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読んでなかった……

ひさし振りに読み返そうと本棚から発掘した本。
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分かったことは、まともに読んでいなかった……
何で読み返そうと思ったかというと、最近読んだ
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の内容が記憶とは随分と異なっていたため。
で読み返した結果、本の最初の部分しか目を通していなかったらしいことが分かった。
上の本、タイトルからは、文系と理系の相互不理解を扱った本で、最初の方は、そんな内容なのだけれども、後半部分になると、技術官僚により効率的に運営される政府という方向の話になっていく。科学の負の面が、それほどあらわではなかった頃の楽天的な考えの先にある話で、下の本は、後半部分を巡る論争の話。対立は、文系と理系というより、文化と文明の対立という印象がある。この視点、今でも対立が続いている気がする。
by ZAM20F2 | 2019-12-11 05:21 | 文系 | Comments(0)

そっちもデタラメか:にわか地震談義

南海トラフ地震の30年確率が80%という発表がなされているけれども、その数値に科学的根拠が存在しないという話が中日新聞に掲載されているそうだ。

早速眺めてみると、確率の計算根拠が他の地震と違っていて、同様の手法で計算すると20%程度にしかならないのだそうだ。ただ、それを発表してしまうと、南海トラフ地震への備えが疎かになるというので、かつて発表してしまった数値を死守しているらしい……。

今週は公共放送が首都直下地震週間とか称して、あたかも高い確率で東京都心部で直下地震が生じるような映像を流しているらしいけれども、少し前に記したように、首都直下地震の70%が、どう考えても科学的根拠皆無な話だし、その確率ですら、房総沖まで含めての話。東京新聞あたりが、中日新聞に倣って、くずな話であることをきちんと報道してもらいたいものだ。それにしても、公共放送、全うに科学的なことを扱える人材は皆無なのか。無批判に70%を受け入れることといい、大科学実験の反科学性といい、番組作成、報道系には、理系の人間を1人も雇っていないのではないかと疑いたくなる。

ついでに、中日新聞の「南海トラフ地震の確率予想のみ特別な方法」というのが本当なら、他の地震の確率は、どこにあるか分からない断層をもとに、適当な期間をとってのポアソン分布から求めていることになる(何しろ、首都直下地震に使われている手法がこれだから)。それって、すべての確率が科学的に屑っていう話になるのだけれど、思わず、他の確率をどうやって計算しているのかを調べなければという気になっている。


by ZAM20F2 | 2019-12-05 07:41 | 文系 | Comments(0)

草稿:観察すること

「見てはいるけど観察していない。そこだよ。」
これは、ベーカー街の2階に上がる階段の段数をワトソンが答えられなかった時のホームズの科白だ。観察することが単なる目視とは質的に異なるものであることを示唆しているけれども、何がどのように違うのかは、このやりとりだけからは理解出来ない。

ホームズは別の場面で「探偵術に最重要なのは、数ある事実から周辺のものと本質とを見極める能力です。」

とも言っている。周辺と本質を見極める部分がまさに観察に相当する部分で観察は論理的推論を行う基礎となるものであることは確認できるのだけれども、ここでも、観察自体がどのようなものであるべきかは示されていない。

「観察」は推理や研究の開始点に関わる事柄ではある。しかしながら、意味のある観察を行うためには、観察を行う時点で、何らかの価値判断基準がなければいけない。そうでないと、視野に入ってくる画像から何を抽出すべきかが定まらない。

では、何を知っていなければいけないかと言うと、幅があり、一つの観察対象についてさえ、一概に言えない。

例えば、液晶のシュリーレン組織と言われる文様は、初めて見る人にとっては、美的判断の対象とはなっても、科学的な意味が想像つかないものだろうと思う。
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黒い領域が細くなって、点で交差するように見える場所は、液晶中に存在する欠陥構造で、液晶の入門書の多くには、点の回りで液晶の細長い分子がどのように並んでいるかと、何故2本か4本の黒い領域が点で交わるのかの説明がなされている。液晶の入門書の知識を持って文様をみれば、科学的な意味が理解出来るようになる。知識がない状態とは異なった風景として認識できるようになる。
けれども、最初にこのような文様を観察した人の時代には液晶の入門書は存在しなかった。それ故、液晶の欠陥に関する知識無しに文様を眺めて、そして、欠陥の存在に気がついたはずである。入門書の内容は、そうした研究者が観察を通して理解したことの結果を記したものなのである。
そう考えると、液晶の並び方に関する知識は文様理解のための必要条件ではない。光学的異方性を持った物質が偏光顕微鏡でどのように見えるかさえ知っていれば、文様を引き起している状況を解明できるはずだ。

ところが、この必要最低限の知識を持っている人でも、文様の意味を読み解くのが困難である場合が少なくはない。ある人にとっては、必要十分である知識が、別の人にとっては、十分な知識とはならないのである。

両者の違いは知識の活用の仕方にあるように思える。偏光顕微鏡下で暗くなる領域では細長い分子は、一方の偏光子の軸と平行か垂直方向に向いている。従って、90度の方向の不確かさはあるけれども、暗い領域での分子の向きは仮定できる。暗くないところは、それ以外の方向を向いているので、それをつなぎ合わせれば向きの分布図ができる。

例えば、4つの領域が集る点の回りの分布を考えると、分子の向きが放射状に分布している可能性や、途中で斜めを向くけれども、元に戻るような分布である可能性が考えられる。上の写真だけからはどちらであるかは決定出来ないけれども、ステージを回転すれば、放射状なら黒い領域の方向が変らないのに対して、もう一つのパターンだと変ることになるので、区別は可能となる。

液晶の組織観察とは、見えている文様が何故生じているかをステージを回転したり、位相差板を入れたりして検討していく作業だ。見えている文様から、それを作り出している構造を解明するというのは、まさに後ろ向き推論の作業である。

こうしてみると、今の場合の最低限の知識で行う観察には、(後ろ向き)推論能力も必要ということになる。逆に、液晶の並び方や欠陥についての知識を持っているなら、前向き推論のみで文様の理解(確認)が可能である。

無謀は承知の上で言うなら、未知の事柄の理解を目的とした観察では、後ろ向き推論との組み合わせが必要となる。見えたものが何故そうなっているのかを原因を遡って思案し、その原因から予想される兆候の有無を新たな観察対象とする。見るべき事柄が分ることにより、漠然とした文様が意味をもつ情報へと転化する。

見るべき物が分っている必要があることについては、別の事例がある。昔、器機の整備をしていたとき、一緒にやっていた人にケーブルのコネクタへの接続を頼んだら、途方に暮れられてしまったことがある。
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理由を尋ねたら、どの向きに差込んで良いのか分らないというので、よく見るように言ったのだけれど、やはり身動きが取れていない。改めて理由を尋ねると、4本のピンが正方形の頂点にあるので、向きが定らないという答が戻って来た。確かにピンは正方形の頂点にあるのだけれど、その外側の円周部分には一箇所の切込みがある。切込みが見えるか見えないかは、ガイドとなるものを探そうとするか否かによっている。

見る物が定っていないと見えない一方で、見る物が定っていると、存在しない物を見てしまう危険性がある。ホームズの

「データなしに理論を立てるのは、致命的な誤りだ。無意識のうちに、事実と符合するべく推理するのではなく、推理に符合すべく事実を歪曲することになる。」

という科白は、この点を正しくついている。思い込みのために、見えているものを正しくなく解釈していたという経験の持ち合せは多くの人にあるだろうと思う。予断がなければ観察は不可能だし、予断があると誤った観察を行う危険性がある。

この点、観察の熟達者は、多様な予断を元に観察を行うという芸を行っているように思える。ホームズの科白にも、

「常に別の可能性を探究し、それに備えているべきなんだ。」

「間違いなくまっすぐに一つのことを示すように見えても、少し観点をずらすと、同じように妥協の余地なく何かまったく別のことを示していることがわかるかもしれない。」

「僕は七通りの説明を考え出したが、そのどれもが僕たちの知る限りの事実に当てはまる。しかしそのどれが正しいかは新たな情報によってのみ決定されるものだし、それがきっと僕たちを待っていることがわかるだろう。」

といったものがある。七通の説明を考えていれば、七通の方向から物を見ることが可能になる。一つの視点から物を見ることに比べると、死角は少なくなると期待できる。熟達者は、最初から一つの可能性を考えていたかのように見える場合でも、おそらくは、短い時間の間に多様な可能性を考えた上で、その時点での観察から、絞り込みをした結果を提示しているのではないかと思う。そして、その予断を元に、必要に応じて、さらなる観察を行う。

観察するためには、多様な可能性を考える想像力が必要なのだ。


最後に、ここまでの話に押込められなかった事態をややこしくする可能性の問題を付け加える。ここまでの議論は、人は同じように物を見ていることを暗黙の前提としている。しかしながら、この前提は、おそらくは正しくない。視力や色覚の個人差もあり得るけれど、ここでは、その後の過程が関与するであろう事象を取り上げることにする。

世の中には「映像記憶」を持っている人がいることが知られている。この能力を持っている人は、見た物を一瞬で記憶して、後に細部まで再現できる。もし、ワトソンがこの能力を持っていたなら、ホームズから聞かれた後で、映像記憶を引きずり出して階段の段数を正確に答えられただろうと思う。

映像記憶は極端な例ではあるのだけれど、個人的な経験の範囲で人が物を見るときの視点が関係していそうな事例を経験している。
一つは、装置の描き方で、上手なスケッチで描くのだけれども、その部分の機能を理解していない人もいれば、部分の機能を重視して、結果として全体のプロポーションがおかしな状態の図となる人もいる。これは、純粋な映像記憶により近い感覚として物体を形態として捉えられるか、映像記憶からは遠いところで、意味や機能として把握するかの違いが関係している気がする(もちろん、機能は理解した上でスケッチが上手な人も存在する。ダビンチのように。)。

もう一つは絵を描くときと写真撮影の違いだ。知合いのデザイナーは絵は上手に描くのだけれど、写真撮影では、フレームの切り方がおかしいものを量産するらしい。一方、私はというと、絵は彼に遙かに及ばないけれども、彼の評価としては、彼よりはまっとうな写真を撮影できるようだ。どこまで一般論として成立するのかは分らないけれども、物の見かたが何か違っているのだろうと思う。

また、深視力や動体視力と言われるものも単純に光学系やセンサーを越えた部分に係わる可能性のある事柄で、この点でも見えるものには個人差があるだろうと思う。

物の見方や見え方が違う人間が、同じ対象を観察したとしても、そもそも見えているものが違うのだから、それ以外の背景知識などが同じでも、そこから得る情報は、おそらくは、異なっている。もちろん、見る以外の聞くや嗅ぐ、味わう、触るについても感じ方の個人差があり、見ることと同様の事が生じる。このような理由で観察結果に違いが生じている場合には、結果の違いは、対話により検討できるが、何故違ってしまったかを解き明すことは非常に困難だろうと思う。




by ZAM20F2 | 2019-12-01 06:50 | 文系 | Comments(0)

ピンセット先端

前のエントリーのピンセットはいずれも無鉤のもの、医療用のピンセットは先端に鉤がついているもの(有鉤)もあるのだけれど、ガラス板を挟むのには鉤は邪魔になる。無鉤の方は、先端の内側がぎざぎざになっている。普通に、その辺りで売っているピンセットと同じあ。
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これは外科ピン
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ポッツスミス
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セムケン。

下は斜めから見たもの。順番は上と同じ。
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by ZAM20F2 | 2019-11-24 08:47 | 物系 | Comments(0)

すり減っている?

長らく使っているピンセット
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幅1cmくらいの幅に切ったスライドガラスや透明電極ガラスを側面で挟んでセルを組み立てるのに使っている。
最近滑りやすくなった気がして、先端を眺めてみた。
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なんか、すり減っている気がする。というわけで、その後に買った同じ名称だけれど、出來が悪い気がする品も調べてみることにした。こちらは使用頻度が少ない。
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本体の形状も微妙に違うのだけれど、
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先端の凸凹のピッチも違っていたのを初めて知った……
by ZAM20F2 | 2019-11-20 05:58 | 物系 | Comments(0)

半分正しい

本は生ものなので見つけた時に買っとかないと手に入れるのが困難になる。
もちろん、乾物となった本もあるので、そういう物は、長らく棚に並んでいるので、慌てて買う必要はないのだけれど、習性として、すぐに必要ではなくても、とりあえず買い込んでしまうことがある。

これも、そんな感じで入手した一冊。本屋で眺めてたら買わなかったかもしれないけれども、とりあえず、注文してしまったもの。
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出版元は、なんとMITプレス。

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そして本のタイトルは
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というわけで、科学者や技術者向けの写真撮影の本。

ザックリ眺めただけなんだけれど、半分ぐらいは必要なものかなとも感じる。フィルムカメラの昔には、結構多くの人が一眼レフなんかを持っていて、そうなると、少しは知識がないとまともに写真が撮れないわけで、某大学の学部の学生実験でも、写真撮影なんてのがあったらしい。

デジタルカメラとスマートフォンの世の中になって、レンズ交換式カメラを持っている人は随分と少なくなった。そして、日常的な写真は、特別な技術がなくても、すてきに撮影できるようになったため、某大学の学生実験でも写真撮影なんかはやっていないのではないかと思う。

その結果として、学会発表などで映される写真の中には、結構と技術レベルが低くて見苦しいのが出てきている。その点、この本は絞りと被写界深度の説明やら、
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スキャナーを使って画像を作り出す芸など、写真撮影に経験のない人に役立つ情報が含まれている。
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その一方で、デジタルカメラになって、見た目の華々しい凝った写真を出してくる人々も出現している。もっとも、これは写真に限った事ではなく、妙なポンチ絵が論文誌の表紙を飾る世の中になっているので、そこに掲載されることを目指して写真撮影する研究者が出現するのは当然の成り行きなのだけれど、それって、研究内容の深化には関係のない努力であって、本来の研究者の仕事ではないだろうと思う。

というわけで、この本、半分は正しい。でも残りの半分は科学の発展を変な方に導くガイドでもあるように思える。

by ZAM20F2 | 2019-11-03 07:25 | 文系 | Comments(0)

その確率意味がない -にわか地震談義その後-

ベイズ統計の話を読んでいたら、原発事故のように、頻度が少なく普通の統計手段を使えないものの確率計算にベイズ統計が有効な手法を与えるという話があった。東京圏の地震確率として30年で70%という大きな数値が発表されているけれども、頻度統計ではこの数値が出るはずがないので、ベイズ統計を使っているに違いないと、ベイズ統計の実際のやり方を学ぶためにもよい題材になりそうだと思って少し調べてみた。

そして、途方にくれて、意味のなさにあきれ果てている。

個人的には、あの確率は、何らかの断層を考えて、その活動周期などから求められたものであろうと思っていた。関東地方に関しては、大正関東大震災から既に100年ほど経っているけれども、あの地震の周期は200年以上はありそうなので、今後30年での発生確率は低そうだし、発生したとしても、歪みのチャージが足りていないから、マグニチュードは少しだけ低めになるだろうと思う(関東大震災の7.9が7.7になる程度だけれど)。あの震源だけでは70%はたたき出せないので、他の震源を想定しているのだろうけれども、それが何で、どのような理由で70%になるのかを知りたかった。

ところが、実際には、70%の計算には既知の断層は一切使われていなかった。ではどうやっているかというと、関東である期間でのM7クラスの地震の平均周期が約30年で、それがランダムに発生するとして、今後30年以内に70%になるという論理であった。

平均周期が約30年であるのは、まあ許すとして、それがランダムに発生しているかは決して自明ではない。東日本のあとに、一部の地震学者は、日本列島が地震の活動期に入ったと危機感をあおっていたけれども、それが本当なら、地震はランダムに起きるのではない話となる。活動期を主張した人々は、70%では足りないとか声を高くして叫ぶべきだ。

ところで、平均周期は、元禄関東地震から大正関東地震までの間を元に計算しているらしい。平田氏によると、明治期から現在までで平均をとっても、同等の数値になるので、ランダムに起こっているという仮定で問題がないと主張しているけれども、その本の中にある地震の発生時のタイムラインを見ると、とても正気とは思えない主張である気がしてくる。
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図は平田氏の「首都直下地震」からの引用。みての通り、元禄関東地震後はM7クラスの地震が少なく、100年後に1発、150年ごに連発して、その後、大正関東地震までに頻発して大正関東地震に至っている。そして、大正関東地震後には、また頻度が落ちているように見える。

地震が地殻の歪により生じることを考えると、この傾向は、関東地震により、大きな歪が緩和されたため、その後、しばらくの間は地震がおきないけれども、だんだんと歪みがたまって、地殻の弱いところが、まず壊れて地震を起こし、さらに歪みがたまると、複数箇所で地震が起こって、最後に全体が動くというふうにも解釈できる。この考えが正しければ、とりあえず、70%よりも、確率をもう少しは下げても良いような気がする。

そもそも、地震のメカニズムから考えて、地震が生じない期間が長くなれば長くなるほど、その地域で地震が起こる確率は高くなるべきだ。ところが、現在の予測方法による値は、時代が経っても変わらない。何しろ、元禄地震から大正地震までの固定データを使っているからだ。これは、明治から現在までのデータを使うと、地震が起きずに日が経つにつれて、平均地震感覚が伸びてしまい、確率が下がって行くためであろうと思う。こうなったら、提示された確率が無意味なものであることは、普通の人の目にも明らかになってしまう。

そしてまた、70%の確率で地震が起こるという指定範囲が広すぎるという問題もある。
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首都直下型地震というと、人々は東京直下で起こる地震を思い浮かべると思う。でも、上の図に示されているように、70%の中には房総半島の沖合の海中で起きる地震も含まれている。その地震で被害が皆無とは言わないが、東京に壊滅的な被害が生じるとは考えにくい。なお、東京に壊滅的な被害を与える地震の震源としては、東京湾北部が主張されていたけれども、その後に、そのあたりでは地震が起きそうにないという話になって、それまで候補としては存在すらしていなかった、東京南部で地震が起こるという話になっている。まあ、「科学者の理解はいつだって間違っているから科学は進歩し続ける(辻まこと)」わけだけれども、震源位置の想定は関しては、間違いから間違いへの変化という気がしてしょうがない。

阪神淡路大震災のことを思い出せば分かるように、M7クラスの地震の被害範囲は必ずしも広くはない。だから、東京に壊滅的な被害を与える地震については、23区地下程度に震源を絞って議論した方がよい。でも、その値を彼らは導き出せないから、ご都合主義的な範囲とモデルで、人々を恐れさせ、地震研究に金を出させるような値を出しているのではないかという気しかしない。学者としての良心を持っているのか疑問に感じてしまう。

最近の報道でも、この結果を考慮して検討すると、地震時の避難住宅が最大で16万戸不足するなんて話が流れていた。そもそも、最大で16万戸の不足を生じさせる地震の震源地は仮想のもので、現実にそこで生じるかは誰も知らない。その誰も確証をもてない震源をもとに被害想定をするのは、ナンセンスきわまりない話だ。

70%は意味がない数値で、16万戸の住宅不足を引き起こす震源が架空のものだとするなら、安心して暮らせば良いのかといわれると、微妙なところだ。被害をもたらす地震は、予知連の示す確率の低い地域で生じるという、ここ何度かの震災に関する経験則に従えば、首都圏は安心である。

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しかしながら、上の図に示すように、東京近辺には、周期が不明で、いつ動いたか分からないような活断層と思われるものがある。予知連はそれらの断層が地震を起こす確率が低い、あるいは不明としているので、かれらの示す確率が低い領域で地震が生じるという経験則よりは(科学的根拠はないにしても)、それらが動いて災害を引き起こすことは十分に注意しなければならない。それらが、東京の下にどのように潜り込んでいるかは分かっていないと思う。それらの一つでも動けば、壊滅的な被害が生じる可能性があり、16万戸どころではない仮設住宅が必要となる。
最近構築された建物は震度7には耐えるような設計にはなっているかとは思う。でも建築屋さんの震度7に耐えるは、倒壊しないという意味で、内部の配管などの破損により居住できなくなる危険性はある。タワーマンションというのは一棟で1000人単位の避難民を作り出す構築物なのである。そんなのが林立している場所で破壊的な地震が生じたら、目も当てられない状況が出現する。

個人でできることもあるのだけれど、それ以上に居住用もオフィス用も含めて、ある階数以上の建物にはもの凄く税金でもかけて、より広い地域に人々が分散するように仕向けた方が、震災には強い地域になるのではないかと思う。


by ZAM20F2 | 2019-10-27 10:36 | 科学系 | Comments(0)

コレステリック 指紋状組織

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いわゆる指紋状組織なんだけれども、やたら丸まっている部分が多いのが面白い。
by ZAM20F2 | 2019-08-11 09:01 | 液晶系 | Comments(0)

責任者

このブログ、幾つかのエントリーは継続的にアクセスがある。
一つはカッターナイフの安全に関するもの、それから、プリズムの分光の作図に関するもの、そして、イカと液晶の関係に関するもの。
イカと液晶については、話の出所として、足立さんの本を上げていたのだけれど、足立さんの本の話は、コレステリック液晶を使ったいわゆるTN液晶とは異なる新原理の液晶の話だった。
イカと液晶の話を方々でしていたら、大昔のパソコン雑誌で見たことがあるという人が現物を持ってきてくれた。
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1989年なので、足立さんの本よりは後だけれども、足立さんの本と違って、パソコン少年の目に触れる機会は多かっただろうと思う。
ディスプレイの不思議という特集記事の表紙に、イカが使われているあたりから、なんとなく内容が想像できるのだけれど、本文を見ると
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とまだまだ液晶ディスプレイが一般的でないことが分かるけれども、記事の見出しが「液晶はイカでできている!?」と、なかなかとんでもないものになっている。少し下を見ると
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という具合で、液晶ディスプレイに化学合成された物質が使われるようにはなったけれど、それ以前はイカが使われていたと理解できる作りになっている。
対象はTN液晶なので、このあたりが、普通の液晶ディスプレイにイカが使われているという話の起源かもしれない。

by ZAM20F2 | 2019-08-04 07:48 | 液晶系 | Comments(0)

見つけた

科学の学校「にじ」は少し前までは国会図書館にも全部は揃っていなかった。5月号に関しては、マイクロフィルム版は存在しているのだけれども、モノクロ画像のために表紙の色がどうなっているのかが想像つかなかった。
「にじ」は中々古本屋には出てこない。もっとも、人気がないので、出てきても1000円程度で済むので、出てきさえすれば入手は困難ではない。
この前、5月号が出ているのを見つけて、当然のように買い込んだ。
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国会図書館にもないものが家にあるぜと喜んでいたのだけれど、そのうちに、寄贈でもしてみようかと蔵書を調べたら、5月号は存在する事になっている。これは……マイクロフィルム版も入れて何だろうか。残念ながら、ネット上からは確認できないので、そのうちに出かけなければならなくなってしまった……。
by ZAM20F2 | 2019-07-05 07:38 | 文系 | Comments(0)