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文系と理系の研究スタンスの違いについて  -あるいは、文系の議論が罵りあいになりがちという伝聞について-

前のエントリーでは、定量データの統計比較による文系の研究が、
(観察)→仮説→検証
というプロセスを経て、仮説が結論に出てくる文系の研究プロセスではなく、
研究動機→データ→解析→結論
という、理系でも納得できる、理系の普通の研究で馴染みのあるプロセスで進行していく例がある話をした。
前のエントリーで取上げた本と、普通の理系の研究で共通していることは、観察や実験結果などから、新しい知見を得るということで、その新しい知見に興味を持つことが、研究動機となることを考えると、上記の研究プロセスは極めて自然なものである。

そうなると、逆に、文系の仮説→検証と称する研究プロセスが、どのような理由により生じてしまうのかが不思議になる。理系の端くれとしては、この不思議さを動機にデータを集めて解析しないといけないのだけれども、そんな気力も暇もないので、ここは、文系の研究スタイルである、(思いつきの)仮説→(適当な論拠による)検証というプロセスで議論を進める。

このスタイルを引き起している理由として、「文系の研究の目的が、世界に新しい知見を加えることではなく、新しい考えを示すことであることが、文系の研究スタイルを生み出している。」という仮説を提示したいと思う。この仮説は、別の言い方をすると、理系の研究の大半は、クーンの言うパラダイムの中で行われているのに対して、文系の研究は(部分的にでも)パラダイム変換を意図するものである点が違うという言い方ともなる。

パラダイムのことを適当に説明すると、ある事柄に対する、その集団の共通となる考えといったものである。例えば、19世紀の物理学では力学と電磁気学などの古典力学がパラダイムであった。ところが、黒体放射とか、原子からの発光はど古典力学では説明できない事象が発見され、25年ほどの歳月をかけて量子力学が形成され、これらの現象をりかいするための共通となる考えの変更(パラダイム変換)が生じた。パラダイム変換の途中ではボーアの原子模型のように、古典力学のは反する考えを含んだモデルが、その不完全さにもかかわらず、提案されている。
自然科学におけるもう一つの例として、大陸移動説を上げることができる。これは、アフリカと南米の海岸線の形状が類似するといったことから提唱されたが、提唱時には、移動機構の説明はまったくされておらず、学会の主流には受入れられない仮説であった。しかし、その後にマントル対流という移動機構が考えられるようになり、復活を遂げている。
これら2つは後に正当性が確かめられたような事柄であるが、自然科学においても、東日本大震災で無力を晒したアスペリティを使った地震の説明のように、集団幻想としか思えないような事柄も存在する。

理系におけるパラダイムの例を挙げたのは、理系においてもパラダイム転換期には、観察事項の重要性の判断基準や解釈が、用いるパラダイムにより大きく異なることがあることに注意して頂きたいためである。別の言い方をすれば、異なるパラダイムにのっかっている研究者の間では、議論が原理的にかみ合わない状況が生じうる。

さて、文系の研究に戻ってくると、彼らの研究がパラダイム変換を目指すものである以上は、それ以外の研究者との間で、議論を行うことが困難であることは十分に理解できる。何しろ、異なるパラダイムに従って、事実の重要性を判断するから、論拠とする事実が互いに異なるだろうし、同じ事実を扱っても、解釈が正反対になることだってあり得る。また、自分の議論に対して反例となりうるような事実は、例外とか、重要性が低いといって取上げなくてもかまわない。なにしろ、パラダイム間の喧嘩なのだから。

このため、文系の研究者が、論争相手に対して、「あなたの考えは間抜けだ」と言うのは、「おまえのかーちゃんでべそ」という程度の意味となる。相互に判断基準が違う以上、両者に共通の間抜けさは存在しないから合意は不可能だ。あとは、罵りあいが待っている。

一方、理系の研究者が「間抜けな考え」という場合には、けっして、相手の「かーちゃん」の事は考えておらず、言っていることが、本当に論理的に駄目だと思っている。表面的な言葉は同じでも、それが意味するところは全く違っているのだ。

この違いを認識していない理系の研究者が、文系の研究者と話している時に相手の発言について「間抜けだ」発言をすると、人格攻撃と捕えられてしまうことがある(人格攻撃と捕えずに、間抜けなことを言っていると反省してもらいたいものなのだけれど。)。文系の人間と会話をする時には、相手は共通となる論理基盤の持ち合せがないことを意識しておいた方がよい。

文系の研究者の場合、互いに異なるパラダイムを持っているので、相互の感情がこじれた場合には、客観的な相互批評は不可能となる。そうなると収拾がつかないから、大人の対応としては、相互に、査読無しの論文を通す状況になりうることも理解はできる。また、文系の研究者が、事実背景なしに、思いつきで、面妖なことを主張するのも理解はできる(何しろ、それは、彼らにとって、これから、恣意的にでもデータを集めて検証する仮説であり、その主張は普通の行動だからだ)。

というわけで、文系の研究が、新しいパラダイムを言放つことを目的とするという仮説を考えると、彼らの行動パターンが理解はできる。

この稿では文系の研究手法の是非を問うつもりはない。ただ、そうした研究手法が「科学」かと言われると、それは違うと言って良いだろう。そして、間違えても、高校などの課題研究の指導書で、理科系の研究にまで文系手法を持込むようなまねはしないで欲しい。
by ZAM20F2 | 2018-10-31 07:07 | 文系 | Comments(0)

サザンカ咲いた

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お茶も地味に咲いている。
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2枚目に吻が写っているにはスズメガの人。気がついて角度を変えたけれど、逃げられてしまった。
脇では、クモの人が網を張っている。
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by ZAM20F2 | 2018-10-30 07:48 | 植物系 | Comments(0)

そうなると思う

歴史は実験できるのかというタイトルと、自然実験が解き明かす人類史という副題につられて買い込んだ本。
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英語の現代は「Natural Experiments of History」で概念としては、ダーウィンがガラパゴス諸島で、様々な動物の分岐を観察して、進化論へと進んでいったのと同様に、様々な歴史的発展を比較考察することにより、歴史の発展に関する知見を得るという研究の進め方の研究を幾つか寄せ集めたもの。そういう意味では
「歴史は実験できるのか」とか
「自然実験が解き明かす人類史」
なんてい言い方より

「複数の発展事象の定量的統計比較による歴史発展の検討」

と言う方が内容を正確に反映していると思う。

社会科学の本になるけれども、普通の文系の本のように
(観察)→仮説→仮説の検証
という筋道にはなっていない。その代わりに検討したいこと、その動機が語られ、その上で、データに基づいた分析が行われ、分かったことが記述されている。この流れは理科系の研究者にとっては容易に受け入れられるものだ。適当な仮説を提示され、恣意的に集められた証拠と称するようなものにより仮説が検証されたと主張されるのより、遙かにきちんとした方法を用いた仕事である。

これまで、文系の研究における仮説の意味についてのエントリーを書いており、文系の研究手法は理系のものとはまったく別のものであると思っていたのだけれど、文系でもまっとうな科学的手法による研究を行えば、仮説→検証ではなく、理系の普通の論文と同様の構成になるのだと納得している。

そういう意味では興味深い本で、アマゾンのレビューでも高評価なのだけれども、訳文は私にはとっつきにくかった。まあ、英語のレビューでも、

Tough read

なんていうのもあるくらいだから、原文(あるいは内容理解)にしても、楽に読めるものではないのは確かなのだけれども、

Traditional historians will thus find the approach of the first four studies in this book familiar in that they develop evidence in a narrative style, compare small numbers of societies, and do not present statistical comparisons of quantitative data in the text. The approach of the remaining four studies differs from that of most traditional historians but will be familiar to some historians and to scholars in related social sciences, in that they are explicitly based on statical comparisons of quantitative data and they compare many societies.



従って従来の歴史学者は、本書の前半で紹介する4つの研究のアプローチに親近感を抱くだろう。ナラティブに話を進めながら証拠を見つけ出した上で、少数の社会を比較しており、テキストの定量データを使った統計比較は行われていない。後半の4つの研究アプローチは従来の歴史学者や定量分析に明るい研究者の一部は馴染み深い印象を受けるだろう。定量データの統計分析をどだいにしながら、多くの社会を比較している。


なんて訳されると、まず「ナラティブ」のところで頭を抱えることになる。業界人にとっては、わかりきった用語なのかもしれないけれども、あの表紙で帯に「銃・病原菌・鉄」を持ち出しているからには、もっと広い読者層を想定しているはずだ。その相手に「ナラティブ」をそのまま使うのは、いかがなものかと思う。実際、上の文をgoogle翻訳にかけると、

したがって、伝統的な歴史家は、この本の最初の4つの研究のアプローチが、物語の形で証拠を展開し、少数の社会を比較し、テキストに定量的データの統計的比較を提示しないことを見いだすであろう。残りの4つの研究のアプローチは、ほとんどの伝統的な歴史家のアプローチとは異なりますが、定量的データの統計的比較に基づいており、多くの社会を比較するという点で、関連する社会科学の学者や歴史学者にはよく知られています。

と「ナラティブ」を「物語の形で」とちゃんとした日本語に訳してくる。これは、ナラティブの用例が少ないためだろうと思う。

個人的に、どんな具合の日本語ならなじめたかというと

最初の4章は物事の記述を通して根拠を積み重ね、少数の社会の比較を行っている。定量的な統計処理は行われておらず、従来の研究手法を行う歴史学者にとってもなじめる手法であろう。残りの4章の方法は従来の歴史学者の手法とは異なったものだ。多数の異なる社会を統計データを用いて定量的に比較検討しており、このような研究手法を用いている関連分野の研究者や、一部の歴史学者にはなじめるものであろう。

ぐらいかなと思う。


by ZAM20F2 | 2018-10-29 07:03 | 文系 | Comments(0)

雑談メモ:ブルーレイの目に影響の大きい波長について

たまたま話をした人から、375nmの波長の光が不足すると近眼になりやすいという話を聞いた。そのあたりの波長の光を受けないと、目が成長を続けてしまうのだという。文明開化以降の屋内光には、この領域の光がほとんど含まれていないわけで、近眼予防に、この波長の光を環境光に含めるような研究がなされているらしい。
この話を聞いた瞬間に思ったのは、375nmの光って目に悪いんじゃないかということ。近年、ブルーライトが目に悪いという話がある。紫外線を浴びると皮膚癌の危険性が増すように、一般に短波超の光は生体に対して影響を与える。一般論として波長の短い光の方がエネルギーが高いので影響が大きい。美術館などの絵が紫外線から保護されるのはこのためだ。

と言うわけで、当然のように目に悪いんじゃないかと質問したのだけれど、帰ってきた答は、「ブルーライトで問題となるのは430nmで、そこから外れると影響は小さい」とのこと。答を聞きながら、でも、吸収端より高エネルギー側の光も吸収されれば,同様に光化学プロセスの出発点となるわけで、何で430nmとかなり不思議だった。

その後、黄斑の吸収端と関係があるのかなぁなどとも思案したのだけれど、目の吸収波長を調べてみると、440nmあたりが吸光度のピークで、375nmの吸光度はピークの数十分の一になっているようだ。どうやら、430nmが良くないというのは、S錐体の吸収曲線が関与している話で済みそうだ。
ただ、そうなると、不思議なことが2つ生じる。一つ目はS錐体は青色系に視角を引っ張る錐体なのだけれど、そこからの信号強度は吸収光量に依存するだろうから、430nmの光は吸光度が高ければ、より弱い光量で、青色に十分引っ張れる。それに対して、たとえばあ390nmの光だと吸光度は1/20程度なので、同じ程度青色に引っ張るのは20倍の光量がいる。つまり、光量比だと、430nmが影響が大きいけれど、青色を同じ程度に感じる状況では、影響は波長には、あまり依存しなくなる気がするのだけれども、どうなっているのだろうかと言うこと。
もう一つは、そうなると、375nm光で近眼が予防できるのは、錐体のどれかが光を吸収するためではなく、錐体以外の何者かの光化学反応が関与しているという話になるけれども、それは何なのだろうかということ。

なかなかに不思議だ。
by ZAM20F2 | 2018-10-27 18:50 | 科学系 | Comments(0)

用途不明

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カーボンロッドという表記に釣られて買ってしまったんだけれど、周りに銅のコーティングもないし、先もとがっていないのでアークの棒でないことは確かだ。
何に使うものなんだろう。
(磁石で浮かして遊ぶのに使えないことはないけれども、方向が揃っていないので、それほど浮かないし、薄板を作ると手が真っ黒になりそうだ。)

by ZAM20F2 | 2018-10-27 07:38 | 物系 | Comments(0)

日本の報道機関の科学部について

小倉さんの本の中には、科学ジャーナリストについて考えさせられる部分がある。
前のエントリーの坂田さんの解説に関しては、湯川さんから小倉さんに私信が届いているし、それ以外にも、自然の記事に対する感想が私信で送られいてる。それ以外にも矢野健太郎さん渡辺慧さん、江上不二夫さん、玉虫文一さんなどからも私信が送られているようで、科学者と編集者の間に交流があったことが伺える。今の世の中、こんな感じの科学ジャーナリストがいる気があまりしない。まあ、科学者側の問題でもあるわけだけれども。

もっとも、極東の島国の科学ジャーナリスト、記者の数もレベルも高くはないのは昔からのようで。ソビエトが人工衛星を打ち上げた直後には

多数の新聞記者に押し掛けられた東京天文台は『全く有史以来の』混雑を呈し、台員達は応接のいとまに苦しみ安眠を妨げられ、観測にさえ支障を来しそうになったといわれる。新聞社は今まで冷遇した科学記者を見直して急に科学部を新設するなどの狼狽ぶりを示したところさえある。

中略

政府もいささか狼狽したようだ。急いで理科系学生の大増員を文教政策として発表した。 中略 科学を尊重し、人類の幸福のためにその発展を望むことはよいが、『花咲爺』のお伽話に出てくる悪い爺さんのように肥料も与えずに収穫ばかりあせっては、却って不幸な結果を生する。

という状況が生じたそうだ。その後、半世紀以上の時間がたったけれど、新聞記者の科学に対する知見は相変わらず低く、ノーベル賞の記者会見でもまともな質問が出てこないようだし、そしてまた、政府の『かけ声だけ』という姿勢もまったく変わっていない。

by ZAM20F2 | 2018-10-25 07:27 | 文系 | Comments(0)

弾圧に抗して―編集者・小倉真美の回想

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小倉真美さんは、自然の初代編集長。文系ばっかりの編集者の中央公論において科学系雑誌の自然を立ち上げた人だ。この本は回想という表題だけれども、

私・小倉真美には日記はない。日記は生活するのに不可欠なものとは思えないが、生活に区切りを付け、後日の反省素材になる効用は無視できない。しかし、それを十分承知したのに日記を書く気持ちになれなかったのは、言論弾圧の具に使われる危険性があったためである。

と回想の元となる日記が存在しないことから始まる。

小倉さんは岩波書店で書籍を担当した後に雑誌の編集を行いたく中央公論に移っているのだけれど、その中央公論と改造社は軍部と特高に目をつけられて解散させられている。また、完全に言いがかりの嫌疑で多くの人が拘束され、亡くなった方もいる(横浜事件)。
小倉さんは中央公論で「図解科学」の編集に携わり、そこには、後に「光る原子、波うつ電子」としてまとめられることになった伏見康治さんの解説も掲載されていた。
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図解科学は、中央公論の解散時に朝日新聞社に移ったのだが、小倉さんは朝日に移ることはせず戦時下を過ごし、戦後になり中央公論が再建に参加し、中央公論から科学系雑誌「自然」を発行した。
さて、その戦後の始まった「自然」は小倉さん自身によれば

『自然』は高校以上の理科系学生の基礎知識を基準に、広く科学に興味を持つ一般的知識層と研究者を読者対象とした。科学分野の本質的究明の解説を中心に、科学の進歩をはばむ障害を排除するための啓発的論文を掲載、無視されていた社会科学と自然科学の連携をはかるなど、民主日本のかどでにふさわしい意気込みで出発した。

「民主日本のかどでにふさわしいもの」と記してあるけれども、創刊号で伏見康治さんが進駐軍による理研のサイクロトロン破壊を「進駐軍の犯した非文化的措置」と書いたのがGHQの検閲に引っかかり跡形もなく削除することを要求されたことから、決して無条件の自由ではないことを感じながらの出発であったようだ。

その時代に出回っていた言説は、戦前の体制に対する反発から今から見ると過剰なものも混ざっている感じもする。
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これは、たまたま入手した戦後に出てきた雑誌だけれども、目次を見ると、自然科学というより、哲学か社会科学という気すらしてしまう。

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さて、そのような社会の流れの中で、中央公論の6月号に羽仁五郎さんが「科学と資本主義」という記事を書いている。
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小倉さんによれば、
「科学と資本主義」と題して湯川秀樹氏に対し誹謗に近い独断的論文を発表した。このため『自然』八月号に坂田昌一氏に「湯川理論発展の背景」を執筆させ、湯川氏を擁護しようとしたことが波紋をおこした。羽仁氏は社員に私を「ギャングだ」と非難したそうだが、一部の進歩的文化人の行きすぎも目にあまる時代であった。

とのことで、簡単に話を紹介すると、羽仁さんは湯川理論の発展を唯物論的弁証法に結びつけて、武谷さんや坂田さんといった弁証法を理解した人々が湯川さんから引き離された結果として中間子論が戦中に発展しなかったと主張しているのだけれど、坂田さんはアメリカからの実験物理に関する情報の途絶が理論研究の停滞を招いたときっぱりと説明している。

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羽仁氏の好きな唯物論的弁証法を理解している坂田さんの解説を掲載したことに対して、羽仁さんが小倉さんのことを「ギャングだ」と非難する正当な理由がまったく見当が付かないのだけれども、イットリウム君の発言は、こんな騒動を受けているように思えたのだ。

調べてみると8月号以降の伏見さんの記事は9月号、12月号で、イットリウム君が出てくるのは12月号である。9月号では8月号の内容を受けることは無理だから、羽仁さんと坂田さんの記事に反応するとしたら、12月号が最初の機会となるだろうと思う。


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その12月号の記事タイトルは「言葉のつまずき」。
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日常的な概念が原子の世界には通用しなくなる話ではあるのだけれど、最初の節のタイトルは「民主的な説明」第2段落を書き出すと
「戦争が終わって民主主義の世の中になりました。民主主義とは何でしょうか。それはすべての人が樹種的にものを考え、判断し、その意見を言い、行うことであると思います。他人の指図に盲従することはたやすいことですが、自分でものを考えることはむずかしいことです。すべての人がそうするためには、何よりもまず言葉づかいをやさしくして、一部の人が占有していた知識を誰でもわかてしまうことが必要でしょう。むずかしい言葉を使って学問を習うことをやめ、本当のことはもともとやさしいはっきりしたことなのですから、飾りけなしに言ったならば、誰でも真理が分かるはずです。」
このあと、気体の分子論の話が続き、それにより2原子分子の比熱の説明が可能であったが、原子の構造となると、古典的な言葉は通用しなくなり、まとめの部分で
「今日の話の要旨をまとめてみましょう。気体の分子運動論は物質構造の初期の成功の一時期を画しておりますが、そのはなばなしい成功の裏に古典的力学の崩壊がひそんでおりました。私たちは、気体運動論の自己矛盾の中に、単原子分子が回るべきで回っていない事実の中に、古典力学に代わるべき新しい言葉の体系、量子力学発生の萌芽を認めるのです。」
と述べたあとで、イットリウム君の質問が飛びだしてくることになる。

それにしても、質問者がイットリウムの理由が思いつかない。原子番号が82(羽仁)とか56(五郎)の元素だったら、「伏見先生、お茶目すぎますよ」と大爆笑なんだけれども、残念ながらイットリウムの原子番号は39。どうしても、イットリウムを選んだ理由が見いだせない。



by ZAM20F2 | 2018-10-23 07:19 | 文系 | Comments(0)

イットリウムの謎

伏見さんは驢馬電子の他に、戦前に「図解科学」に、そして戦後に「自然」に原子物理の解説を書いている。図解科学も自然も中央公論の雑誌で、編集者は両方とも小倉真美さんだ。
驢馬電子と光る原子、波打つ電子は単行本として出されているが、自然に掲載された解説は著作集にしか収録されていない。

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というわけで、著作集を買い込んで読んでいたのだけれど、次のところで思わず吹き出してしまった。

「回るはずで実はまわっていないのを止揚したのは弁証法ですか」とイットリウム君がすまして言ったのです。

これだけ見ると何で吹き出したのか分からないと思うけれども、並木美喜雄さんの解説にも
「戦後の科学評論には、哲学またはイデオロギー過剰ともいえる風潮があり、その中で武谷方法論をめぐって激しい論争が続けられていた。伏見先生が知らないはずがない。しかし、今ここでそれを詮索することはやめよう。それに戦前派の先生方は、激しい論争を続けた間柄だったとしても、私たち戦後派にはうかがい知れない友情で結ばれていたようだ-うっかりsたことはいえない。いずれにしても、その風潮の中で、「原子物理シリーズ」は哲学的・イデオロギー的用語を一切使うことなく量子力学の解説を続けてゆく、ただ一つの例外はイットリウム君の発言「回るはずで実は回っていないにを止揚したのは弁証法ですか」であった。何となく面白い。」
とあり、にやっとするところであるのは間違いなさそうだ。吹き出したのは、この解説を読む前なんだけれど、何で反応してしまったかというと、少し前に読んだ本に関係ありそうな話があったためだ。
その本のことは次回に。


by ZAM20F2 | 2018-10-21 07:16 | 文系 | Comments(0)

計算尺と関数電卓

伏見康治さんの本を古本サイトであさっていたら、「直交関数系」という本が目に飛び込んできた。復刻版もあるようなのだけれど、古本の方が安く入手できるので、適当なのを選んで京都の本屋からやってきた本は、明倫館経由だった。
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本は最小自乗に関する話から始まる。このあたり、使ってはいるのだけれど、きっちりと原理を理解していないことを改めて納得するのによい。
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細かい式は追わずに、ザックリしか眺めていないのだけれど、色々とへえとなるところがある。その中で、直接的な役に立たないけれどへえだったのが次のところ。近似式に関する話だ。

前略

sinx≒x,tannx≒x など

sinxなどの近似式は、正弦曲線を曲がりくねった曲線と思い込んでいる人からは、よほど小さいxに対してでないと使えないだろう、と誤解されそうだが、案外そうでもない。計算尺の三角関数の目盛り(S尺、T尺)が小さい方は6゜くらいまでしかないのは、6゜以下には、計算尺の制度(有効数字3桁)で、上の近似式が十分成り立つことを意味しているのである(愛用者の多くなったポケット電卓では、残念ながら、こういった目安がつけられない。)

S尺やT尺といっても、分からない人も多いと思うので、写真を掲載する。
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左側に上からTKPSという文字があるけれども、このTとSが話題のものだ。他の目盛りは使用者には当たり前なので書いてない気もするが、それもきちんと書くとT,K,A,B,CI,D,C,P,Sとなる。

本の「6゜以下には、」という部分は、S尺の最小値が6程度であることを意味している。このS尺だけれども、角度の目盛りで、その上にあるC尺の値が、そのときの正弦関数値になっている。だから、S尺の30゜のところを見ると、C尺の値は0.5となっている。
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T尺も同様に、T尺の値を角度として、そのときのC尺の値をみれば、その角度の正接値となる。C尺とD尺は1桁の範囲の数値を対数目盛で刻んでいる。A尺とB尺は2桁の範囲の数値を対数目盛で刻んでいる。それ故、C尺の目盛り値の2乗がA尺のメモリ値に対応する。逆にA尺の下のC尺を読めば、ある数の平方根が求められる。K尺は3桁の範囲の数値を刻んでいるので立方や立方根の計算に役立つ。




by ZAM20F2 | 2018-10-19 07:10 | 科学系 | Comments(0)

科学者そしてサイエンスライター(II)

 伏見さんは、「光る原子、波打つ電子」の中で波束としての電子の解説を行った後で、
「以上、話はたいへん難しくなりましたが、皆さんも一奮発して、何度も読み返して下さい。何しろここでお話ししていることは最も難しい物理学の理論すなわち量子論に関係していることなのですから、そうすらすらとわかるべきものではないのです。
今までのところをまとめて言いますと、エネルギーがEで、運動量がpであるような粒電子に、それぞれに比例する振動数ν、波数kの分散性の波を対応させて考えますと、この波の塊として電子の粒としての性質がある程度まで理解することができるということです。」

と記している。注目すべきはこの前半部分で、伏見さんが読者の努力を要求していることである。最近のグラフィカルな科学雑誌も、そして、多くの科学教室の説明も、対象者には、あまり努力を要求してはいない。科学雑誌の場合は、下手に努力を要求すると読者が付いてこなくなるとう面はあるだろうけれども、努力なしに理解出来ることは、基本的にはその人が既に知っていた程度の事でしかない。それでは、基本的には賢くなれないだろうと思う。

読者に努力を要求する一方で、それに食いついて来る人のためには、惜しげもなく物理的な考え方を伝えようとしている。例えば、

「デカルトがその「方法序説」で一つの格率として「研究しようとする問題の各々を出来るだけ多くのそうしてよりよき解決のために要請され得るかぎりの小部分に分割すること」と説いているのを、今引用するのは索強附会かも知れませんが、全体として眺めていてはどうにも手のつかない多くの物理上の問題が、その微分要素に考察を向けることによってどんなに近づき易くなるかは苟(いやしく)も物理の初歩を学ばれる方には分かるはずです。」

なんて言うのは、問題の取扱の基本的な事の一つだけれども、あんまり明示的には教えられていないことである気がする。そしてまた、

「新しい見慣れない現象に出会った時、人々のとる態度は何でしょうか。それは先ず第一に既得の知識を使ってそれを説明しようとすることでしょう。それがどうしても旨く行かない時、人々は今度は自分の知識の体系を変更しなければならないことに気付くのです。これは全く正しい生き方と順序です。その第一段の手続きを怠るならば、私どもは不断に現象の驚異に曝され、決して自然の秩序に思い至ることがないでしょう。私共は野蛮人のように、事毎に独立不覊(ふき)の神を認めて多神教を信奉するようになるでしょう。
 私は今まで物理学就中理論物理学の最前線で、どんなに古い知識体系が崩れ去って、新しい革命的思想がとって代わったかを話してきました。このような瞠目的な前進の物語をするのは、話をする方も叉聴く方も面白いには違いありませんが、それには一つの危険の冒されていることを強調しなければなりません。このような目覚ましい事件というものは要するに珍しければこそ人々の注意を集めるのでありまして、物理学全体の前進はもっと地道な生き方を辿っているのであることを充分に知らなければなりません。
 先ず大部分の新しい研究領域では、古い慣れた考え方が(その外見が甚だしく見慣れないものであるにしましても)その儘運用するのであります。私共の長い戦線からの報告は、結局「異状なし」であることが多いのであります。」

は、ものすごく大事な内容だ。なにしろ、こんな忙しい世の中になってくると、人目を引くために、見つけたことを既得の知識を使って説明する努力を省いたような仕事も発表されるわけで、それに対する警告にもなっている。

一方で、より具体的に役に立つ話もある。

「物理学者は不必要な精密ということを嫌います。問題問題に依って何が大切な肝心なものとなるかをよく知らなければなりません。会計検査官に取っては最後の何銭の桁が問題かもしれませんが、何十億円の国病予算の審議に一議員がこの最後の何銭を問題にしたとならば、私共は彼の常識を疑うことでしょう。常識の健全なる発達であります科学は、今一度言いますが不必要な精密さを嫌うものです。かかる立場にあれば「高い山に登ると太陽に近づくのに何故寒くなるの?」という子どもの質問に対して、あまりびくびくしなくてもすむことになりましょう。大気の温度分布に就いて気象学者がどういう説明をするか私は詳しくしりませんが、少なくとも子どもの疑問が無意味なものであることだけは判ります。假令ヒマラヤの山頂を極めたとしたところで、私共は太陽にいくら近づいたというのです。九牛の一毛も近寄ってはいないのです。」

なんかは、もっと具体的に有効数字という概念を感覚的に分かりそうな例を使って説明している。確かに、学生実験などを通して有効数字の扱い方は教わるわけだけれども、そもそも、何桁の有効数字で物事を扱うかは、有効数字の扱いとは別の話で、そっちの感覚も大事だと気づかせてくれる。


伏見さんは、理論家なのだけれども、実験に対する感覚もきちんと持っている印象がある。たとえば、
「『自然は真空を悪む』という言葉があります。近頃科学教育ということが頻りに問題になっておりますが、そういう論の中に「自然は真空を悪む」などという言葉はけしからん、こういう擬人的な言葉こそ凡そ非科学的で、客観的真理を記述する科学精神とは相容れないものであるという方があります。私をして言わしめて下さるものでしたら、そういう批判こそ、一知半解も甚だしいと申しあげたいものです。近頃の物理学の実験を試みられた方なら、先ず十中の八までは真空を取り扱われた筈でありますが、およそ一度でも真空を作って見られた方なら、此の「自然は真空を悪む」という言葉をつくづく身を以て味あわれることでしょう。よく言い表したものであると感心しないわけにはいきますまい。」

なんて言うのは、真空度の上がらない装置と格闘したことがある人なら実感を持って受け入れられる所だろうと思う(もっとも、最近では出来合の装置の性能が上がってしまったために、真空が上がらなくて苦労するなんて状況にも余りお目にかからないようだけれど。)。さらに、実験あるいは実験家について

「けれども実験がどんなにむずかしいものであるかを知る人は少ない。学生は大抵の場合、頭の悪い奴は実験へ廻れと教えられています。それは単に技術を習得するというだけならば或いは当たっているかも知れません。併しいやしくも独創的な仕事をしようとする人ならば充分の頭の働きが必要です。その上にあらゆる人間の徳、強固な意志、粘り、注意力、厳格、正直、思想の自由性、体力がなければなりません。此のあらゆる徳を以てぶつかって行った時、初めて頑固な自然はその秘密を私共に開いてくれるのです。」

とも記している。今の世の中、趣味の工作が廃れてしまったためか、物を扱う経験量が全体的に低下している。そうなると、出来合の装置を使って、ボタンを押せば済むような測定は出来ても、何かを作り上げて新しいことを測定するのは困難になっていく。




by ZAM20F2 | 2018-10-17 06:07 | 文系 | Comments(0)