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特別展(I)

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読みかけの本につられて、ふらふらと上野のお山に出かけた。
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出かけた先は博物館の特別展。
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入り口付近の門番さんの先には、開国以来のいろんなものが並んでいる。
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の実物を眺めると、随分といろんな元素が書き込まれている。
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それにしても不思議なのは、これらが19世紀に作られたものであること。原子論の歴史といった本を見ると、20世紀になって、アインシュタインのブラウン運動の理論が実証されて、万人が原子の存在を認めるようになったなんて記述があるんだけれど、そこまで原子を信じていなかった人は、このような元素の分別をどのように説明していたんだろうかと不思議になってしまう。


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by ZAM20F2 | 2018-12-16 19:06 | 科学系 | Comments(0)

発掘品

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冷凍庫の大掃除をしていたら出てきたミニコピーフィルム。もちろん、使用期限切れの品物。
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このフィルムを作っていた会社、
「富士フイルムおよび関連会社では、富士フイルムグループ社会貢献方針にのっとり、本業を通じた社会・地域貢献をはじめ、写真文化を守る活動、将来世代への環境教育支援や、民間企業としては初めて自然保護をテーマとした公益信託「富士フイルムグリーンファンド」設立など、幅広い社会貢献活動を展開しています。」
らしいのだけれど、ミニコピーを初めとした銀塩フィルムの扱いを見ると「写真文化を守る活動」は社会貢献の看板から外した方がよいかと思う。
モノクロフィルム自体は、写真文化を守る気のある他のメーカーから(値段は高くなったとはいえ)供給されているので入手はできるのだけれど、知っている限りで、これに代わるフィルムは存在しなくなった。超軟調現像での画像も悪くないけれども、科学遊びをしたい普通の人が光の回折実験用の二重スリットを手軽に作ったり、簡易なフォトレジストマスクに使えるフィルム。デジタル化で出来るようになったことも多いけれど、出来なくなったことも確かに存在している。
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by ZAM20F2 | 2018-12-10 07:47 | フィルム | Comments(0)

読者のその後

前のエントリーの本は、奥付きによると昭和28年の発行だ。7月初旬には発行されているので、夏休みには間に合うタイミングだったようだ。
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この本、蔵書印があった。
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持ち主はM.FUKUDAさんだったようだ。本には、他の手がかりも少しばかりあって、おいくつぐらいの方かも想像ついたので、この本の持ち主だった方のことを想像で描いてみたいと思う。

Fさんは昭和17年頃の生まれ。出身地は分からないけれども、東京の小学校に通っていて、この本を手に入れたのは小学校4年生の時。夏休み前に手に入れたので、随分と夏休みに眺めて、本の表紙が外れかけてしまったようだ。前のエントリーで本の左側に白い部分があるけれども、これは補修のために貼られた紙で、その上から4年生の時のクラスと名前が裏表紙に書いてあるので、間違いないだろうと思う。

昭和28年といえば、高度成長以前。都市部のサラリーマン家庭では、子供の科学を定期購読して、誠文堂新光社の新刊を知ることも出来たろうけれども、農村部では、まだまだ現金収入は乏しく、子供にこのような本を買い与えることは少なかっただろうと思う。それに、エナメル導線なんかも、そこらでは売っているものではなく、科学教材社の通販はあったと思うけれど、今みたいに、画面で見て、ポチれば済むような気楽なものではなかった。Fさんがこの本を手に入れて、工作もできたであろうことは、都市部に住んでいたからこそだと思う。


その後、6年生の時のクラスが書いてあって、さらに中学生の時のクラスが書いてある。この本は愛読書で、だんだんと複雑なものまで作るようになったのだろうと推測できる。

小学4年の時にはラッションペンのようなもので名前がかいてあるけれども、中学生になると万年筆の文字だ。昔は中学生になると万年筆というのがよくある話だったなぁとしみじみと思う。今は、万年筆なんていうのは趣味の筆記具で、妙な懐古趣味のボディーが流行っているけれども、昔は万年筆は実用品で、年々スタイリッシュな格好へと変化していくものだった。

その後、Fさんは大学の工学部に入学して、そして学部を卒業して誰でも名前を知っている弱電系家電メーカーに就職した。
今でこそ、理工系は大学院の修士まで行く人が多いのだけれど、Fさんの大学卒業はオリンピック前のこと。修士なんかに行ってしまうと、企業が雇ってくれなかったような時代だと思う。

山北さんも芝浦製作所の技術者だったわけで、その山北さんの本が愛読書だった子どもにとっては、きわめてまっとうな進路だと思う。

その後は技術者として、極東の島国の工業の発展に貢献されたのだろうと思う。Fさんのような多くの技術者がいたから、ハードウェア関係の工業の発展が可能だったのだろうと思う。

昭和28年から60年以上たった今、小学生向けに、電磁石やモーター作りを唆す本は知っている限りでは新刊で存在しない。一方で、小学校程度の子供でも、プログラムを独習できるような情報環境は存在しているとは思う。子供を取り巻く環境の変化は、これからの技術者にどんな影響を与えるのだろうか。






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by ZAM20F2 | 2018-12-07 08:15 | 文系 | Comments(0)

電気模型と工作

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誠文堂新光社から出ていた山北藤一郎さんの本。対象は小学校高学年から中学生くらいではないかと思う。
まず電磁石が出てくる。
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これは、確かに小学生でも作れそう。
続いて出てくるのは電鈴
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そして電流計
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これは、意表をつかれたけれど、電流計の原理を理解するのにはよい工作だと思う。

モーターと続いていく。ただし、このモーター、磁石は使わずに電磁石で動かすようになっている。
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このあたりまでは、普通なんだけれど
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変圧器となると、作るのは良いけれど、何に使うんだという気分になってくる。
ちょっと面白いのは磁石を使ったモーターがこの後に出てくること。
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今の感覚からすると電磁石を使ったモーターはなく、こちらだけなんだけれど、それは、磁石が発達したためなのかなとしみじみする。
その後、発電機が出てくるまではありかなとおもう。
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でも、火力発電機となると
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ボイラーも必要なわけで、水力発電はその点は安心だけれど、
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それでも、工作はらくではないと思う。家中を水浸しにしなければ良いのだけれど。
そして最後は電源装置。
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ここまでたどり着いた子はどのくらいいたのだろうか?


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by ZAM20F2 | 2018-12-05 08:36 | 科学系 | Comments(0)

結晶→ネマチック相転移

結晶からネマチック相への相転移。
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見た目組織がそのままだけれども、結晶ではぎざぎざだったドメイン境界がなだらかになっている。模様がそのままなのは、ネマチック相でも分子長軸の方向が結晶と同じためだと思う。
これは、少しばかり極端な感じで、ネマチック相になると結晶とは異なった文様になることもある。
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by ZAM20F2 | 2018-11-13 07:18 | 液晶系 | Comments(0)

SmA扇形組織

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by ZAM20F2 | 2018-11-11 12:22 | 液晶系 | Comments(0)

ネマチック→等方相転移

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こちらは解けていく過程
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by ZAM20F2 | 2018-11-07 06:53 | 液晶系 | Comments(0)

等方相→ネマチック相転移

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by ZAM20F2 | 2018-11-05 08:09 | 液晶系 | Comments(0)

文系と理系の研究スタンスの違いについて  -あるいは、文系の議論が罵りあいになりがちという伝聞について-

前のエントリーでは、定量データの統計比較による文系の研究が、
(観察)→仮説→検証
というプロセスを経て、仮説が結論に出てくる文系の研究プロセスではなく、
研究動機→データ→解析→結論
という、理系でも納得できる、理系の普通の研究で馴染みのあるプロセスで進行していく例がある話をした。
前のエントリーで取上げた本と、普通の理系の研究で共通していることは、観察や実験結果などから、新しい知見を得るということで、その新しい知見に興味を持つことが、研究動機となることを考えると、上記の研究プロセスは極めて自然なものである。

そうなると、逆に、文系の仮説→検証と称する研究プロセスが、どのような理由により生じてしまうのかが不思議になる。理系の端くれとしては、この不思議さを動機にデータを集めて解析しないといけないのだけれども、そんな気力も暇もないので、ここは、文系の研究スタイルである、(思いつきの)仮説→(適当な論拠による)検証というプロセスで議論を進める。

このスタイルを引き起している理由として、「文系の研究の目的が、世界に新しい知見を加えることではなく、新しい考えを示すことであることが、文系の研究スタイルを生み出している。」という仮説を提示したいと思う。この仮説は、別の言い方をすると、理系の研究の大半は、クーンの言うパラダイムの中で行われているのに対して、文系の研究は(部分的にでも)パラダイム変換を意図するものである点が違うという言い方ともなる。

パラダイムのことを適当に説明すると、ある事柄に対する、その集団の共通となる考えといったものである。例えば、19世紀の物理学では力学と電磁気学などの古典力学がパラダイムであった。ところが、黒体放射とか、原子からの発光はど古典力学では説明できない事象が発見され、25年ほどの歳月をかけて量子力学が形成され、これらの現象をりかいするための共通となる考えの変更(パラダイム変換)が生じた。パラダイム変換の途中ではボーアの原子模型のように、古典力学のは反する考えを含んだモデルが、その不完全さにもかかわらず、提案されている。
自然科学におけるもう一つの例として、大陸移動説を上げることができる。これは、アフリカと南米の海岸線の形状が類似するといったことから提唱されたが、提唱時には、移動機構の説明はまったくされておらず、学会の主流には受入れられない仮説であった。しかし、その後にマントル対流という移動機構が考えられるようになり、復活を遂げている。
これら2つは後に正当性が確かめられたような事柄であるが、自然科学においても、東日本大震災で無力を晒したアスペリティを使った地震の説明のように、集団幻想としか思えないような事柄も存在する。

理系におけるパラダイムの例を挙げたのは、理系においてもパラダイム転換期には、観察事項の重要性の判断基準や解釈が、用いるパラダイムにより大きく異なることがあることに注意して頂きたいためである。別の言い方をすれば、異なるパラダイムにのっかっている研究者の間では、議論が原理的にかみ合わない状況が生じうる。

さて、文系の研究に戻ってくると、彼らの研究がパラダイム変換を目指すものである以上は、それ以外の研究者との間で、議論を行うことが困難であることは十分に理解できる。何しろ、異なるパラダイムに従って、事実の重要性を判断するから、論拠とする事実が互いに異なるだろうし、同じ事実を扱っても、解釈が正反対になることだってあり得る。また、自分の議論に対して反例となりうるような事実は、例外とか、重要性が低いといって取上げなくてもかまわない。なにしろ、パラダイム間の喧嘩なのだから。

このため、文系の研究者が、論争相手に対して、「あなたの考えは間抜けだ」と言うのは、「おまえのかーちゃんでべそ」という程度の意味となる。相互に判断基準が違う以上、両者に共通の間抜けさは存在しないから合意は不可能だ。あとは、罵りあいが待っている。

一方、理系の研究者が「間抜けな考え」という場合には、けっして、相手の「かーちゃん」の事は考えておらず、言っていることが、本当に論理的に駄目だと思っている。表面的な言葉は同じでも、それが意味するところは全く違っているのだ。

この違いを認識していない理系の研究者が、文系の研究者と話している時に相手の発言について「間抜けだ」発言をすると、人格攻撃と捕えられてしまうことがある(人格攻撃と捕えずに、間抜けなことを言っていると反省してもらいたいものなのだけれど。)。文系の人間と会話をする時には、相手は共通となる論理基盤の持ち合せがないことを意識しておいた方がよい。

文系の研究者の場合、互いに異なるパラダイムを持っているので、相互の感情がこじれた場合には、客観的な相互批評は不可能となる。そうなると収拾がつかないから、大人の対応としては、相互に、査読無しの論文を通す状況になりうることも理解はできる。また、文系の研究者が、事実背景なしに、思いつきで、面妖なことを主張するのも理解はできる(何しろ、それは、彼らにとって、これから、恣意的にでもデータを集めて検証する仮説であり、その主張は普通の行動だからだ)。

というわけで、文系の研究が、新しいパラダイムを言放つことを目的とするという仮説を考えると、彼らの行動パターンが理解はできる。

この稿では文系の研究手法の是非を問うつもりはない。ただ、そうした研究手法が「科学」かと言われると、それは違うと言って良いだろう。そして、間違えても、高校などの課題研究の指導書で、理科系の研究にまで文系手法を持込むようなまねはしないで欲しい。
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by ZAM20F2 | 2018-10-31 07:07 | 文系 | Comments(0)

そうなると思う

歴史は実験できるのかというタイトルと、自然実験が解き明かす人類史という副題につられて買い込んだ本。
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英語の現代は「Natural Experiments of History」で概念としては、ダーウィンがガラパゴス諸島で、様々な動物の分岐を観察して、進化論へと進んでいったのと同様に、様々な歴史的発展を比較考察することにより、歴史の発展に関する知見を得るという研究の進め方の研究を幾つか寄せ集めたもの。そういう意味では
「歴史は実験できるのか」とか
「自然実験が解き明かす人類史」
なんてい言い方より

「複数の発展事象の定量的統計比較による歴史発展の検討」

と言う方が内容を正確に反映していると思う。

社会科学の本になるけれども、普通の文系の本のように
(観察)→仮説→仮説の検証
という筋道にはなっていない。その代わりに検討したいこと、その動機が語られ、その上で、データに基づいた分析が行われ、分かったことが記述されている。この流れは理科系の研究者にとっては容易に受け入れられるものだ。適当な仮説を提示され、恣意的に集められた証拠と称するようなものにより仮説が検証されたと主張されるのより、遙かにきちんとした方法を用いた仕事である。

これまで、文系の研究における仮説の意味についてのエントリーを書いており、文系の研究手法は理系のものとはまったく別のものであると思っていたのだけれど、文系でもまっとうな科学的手法による研究を行えば、仮説→検証ではなく、理系の普通の論文と同様の構成になるのだと納得している。

そういう意味では興味深い本で、アマゾンのレビューでも高評価なのだけれども、訳文は私にはとっつきにくかった。まあ、英語のレビューでも、

Tough read

なんていうのもあるくらいだから、原文(あるいは内容理解)にしても、楽に読めるものではないのは確かなのだけれども、

Traditional historians will thus find the approach of the first four studies in this book familiar in that they develop evidence in a narrative style, compare small numbers of societies, and do not present statistical comparisons of quantitative data in the text. The approach of the remaining four studies differs from that of most traditional historians but will be familiar to some historians and to scholars in related social sciences, in that they are explicitly based on statical comparisons of quantitative data and they compare many societies.



従って従来の歴史学者は、本書の前半で紹介する4つの研究のアプローチに親近感を抱くだろう。ナラティブに話を進めながら証拠を見つけ出した上で、少数の社会を比較しており、テキストの定量データを使った統計比較は行われていない。後半の4つの研究アプローチは従来の歴史学者や定量分析に明るい研究者の一部は馴染み深い印象を受けるだろう。定量データの統計分析をどだいにしながら、多くの社会を比較している。


なんて訳されると、まず「ナラティブ」のところで頭を抱えることになる。業界人にとっては、わかりきった用語なのかもしれないけれども、あの表紙で帯に「銃・病原菌・鉄」を持ち出しているからには、もっと広い読者層を想定しているはずだ。その相手に「ナラティブ」をそのまま使うのは、いかがなものかと思う。実際、上の文をgoogle翻訳にかけると、

したがって、伝統的な歴史家は、この本の最初の4つの研究のアプローチが、物語の形で証拠を展開し、少数の社会を比較し、テキストに定量的データの統計的比較を提示しないことを見いだすであろう。残りの4つの研究のアプローチは、ほとんどの伝統的な歴史家のアプローチとは異なりますが、定量的データの統計的比較に基づいており、多くの社会を比較するという点で、関連する社会科学の学者や歴史学者にはよく知られています。

と「ナラティブ」を「物語の形で」とちゃんとした日本語に訳してくる。これは、ナラティブの用例が少ないためだろうと思う。

個人的に、どんな具合の日本語ならなじめたかというと

最初の4章は物事の記述を通して根拠を積み重ね、少数の社会の比較を行っている。定量的な統計処理は行われておらず、従来の研究手法を行う歴史学者にとってもなじめる手法であろう。残りの4章の方法は従来の歴史学者の手法とは異なったものだ。多数の異なる社会を統計データを用いて定量的に比較検討しており、このような研究手法を用いている関連分野の研究者や、一部の歴史学者にはなじめるものであろう。

ぐらいかなと思う。


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by ZAM20F2 | 2018-10-29 07:03 | 文系 | Comments(0)