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手を動かさない教育

ワッフルの国から来た人がLC共振回路を作った。 物質のスペクトルに対する磁場の影響を測定する実験をやっている人で、手巻きの電磁石をステレオアンプにつないで使っていたのだけれど、どうも磁場が足りなかったらしい。
私何かだと、安直により高出力のアンプを使うことを考えるのだけれど、ワッフルの人は適当なコンデンサを使って共振回路にしてパワーの増強を図ったのである。
目から鱗が2枚ほど落ちた。1枚目は共振回路を作るという発想についてである。そして、もう一枚の鱗は、ワッフルの人は共振回路を作ればよいということは分かっていても、半田付けをするのは生まれて3度目だったことであった。
極東の島国だと、共振回路を思いつくような人は必ず半田付けの達人でもあって、目にもとまらぬ早業で実装作業を行うだろうと思うのだけれど、ワッフルの人はなかなか四苦八苦しながら作業をしていたらしい。
2枚目の鱗の方が1枚目より遙かに大きかった。そして、ワッフルの人はどういう教育を受けたのかが興味深かった。
たまたま、そのあたりに日本語が話せるガーネットの国の人がいたので、ワッフルの国の人に聞く代わりに、どんな大学教育をうけたのかを聞いてみた。
それによると、ガーネットの国では大学の授業は朝の7時半から夜7時半頃までびっしりあるそうだ。そして、大学低学年では所謂リベラルアーツをびっしりとやるらしい。もちろん、重たい実験もある。習うことは極東の島国の倍ぐらいあるのではないかと言う。重たい実験があると記したけれど、ワッフルの人が半田付け経験が無かったことを考えると、実験の内容はあくまでも科学的なことであって、技術的な手作業的なことは含まれていないのではないかという気がした。極東の島国だと、すぐに手を動かす教育になってしまうけれど、どうも、発想が根本的に異なる教育システムが存在しているのである。
余談になるが、それだけ授業があると、学生さんにはそれ以外のことをやる余裕は存在しない。それ故、ガーネットの国の大学にはサークル活動は存在しないそうだ。この話を、制限速度のない道路のある国にしばらく行っていた人に話したら、かの国では大学生は職業ではないかと言っていた。進学率はそれほど高くなく、むしろ選んで行くわけで、他の職業に就くのと同様に仕事として学生をやっているという発想があるのではないかという。確かに、伝統的に大学の授業料は無料であるはずだ。これは、職業に対する国からの支払いと思えば納得がいく話である。(逆にいうと、大学に進学することは、それを還元する義務を負うと言うことでもあろうと思う)

ワッフルやガーネットや速度無制限の国の教育システムを極東の島国で行うことは、いろいろな意味で現実的ではない。また、それが意味があるかもよく分からない。
極東の島国では、これまで、手を動かすことを教育に取り入れて来たように思う。このような教育は製造業の現場における細やかな改善と密接に結びついており、極東の島国の賃金が安かった時代には、安価で過剰とも言えるほどの高品質の工業製品に結びついていたのだろうと思う。極東の島国の賃金が高くなった結果として、過剰な品質による高コストは競争力の低下を引き起こす遠因にもなっているとは思うのだけれど、ある場面では極めて有効な教育システムであったわけだ。従って、ワッフルの人の教育を導入することは、これまでの強みを放棄することにもつながるのである。現状で、問題を抱えているかもしれないけれど、そのやり方を放棄して極東の島国がこれからもやっていけるのかはよく分からない。
とは言え、ワッフルの人の教育に興味を持ったのは極東の島国の教育システムには綻びが生じているような印象があるからである。もっともこれは教育システムの綻びというよりは社会システムの綻びと言って良いかもしれない。技術が進歩して、考えずに物事ができるようになった結果として、極東の島国を支えていた手を動かして考えるという発想が弱くなっている印象がある。とりあえず、答の出ない問題だけれど、しばらく思案し続けなければならない…
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by zam20f2 | 2010-04-04 21:02 | 文系 | Comments(0)

伝道師のM型ライカ

Sam Furukawa氏の講演を聴く機会があった。

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by zam20f2 | 2009-12-11 21:56 | 文系 | Comments(0)

楽しい科学実験は理科好きを増やせるか

楽しい科学教室や科学ショーに関する疑問メモ 少し前の話になるが、竹橋の科学技術館で開催されたの科学の祭典を覗きに行った。もっとも、実験手引書ももらい損ねたし、個々のブースの人に話しかけたりもせずに会場を一回りしただけなのだけれど。
 会場を巡って感じたのは、ブースを出して展示や実演をされている方が、科学好きを増やそうと、ボランティアとして熱心に活動されていること。そして、そこに来ている多くの子どもが楽しんでいること。しかしながら、子どもたちに科学的な思考をすることの楽しさが、ほとんど認識されていないであろうこと。たぶん、この経験は多くの子どもたちにとって、夏休みの楽しい1日の経験になっても、学校でやっている理科を好きになることにはつながっていかないように思える。いや、それどころか、学校でやっている理科から遠ざける危険性すらあるのではないかと思う。
 こんなことを書くと、主張に根拠があるのかと問いつめられそうなので、個人的な経験を紹介しよう。昔、ちょっとした成り行きで、小学5年生に科学の話をすることになった。そこで、液晶の話をしようかと小学校の先生に意見を伺ったところ、「結晶が溶けるときに液晶を経て液体になるのは一般的なことか」との質問を受けた。「細長かったり平べったい分子で起こることで、普通の分子は直接液体になる」と答えたら、「それなら、小学生に液晶の話をしないでくれ。彼らは中学になって物質の三態を学習するけれども、そのときに例外を知識としてのみ知っていて、それをひけらかされると中学の先生はやりにくいだろう」とのアドバイスを受けた。その先生からは、「子どもを科学館につれていって、液体窒素などを見せると目をキラキラさせて楽しむ。だけど、学校に戻ってくると、それは遠い世界のことで、学校の理科の授業にはいっさいつながらない。そうじゃなくて、学校の理科に直接つながるようことをやってくれるとありがたい」とも話された。そのときに小学生にした話が、先生のリクエストをどのくらい満足したのかは分からないけれど、アドバイスは頭に残っている。
 思いで話をもう一つ続けよう。小学生の頃に、コンパスと定規で正5角形を描く方法を教わった。中学の数学の授業の時に正5角形を描くことになったので、その方法で描き始めたら、それに気がついた先生が「その方法は正しい方法だが、その方法で描いた図形が正5角形であることを証明できるか」と私に尋ねた。否と答えると「自分で証明できるようになるまで、その方法は封印して、自分で原理的に正しいことが分かる方法で正5角形を描いてください」とおっしゃった。それ以来、いつかは証明をしてコンパスと定規で正5角形を描けるようにしようと思いつつ、すでに、方法を忘れかけ、未だに正5角形は分度器で角度を測って描くしかない身の上なのだけれど、自分で説明できない知識をむやみに使うべきではないという教えは頭にしみこんでいる。
 個人的には、日常的な科学の学習へのつながりを配慮し、知識の体系と繋がらないような、飛び越した知識は慎重に扱うというのは非常に重要なことであり、それを無視すると、子どもを科学から遠ざけることにすらなりかねないと思っている。それ故に、科学教室などの出し物や展示にしても、妙な飛び越しや、雑学としての知識として科学を示してはいけないというのは厳密に守られるべき事柄であると信じている。しかしながら、今回の科学の祭典、それからWeb上の多くの子ども向けの科学を楽しもう活動をしている人のサイトを眺める限りでは、ほとんど意識されていない印象がある。むしろ、系統的な科学の学習とは異なる、楽しいトピックス的なことにテーマが集まる傾向があるように感じている。
 この物言いに対して、まずは興味を持ってくれることが第1で、また、科学的な事柄に関する不思議さを感じる心を育てることが重要なのであるので、不思議さを演出する展示や科学ショーに意義があるという反論もあろうかとおもう。しかし、この反論は少なくとも、今回少しばかり見た科学ショーと称するものを見た限りでは反論として意味を持たないと感じている。
 今回眺めた科学ショーの中で、2つの形状のことな瓶の上にアルミ箔をおき、片方の瓶と同じ瓶を笛のようにならすと、同じ瓶の上のアルミ箔だけが落ちるという芸があった。残念ながら、観客はなにが見るべきところでなにが起こっているのかあまり理解できなかったので、演者の一人が、片方だけ落ちるのがすごいことで、これは共鳴によると解説していた。しかし、この解説でなにが分かるというのだろう。そして、共鳴という言葉のみでこの現象を片付けてしまったら、家で同様のことを試みる子どもにしても、親になぜかを問うて悩ませたあげくに、聞きかじった「共鳴だよ、そんなことも知らないの」という科学のかけらもない理由付けを親に言って分かったつもりになっているのが関の山ではないだろうか。これは、科学的な思考を育てることにはマイナスの効果はあってもプラスの寄与はない。そして、そこで得られる不思議さは、その理由を追及しようとしないという点において、心霊現象を不思議がるのとなんら心の働きにおいて違わないものである可能性がある。
 不思議さを育てるというが、大切なのは、畏敬の念がその先にある不思議さだと思う。もっとも、これは私のオリジナルではなく中谷宇吉郎が簪を挿した蛇の中で記しているようなことなのだけれど。
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by zam20f2 | 2009-09-06 18:39 | 文系 | Comments(0)

中谷宇吉郎の「虹」

少し前に続いて、今日も東京では虹が見えた。たぶん、方々のブログに虹の写真がでてくるのではないかと思う。
虹を見ながら、中谷宇吉郎の「虹」を思い出していた。もう60年以上も前に発表された話ではあるけれども、残念ながら、入手性がよくなく、そして、中谷がこの話で取り上げている虹の特徴は、この時代でも常識にはなっていないので、紹介する価値があるのではないかと思う。 中谷は虹の特徴として次のような点を上げている。
1、主虹は内側から紫・藍・青・緑・黄・橙・赤の順になる
2、副虹の順は主虹と逆である。
この二つは、Webによくある虹の説明にも記されていることである・
これらについての説明は、それらのWebや本に譲って、先に進むことにしよう。何しろ、中谷の虹の真骨頂はこれからなのである。

中谷は上記の2つの特徴に加えて、下記の事柄を虹の特徴として加えている。
3、主虹と副虹の間の空はほかの領域に比べて暗くなる
4、主虹の内側、副虹の外側に余り虹が出ることがある。
5、虹の幅は必ずしも一定ではない。また、楕円になることもある
6、虹によっては、7色は均等には出現せずに、特定の色の幅が広い。
そして、これらの観察事実について「一度でも本当によく自然を見た人には、虹の色というようなわかり切ったことにも、すぐ疑問が出てくるはずである。それが当然なのであって、実は分かり切ったことではないのである」、そして「「虹は水滴の反射屈折によるスペクトルの作用さ」と言って、それ以上実際の虹を見ない人がある。そういう人には虹の美しさは分からない。学問によって眼をあけてもらうかわりに、学問によって眼をぶされた人である。」と、なかなかに辛辣なことを言っている。
今日の7時前に見た虹は、日がほとんど沈みかけていて、地面からほぼ垂直に立ち上がるような一部で、外側が暗いか、幅が違うかは分からなかったけれど、明らかに赤色部分の幅が広く感じられた。何度も虹を見たことがあるはずだけれども、ちゃんと見たことがなかったと改めて感じた次第である。
さて、中谷によれば、これらの特徴の3番目は反射と屈折の法則で説明ができる。計算すると、虹の外周の水滴からの反射光は虹を見ている人の方向にはいかない。違う方向に反射されてしまうために暗くなるという。
そして、4番目以降の現象は光の干渉を考えないと説明はつかず、光の干渉の状態は水滴の大きさに依存するので、虹毎に見え方が異なるのだという。詳細に興味があるかたは原典に当たられたい。虹は、中谷の随筆集「霧退治」の他、中谷宇吉郎集第5巻に集録されている。
それにしても、60年も前に、おそらく一般から青少年向けの科学雑誌に書かれた話が、その後に忘れ去られてしまって、未だに虹に関しては反射屈折のみの、安直な説明しか世間に流通していないのは何故なのだろう。
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by zam20f2 | 2009-07-27 21:12 | 文系 | Comments(0)