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カテゴリ:文系( 138 )

令和の少年技師

これは昭和の御代の少年技師の本。
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昭和といっても中頃の話で、昭和も末には絶版になっていたし、平成の時代もそして令和になっても再版されて、現在の少年少女に読まれるようになることはないだろうと思う。
本の中身、
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世の中にどんな道具があるのか、
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どんな手法があるのか、
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どうやってつなげるのか、
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どうすると強くなるのかなど、
単なるノウハウを越えて工作をするのに必要な基礎知識を概念を含めて十分に学べるだろうと思う。

この手の本は絶版となって久しい。まあ、考えて見れば、電子器機なんかがなかった時代には、電磁石やモーターは、それなりに格好いい存在だったけれども、現在では、旧式な存在に見えてしまうのは仕方がないことで、そのための本にも需要がないのは当り前の事ではあるのかもしれない。

そして、子ども向けの本のコーナーなどを眺めながら、これらの本に代る物はないなぁと長らく思っていたのだけれど、先日になって、存在に気がつかされる出来事に遭遇した。遭遇したのは、ふらふらと出かけた中学生の課題研究発表会の場。マイコンボードを使って、スマートフォンから操作できるペットボトル回収ロボットを作るという発表に行きあったのだ。まあ、この発表には、黒幕の人がいて、全体の流れの仕切とマイコンボードの選択も黒幕の仕事らしい。話によると、まず、生徒さんは、割箸と輪ゴムで動く車を作って、3つほど試作をしてみて、その経験も踏まえて回収ロボット作業に入ったそうだ。工作経験が非常に少ないので、まずは、ハードウェアを作る上での困難さを実感して、かつ、作って終りでなく、作った経験を元に改良を行うことを経験させたかったようだ。
その上で作りつつあるロボットは、アーム部分などは、なかなかにシンプルだけれども割箸ゴム車の経験が生きているような構造で、なかなか面白そうな具合になっていた。ソフトの方はどうしているのかと尋ねたら、中学生から、最初は難しかったけれど、段段分ってきて、自分で組めるようになったという答が戻って来た。

思い起してみれば、ワンボードマイコンの存在は知っていて、それを使って、面白いことをやっているのは脇で眺めていた事はあるのだけれど、それをやっていた人は、ハードもソフトも出来る人だったので、素人には敷居が高そうだなぁと、自分で手をつける気にはならなかった。でも中学生がやっているのを見せられると、なんか、自分でも出来るような気分にもなってくる。

ワンボードのマイコンといっても、調べてみると、いろんな種類がある。分っている人からすると、機能の高くて汎用性のある物を選ぶんだろうけれども(前に見たやつはmbedだった)とりあえず、ある程度の入出力デバイスも揃っているところで眺めるとArudinoというやつが魅力的に見えてきた。

これがArudinoの入門書。
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Arudinoは、非理系の芸術家なんかでも、電子デバイスを使った作品を作れることを意識して作られているみたいで、取っつき易い作りになっている。そしてまた、発想として、右往左往しながら試作を作ってねという感じ。昭和の少年技師達が、半田ごてを持ちながら右往左往していたのが、スクリーン上で右往左往するのに変ったという印象だ。

もちろん、最初はプログラム言語なんて分っていないから、本の例題を呪文のように打込んで、本の通の結線をすれば、動作する。このあたり、最初はブラックボックスなんだけれども、それは、大昔の少年少女が、雑誌に付属のコードをPCに打込んだのと同じ作業。繰返していくうちに、ブラックがグレーになって、やがてホワイトになっていくだろうと思う。本の後ろには、言語リファレンスもついている。また、本に書いてある以外の外部器機と接続しようとすれば、自ずと、色々な知識が必要になっていくはずだ。

本を眺めながら思うのは、ソフトウェア絡みのことはハードウェア絡みに比べて回転が速いよなということ。たとえば、LEDの点滅周期を変える課題など、その場で、待ち時間を変えれば、点灯時間が変るのが目に見える。これをコンデンサと抵抗の変化でやろうなんて考えると、(ブレッドボードならともかく、)結構な時間がかかる。ソフトウエア絡みのことは、何かをやった結果に対するフィードバックが早く、それ故に、ハードウェアをいじるのに比べると、同じ時間で、より多くの試行錯誤が出来るだろうと思う。

少年技師という言葉は死語だろうから、それに代わる言葉が必要なんだけれど、そんな言葉の持ち合わせがないので、死語とは思いながら使うなら、この本、令和の少年技師には合っていると思う。


by ZAM20F2 | 2019-04-21 09:24 | 文系 | Comments(0)

理科じゃない

学習塾が今月取り上げた問題は、定性的と定量的な表現に関するものだ。
この学習塾、毎月2つの問題を取り上げていて、使っている鉄道会社では、路線毎にどちらかの問題が掲載されているようだ。
今月の理科の問題、見た記憶はあるのだけれども、使っている路線ではもう一つの方の問題にしか行き当たらず写真を撮れていない。学習塾のWebから拾うことも考えたのだけれど、そんなことをすると、警察に踏み込まれかねない世の中、とりあえず画像なしで話を進めようと思う。

今月の問題、定性的表現と定量的表現に関する説明があった後で、例文中から定量的な表現を選べというものだ。説明文での具体的な例としては、「今日は昨日より暑い」というのと「今日は昨日より気温が5℃高い」が示されている。

一般的には定量的な方が定性的な事柄より、物事を正確に表現するものと思われているけれども、中谷宇吉郎が「測定によって得られた数字が、自然の実態を表していないか、あるいは実態のうちごく一部の性質しか表していない場合は、科学的の価値は少ないのである。」と記しているように、数値で表現したからといって情報量が増えたり、正確になったりするとは限らない。
たとえば、上の二つの表現を比べると、定性的な表現からは、季節は冬ではないであろうことが分かるが、定量表現の方では季節はまったく分からない。真冬日でも、前日の気温が-15℃で、今日が-10℃なら上記の定量表現としては成立している。一方、気温が-10℃の日に「昨日より暑い」という表現は、普通は考えられない。こうしてみると、定性的な表現の方が、より多くの情報を含んでいるのだ。

さて、問題文の方はアからオまでの文から定量表現を全て選べというもので、「明日は問題集を20ページ勉強する。」というのと、もう一つが定量表現になっている。

問題のつくりとしては、概念の説明の後で、概念理解を問うており問題としての出来はよく、選別能力もそれなりにあると思う。
でもさ……、これって国語の問題であっても、理科の問題ではない。理科で物事を定量的に扱うのは、自然の実態を理論と照合したり、比較検討できるデータとして抽出するためで、「問題集を20ページ」というのは、問題集のレベルが示されていないため、その意味内容は、問題文中の定性的表現の「明日は問題をいっぱい解く。」に比べて情報量が多いとは言えない。
実際、低レベルの問題集を20頁やるのと、最高難度の問題集を2頁やるのを比較したら、数値上は前者の方がよく勉強していそうだけれども、実際には後者の方が勉強としては時間もかかり深くなるものであったりするだろう。

そう考えると、この問題は、国語の意味では定性と定量を区別できるけれども、科学的な視点からは、どちらが情報をきちんと含んでいるかは定らない内容なのだ。

この問題の解説で塾は、「目標を定めるときやその効果や進捗をはかるとき、評価の基準を明確にしていないと、曖昧でぼやけてしまいます。明確な目標を示すために使われる考え方の一つとして、「定量的・定性的」な考え方があります。」と記している。でもこれは、理科ではなく、施策など社会的な事柄に関わることで、この問題の解説としてはそぐわないように思える。それに社会にしたって、インフレ目標率2%を実現できなかったら辞職するなんて言っていたはずの人が未だに居座っているのを見ると、評価の基準にはならないようにしか思えない。

これ、国語だったら、良い問題だったんだけれどね。


by ZAM20F2 | 2019-04-12 07:46 | 文系 | Comments(0)

でんじろうさんどこいくの

ぼーっとテレビを見ていたら、液体窒素と熱湯を100Lずつおけに投げ込むというのをやっていた。熱湯が凍ったら液体窒素の勝ち、すべて蒸発したら熱湯の勝ちという謎の勝負だった。どうやら、でんじろうさんの番組らしい。見ていて、「オトナは大変だなぁ」と思った。

実験の結果は、一気に気化した液体窒素のために、おけが壊れて、他に予定していた実験はできなくなり、でんじろうさんが「実験はやってみなければわからない」といったことを言っていた気がするのだけれど、これ、科学の実験の気がしない。

ざっくり調べると、液体窒素の気化熱は約200KJ/Kg。それに対して水の融解熱は325KJ/Kg。液体窒素の密度は密度は0.81Kg/Lなので、同じ容積の液体窒素は0℃の水を完全に凍らせる能力はない。では、部分的にでも氷ができるかというと、それは、熱湯の温度に依存する。熱湯といっても、紅茶を入れるのに適した温度から、ダチョウ倶楽部の熱湯風呂まで温度の幅は広い。水の比熱は4KJ/Kg程度なので、液体窒素の気化熱(200KJ/Kg)で同じ重さの水の50℃程度の温度変化は引き起せる。気化した後のガスをうまく熱交換して使えば、もうすこし冷却できるけれども、あの実験では気化したガスは大気に逃げてしまうので冷却は期待できない。最初の液体窒素の温度が沸点より低ければ、液体窒素の温度上昇分だけ冷却できるけれども、窒素は15℃程度の温度範囲しか液体でなく、比熱は2KJ/Kg程度なので、あと7.5℃冷せる程度だ。

ということはダチョウ倶楽部の熱湯風呂だったら、ごく一部の熱湯を氷にできるかもしれないけれども、玉露に適した温度では、氷は出来ないというのが結論となる。これは、単純な計算で分ることで、実際に実験をやらなくても、熱湯の勝ちだ。氷が出来たとしたら、実験に間違いがあったと言うことになる。でんじろうさんの実験は、演示実験という分類に含まれるものだと思う。演示実験とは、高校の物理でもおなじみのモンキーハンティングのように物理に対する理解や納得を深めることを目的としたものだ。では、液体窒素と熱湯の対決で、理解や納得が深まったかというと、そもそも、そういった科学的な話はなかったように思う。そしてまた、科学的な話をするなら、100Lも使う必要なく、100ccでも十分だろうと思う(断熱などはより注意する必要があるかもしれないが)。そう考えると、あれは、演示実験としても成立していない。単なる、どうでもよいテレビのバラエティーショーだ。

というわけで、「オトナって大変だなぁ」と思った次第だ。100ccの液体窒素とお湯を混ぜても、派手な映像とはならない。テレビ的には、それじゃ駄目じゃんというところだろうと思う。「大科学実験」という反科学的な番組でも、意味ない巨大化がなされるけれど、どうやらテレビの人の頭の中は粗雑で、大きければよいというエールチョコレートの昔から進歩していないものと見える。で、それにつきあわないと番組が続けられないように思えるわけで、科学じゃないと分っていても、やらざるを得ないのだろうなぁと感じた。食べていくのは何事も大変だ。

このブログでも何度か書いたことがあると思うのだけれど、昔、小学校の先生から「子どもを科学館に連れて行くと、液体窒素で花を凍らせる実演などを目を輝かせて見るんですけれども、学校に戻ってくると、それは学校とは別の華やかな世界の話で、学校の理科は、そんな凄いことを見せるわけではないので、科学館に行って液体窒素を見たことによって、逆に学校の理科への興味を失う場合がある」といったことを伺った事がある。あのテレビをみて、液体窒素すげーと思うこどもが、学校の理科で液体窒素が出てこないのでつまらないと失望することをでんじろうさんが望んでいるとは思わないけれども、そうなる危険性は十二分にあるし、それ以上に、普通のオトナに科学を誤解させる危険性がある。

でんじろうさん、どこへ行きたいのだろう。

by ZAM20F2 | 2019-04-09 06:09 | 文系 | Comments(0)

一見良問

頭の形を変えてくれる学習塾の前回のもの
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国連担当者だとして、どのような活動をするかという問題。
一段ひねった回答を要求する設問で、中々に読解力と思考力が求められそうだ。そういう意味では、学力をきちんと評価できて、良問だと思うのだけれど、違和感があった。
で、考えてみると、この設問には、何故食料不足が生じているかのデータが示されていない。したがって、回答はデータに基づいて論理的に考えて行う事はできず、適当な推測か、自分の知識の範囲で適当にでっち上げるしかない。
ということは、この問題で点をとるには、出題者の意図をよみとって、それが満足するような答を忖度して導き出す能力が必要ということだ。実際、インタビューを見ると、「「(たくさん収穫できる)作物の品種改良の技術指導」といった解答もありました。アイデアとしてはおもしろいのですが、「日本の中学生」向けとしては適当ではありません。」などという記述がある。中学生相手という出題者の意図まで忖度して考えなければいけないなんて、この学校は「実社会に役立つ人づくり」を目指しているらしいけれども、こうなると、本当に正しい(かもしれないこと)よりは、そのときの権力者が求める回答をだす人間を拾っているわけで、実社会に役立つというより、権力に役立つ人作りが目的ではないかという印象が強い。実際問題として、品種改良の話を聞いて、将来的にその道に進む生徒さんだっていても驚かない。
学習塾の回答には
「日本から出る大量の食品ロスやその原因を伝え、食品ロス削減のために自分ができる取り組みを考えてもらう。」
なんていうのもあって、出題校インタビューでは「こちらが想定していた答えは、「フェアトレード」や「食品ロス」です。実は、今年の他の入試回でフェアトレードを、食品ロスは過去に出題しています。過去問を解いたり複数回受験した受験生に解答のヒントにしてもらおうと、意図して仕掛けました。」などとも記してあるので、塾の回答は出題校にとっても正解なのだろうけれども、食品ロスを減らすことが世界の飢餓を減らすことになるのかは、まったく自明ではなく、過去問を解いて、忖度の心を身につけた子どもを選ぶ回答であっても、とても、正しい答とは思えない。
この塾に頭の形を変えてもらいたくないとつくづく感じる。
by ZAM20F2 | 2019-03-23 10:36 | 文系 | Comments(3)

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そして、上には天使
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by ZAM20F2 | 2018-12-24 08:57 | 文系 | Comments(0)

読者のその後

前のエントリーの本は、奥付きによると昭和28年の発行だ。7月初旬には発行されているので、夏休みには間に合うタイミングだったようだ。
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この本、蔵書印があった。
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持ち主はM.FUKUDAさんだったようだ。本には、他の手がかりも少しばかりあって、おいくつぐらいの方かも想像ついたので、この本の持ち主だった方のことを想像で描いてみたいと思う。

Fさんは昭和17年頃の生まれ。出身地は分からないけれども、東京の小学校に通っていて、この本を手に入れたのは小学校4年生の時。夏休み前に手に入れたので、随分と夏休みに眺めて、本の表紙が外れかけてしまったようだ。前のエントリーで本の左側に白い部分があるけれども、これは補修のために貼られた紙で、その上から4年生の時のクラスと名前が裏表紙に書いてあるので、間違いないだろうと思う。

昭和28年といえば、高度成長以前。都市部のサラリーマン家庭では、子供の科学を定期購読して、誠文堂新光社の新刊を知ることも出来たろうけれども、農村部では、まだまだ現金収入は乏しく、子供にこのような本を買い与えることは少なかっただろうと思う。それに、エナメル導線なんかも、そこらでは売っているものではなく、科学教材社の通販はあったと思うけれど、今みたいに、画面で見て、ポチれば済むような気楽なものではなかった。Fさんがこの本を手に入れて、工作もできたであろうことは、都市部に住んでいたからこそだと思う。


その後、6年生の時のクラスが書いてあって、さらに中学生の時のクラスが書いてある。この本は愛読書で、だんだんと複雑なものまで作るようになったのだろうと推測できる。

小学4年の時にはラッションペンのようなもので名前がかいてあるけれども、中学生になると万年筆の文字だ。昔は中学生になると万年筆というのがよくある話だったなぁとしみじみと思う。今は、万年筆なんていうのは趣味の筆記具で、妙な懐古趣味のボディーが流行っているけれども、昔は万年筆は実用品で、年々スタイリッシュな格好へと変化していくものだった。

その後、Fさんは大学の工学部に入学して、そして学部を卒業して誰でも名前を知っている弱電系家電メーカーに就職した。
今でこそ、理工系は大学院の修士まで行く人が多いのだけれど、Fさんの大学卒業はオリンピック前のこと。修士なんかに行ってしまうと、企業が雇ってくれなかったような時代だと思う。

山北さんも芝浦製作所の技術者だったわけで、その山北さんの本が愛読書だった子どもにとっては、きわめてまっとうな進路だと思う。

その後は技術者として、極東の島国の工業の発展に貢献されたのだろうと思う。Fさんのような多くの技術者がいたから、ハードウェア関係の工業の発展が可能だったのだろうと思う。

昭和28年から60年以上たった今、小学生向けに、電磁石やモーター作りを唆す本は知っている限りでは新刊で存在しない。一方で、小学校程度の子供でも、プログラムを独習できるような情報環境は存在しているとは思う。子供を取り巻く環境の変化は、これからの技術者にどんな影響を与えるのだろうか。






by ZAM20F2 | 2018-12-07 08:15 | 文系 | Comments(0)

文系と理系の卒論課題設定方法の違いについて

この前、文系の人と話をしていて、卒論の課題の決めかたを巡って、お互いに驚いていた。文系の人は、理系で卒論のテーマを教員が与えると聞かされて、4年になっても卒論の課題も決められない程度の成長レベルであることに驚いたようで、理系の身の上としては、文系の卒論が、学生さんが提示出来る程度の課題で成立してしまうことに驚いていた。

もちろん、文系といえども4年になって、前提知識なしに卒論課題を決められるわけではなく、3年次からゼミというやつに所属して、卒論の前段のものを書いて、その延長かあるいはその経験をもとに卒論課題を決めていくらしい。とはいえ、それで、卒論課題が決定出来るのは、文系の研究課題が日常体験や日常言語の延長にあるからである気がする。

一方の理系はというと、2年次くらいまでは基礎的物理・化学・数学を中心に、そして、3年次ぐらいから、ある特定の専門分野の基礎知識を学び、さらに実験を行うことで手一杯だ。研究室で行われていることは、それらの基礎知識からは、だいぶ離れたところにある。当然、それまでの日常体験の外側の話だし、そこで使われている術語も、ほとんどは初めて聞くようなものとなる。教員側から課題を与えられて、それを進める過程で、どのような背景にもとづいて何をやっているのかを理解していくという感じだ。

それしても、文系の卒論がそんなものとは知らなかった。知らなかったのは私だけかと思って、知り合いの理系研究者に聞いたら(標本数1だけれど)、やっぱり知らなかったので、決して私が例外であるわけではなと思う。

文系の人との卒論を巡る会話を通して、高校の課題研究で、課題設定を生徒に行わせるケースが多いのは文系の卒論スタイルの影響かと少しばかり分かった気がする。教育学部の卒論がどのような感じで進むのかは知らないけれども、こんな感じで卒論課題を学生が決めるのが普通なら、その延長で、学生が課題を決める流れになりそうだ。(そういえば、高校によっては、課題は教員側が主導で、ひたすら生徒指導をするところもあるようだけれども、そういうところは、ひょっとすると理科系の研究経験がある教員が主体なのかしら。)

ただ、高校の課題研究といえども、理系スタイルで研究をやるとなったら、あっという間に日常言語からは離れる領域に突入する。その時に課題で扱うことを実際の行動に展開するのは、研究経験のない人には困難であろうと思う。

高校の課題研究、やりたいことの決定は生徒さんに任せるとして、その後に、どのような展開をするかは、それなりの分かった人が指導するような、文系と理系のハイブリッドスタイルが良いんじゃないかという気がしてきた。

by ZAM20F2 | 2018-11-02 07:34 | 文系 | Comments(0)

文系と理系の研究スタンスの違いについて  -あるいは、文系の議論が罵りあいになりがちという伝聞について-

前のエントリーでは、定量データの統計比較による文系の研究が、
(観察)→仮説→検証
というプロセスを経て、仮説が結論に出てくる文系の研究プロセスではなく、
研究動機→データ→解析→結論
という、理系でも納得できる、理系の普通の研究で馴染みのあるプロセスで進行していく例がある話をした。
前のエントリーで取上げた本と、普通の理系の研究で共通していることは、観察や実験結果などから、新しい知見を得るということで、その新しい知見に興味を持つことが、研究動機となることを考えると、上記の研究プロセスは極めて自然なものである。

そうなると、逆に、文系の仮説→検証と称する研究プロセスが、どのような理由により生じてしまうのかが不思議になる。理系の端くれとしては、この不思議さを動機にデータを集めて解析しないといけないのだけれども、そんな気力も暇もないので、ここは、文系の研究スタイルである、(思いつきの)仮説→(適当な論拠による)検証というプロセスで議論を進める。

このスタイルを引き起している理由として、「文系の研究の目的が、世界に新しい知見を加えることではなく、新しい考えを示すことであることが、文系の研究スタイルを生み出している。」という仮説を提示したいと思う。この仮説は、別の言い方をすると、理系の研究の大半は、クーンの言うパラダイムの中で行われているのに対して、文系の研究は(部分的にでも)パラダイム変換を意図するものである点が違うという言い方ともなる。

パラダイムのことを適当に説明すると、ある事柄に対する、その集団の共通となる考えといったものである。例えば、19世紀の物理学では力学と電磁気学などの古典力学がパラダイムであった。ところが、黒体放射とか、原子からの発光はど古典力学では説明できない事象が発見され、25年ほどの歳月をかけて量子力学が形成され、これらの現象をりかいするための共通となる考えの変更(パラダイム変換)が生じた。パラダイム変換の途中ではボーアの原子模型のように、古典力学のは反する考えを含んだモデルが、その不完全さにもかかわらず、提案されている。
自然科学におけるもう一つの例として、大陸移動説を上げることができる。これは、アフリカと南米の海岸線の形状が類似するといったことから提唱されたが、提唱時には、移動機構の説明はまったくされておらず、学会の主流には受入れられない仮説であった。しかし、その後にマントル対流という移動機構が考えられるようになり、復活を遂げている。
これら2つは後に正当性が確かめられたような事柄であるが、自然科学においても、東日本大震災で無力を晒したアスペリティを使った地震の説明のように、集団幻想としか思えないような事柄も存在する。

理系におけるパラダイムの例を挙げたのは、理系においてもパラダイム転換期には、観察事項の重要性の判断基準や解釈が、用いるパラダイムにより大きく異なることがあることに注意して頂きたいためである。別の言い方をすれば、異なるパラダイムにのっかっている研究者の間では、議論が原理的にかみ合わない状況が生じうる。

さて、文系の研究に戻ってくると、彼らの研究がパラダイム変換を目指すものである以上は、それ以外の研究者との間で、議論を行うことが困難であることは十分に理解できる。何しろ、異なるパラダイムに従って、事実の重要性を判断するから、論拠とする事実が互いに異なるだろうし、同じ事実を扱っても、解釈が正反対になることだってあり得る。また、自分の議論に対して反例となりうるような事実は、例外とか、重要性が低いといって取上げなくてもかまわない。なにしろ、パラダイム間の喧嘩なのだから。

このため、文系の研究者が、論争相手に対して、「あなたの考えは間抜けだ」と言うのは、「おまえのかーちゃんでべそ」という程度の意味となる。相互に判断基準が違う以上、両者に共通の間抜けさは存在しないから合意は不可能だ。あとは、罵りあいが待っている。

一方、理系の研究者が「間抜けな考え」という場合には、けっして、相手の「かーちゃん」の事は考えておらず、言っていることが、本当に論理的に駄目だと思っている。表面的な言葉は同じでも、それが意味するところは全く違っているのだ。

この違いを認識していない理系の研究者が、文系の研究者と話している時に相手の発言について「間抜けだ」発言をすると、人格攻撃と捕えられてしまうことがある(人格攻撃と捕えずに、間抜けなことを言っていると反省してもらいたいものなのだけれど。)。文系の人間と会話をする時には、相手は共通となる論理基盤の持ち合せがないことを意識しておいた方がよい。

文系の研究者の場合、互いに異なるパラダイムを持っているので、相互の感情がこじれた場合には、客観的な相互批評は不可能となる。そうなると収拾がつかないから、大人の対応としては、相互に、査読無しの論文を通す状況になりうることも理解はできる。また、文系の研究者が、事実背景なしに、思いつきで、面妖なことを主張するのも理解はできる(何しろ、それは、彼らにとって、これから、恣意的にでもデータを集めて検証する仮説であり、その主張は普通の行動だからだ)。

というわけで、文系の研究が、新しいパラダイムを言放つことを目的とするという仮説を考えると、彼らの行動パターンが理解はできる。

この稿では文系の研究手法の是非を問うつもりはない。ただ、そうした研究手法が「科学」かと言われると、それは違うと言って良いだろう。そして、間違えても、高校などの課題研究の指導書で、理科系の研究にまで文系手法を持込むようなまねはしないで欲しい。
by ZAM20F2 | 2018-10-31 07:07 | 文系 | Comments(0)

そうなると思う

歴史は実験できるのかというタイトルと、自然実験が解き明かす人類史という副題につられて買い込んだ本。
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英語の現代は「Natural Experiments of History」で概念としては、ダーウィンがガラパゴス諸島で、様々な動物の分岐を観察して、進化論へと進んでいったのと同様に、様々な歴史的発展を比較考察することにより、歴史の発展に関する知見を得るという研究の進め方の研究を幾つか寄せ集めたもの。そういう意味では
「歴史は実験できるのか」とか
「自然実験が解き明かす人類史」
なんてい言い方より

「複数の発展事象の定量的統計比較による歴史発展の検討」

と言う方が内容を正確に反映していると思う。

社会科学の本になるけれども、普通の文系の本のように
(観察)→仮説→仮説の検証
という筋道にはなっていない。その代わりに検討したいこと、その動機が語られ、その上で、データに基づいた分析が行われ、分かったことが記述されている。この流れは理科系の研究者にとっては容易に受け入れられるものだ。適当な仮説を提示され、恣意的に集められた証拠と称するようなものにより仮説が検証されたと主張されるのより、遙かにきちんとした方法を用いた仕事である。

これまで、文系の研究における仮説の意味についてのエントリーを書いており、文系の研究手法は理系のものとはまったく別のものであると思っていたのだけれど、文系でもまっとうな科学的手法による研究を行えば、仮説→検証ではなく、理系の普通の論文と同様の構成になるのだと納得している。

そういう意味では興味深い本で、アマゾンのレビューでも高評価なのだけれども、訳文は私にはとっつきにくかった。まあ、英語のレビューでも、

Tough read

なんていうのもあるくらいだから、原文(あるいは内容理解)にしても、楽に読めるものではないのは確かなのだけれども、

Traditional historians will thus find the approach of the first four studies in this book familiar in that they develop evidence in a narrative style, compare small numbers of societies, and do not present statistical comparisons of quantitative data in the text. The approach of the remaining four studies differs from that of most traditional historians but will be familiar to some historians and to scholars in related social sciences, in that they are explicitly based on statical comparisons of quantitative data and they compare many societies.



従って従来の歴史学者は、本書の前半で紹介する4つの研究のアプローチに親近感を抱くだろう。ナラティブに話を進めながら証拠を見つけ出した上で、少数の社会を比較しており、テキストの定量データを使った統計比較は行われていない。後半の4つの研究アプローチは従来の歴史学者や定量分析に明るい研究者の一部は馴染み深い印象を受けるだろう。定量データの統計分析をどだいにしながら、多くの社会を比較している。


なんて訳されると、まず「ナラティブ」のところで頭を抱えることになる。業界人にとっては、わかりきった用語なのかもしれないけれども、あの表紙で帯に「銃・病原菌・鉄」を持ち出しているからには、もっと広い読者層を想定しているはずだ。その相手に「ナラティブ」をそのまま使うのは、いかがなものかと思う。実際、上の文をgoogle翻訳にかけると、

したがって、伝統的な歴史家は、この本の最初の4つの研究のアプローチが、物語の形で証拠を展開し、少数の社会を比較し、テキストに定量的データの統計的比較を提示しないことを見いだすであろう。残りの4つの研究のアプローチは、ほとんどの伝統的な歴史家のアプローチとは異なりますが、定量的データの統計的比較に基づいており、多くの社会を比較するという点で、関連する社会科学の学者や歴史学者にはよく知られています。

と「ナラティブ」を「物語の形で」とちゃんとした日本語に訳してくる。これは、ナラティブの用例が少ないためだろうと思う。

個人的に、どんな具合の日本語ならなじめたかというと

最初の4章は物事の記述を通して根拠を積み重ね、少数の社会の比較を行っている。定量的な統計処理は行われておらず、従来の研究手法を行う歴史学者にとってもなじめる手法であろう。残りの4章の方法は従来の歴史学者の手法とは異なったものだ。多数の異なる社会を統計データを用いて定量的に比較検討しており、このような研究手法を用いている関連分野の研究者や、一部の歴史学者にはなじめるものであろう。

ぐらいかなと思う。


by ZAM20F2 | 2018-10-29 07:03 | 文系 | Comments(0)

日本の報道機関の科学部について

小倉さんの本の中には、科学ジャーナリストについて考えさせられる部分がある。
前のエントリーの坂田さんの解説に関しては、湯川さんから小倉さんに私信が届いているし、それ以外にも、自然の記事に対する感想が私信で送られいてる。それ以外にも矢野健太郎さん渡辺慧さん、江上不二夫さん、玉虫文一さんなどからも私信が送られているようで、科学者と編集者の間に交流があったことが伺える。今の世の中、こんな感じの科学ジャーナリストがいる気があまりしない。まあ、科学者側の問題でもあるわけだけれども。

もっとも、極東の島国の科学ジャーナリスト、記者の数もレベルも高くはないのは昔からのようで。ソビエトが人工衛星を打ち上げた直後には

多数の新聞記者に押し掛けられた東京天文台は『全く有史以来の』混雑を呈し、台員達は応接のいとまに苦しみ安眠を妨げられ、観測にさえ支障を来しそうになったといわれる。新聞社は今まで冷遇した科学記者を見直して急に科学部を新設するなどの狼狽ぶりを示したところさえある。

中略

政府もいささか狼狽したようだ。急いで理科系学生の大増員を文教政策として発表した。 中略 科学を尊重し、人類の幸福のためにその発展を望むことはよいが、『花咲爺』のお伽話に出てくる悪い爺さんのように肥料も与えずに収穫ばかりあせっては、却って不幸な結果を生する。

という状況が生じたそうだ。その後、半世紀以上の時間がたったけれど、新聞記者の科学に対する知見は相変わらず低く、ノーベル賞の記者会見でもまともな質問が出てこないようだし、そしてまた、政府の『かけ声だけ』という姿勢もまったく変わっていない。

by ZAM20F2 | 2018-10-25 07:27 | 文系 | Comments(0)