からは、季節は冬ではないであろうことが分かるが、定量表現の方では季節はまったく分からない。真冬日でも、前日の気温が-15℃で、今日が-10℃なら上記の定量表現としては成立している。一方、気温が-10℃の日に「昨日より暑い」という表現は、普通は考えられない。こうしてみると、定性的な表現の方が、より多くの情報を含んでいるのだ。

さて、問題文の方はアからオまでの文から定量表現を全て選べというもので、「明日は問題集を20ページ勉強する。」というのと、もう一つが定量表現になっている。

問題のつくりとしては、概念の説明の後で、概念理解を問うており問題としての出来はよく、選別能力もそれなりにあると思う。
でもさ……、これって国語の問題であっても、理科の問題ではない。理科で物事を定量的に扱うのは、自然の実態を理論と照合したり、比較検討できるデータとして抽出するためで、「問題集を20ページ」というのは、問題集のレベルが示されていないため、その意味内容は、問題文中の定性的表現の「明日は問題をいっぱい解く。」に比べて情報量が多いとは言えない。
実際、低レベルの問題集を20頁やるのと、最高難度の問題集を2頁やるのを比較したら、数値上は前者の方がよく勉強していそうだけれども、実際には後者の方が勉強としては時間もかかり深くなるものであったりするだろう。

そう考えると、この問題は、国語の意味では定性と定量を区別できるけれども、科学的な視点からは、どちらが情報をきちんと含んでいるかは定らない内容なのだ。

この問題の解説で塾は、「目標を定めるときやその効果や進捗をはかるとき、評価の基準を明確にしていないと、曖昧でぼやけてしまいます。明確な目標を示すために使われる考え方の一つとして、「定量的・定性的」な考え方があります。」と記している。でもこれは、理科ではなく、施策など社会的な事柄に関わることで、この問題の解説としてはそぐわないように思える。それに社会にしたって、インフレ目標率2%を実現できなかったら辞職するなんて言っていたはずの人が未だに居座っているのを見ると、評価の基準にはならないようにしか思えない。

これ、国語だったら、良い問題だったんだけれどね。


by ZAM20F2 | 2019-04-12 07:46 | 文系 | Comments(0)