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そうなると思う

歴史は実験できるのかというタイトルと、自然実験が解き明かす人類史という副題につられて買い込んだ本。
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英語の現代は「Natural Experiments of History」で概念としては、ダーウィンがガラパゴス諸島で、様々な動物の分岐を観察して、進化論へと進んでいったのと同様に、様々な歴史的発展を比較考察することにより、歴史の発展に関する知見を得るという研究の進め方の研究を幾つか寄せ集めたもの。そういう意味では
「歴史は実験できるのか」とか
「自然実験が解き明かす人類史」
なんてい言い方より

「複数の発展事象の定量的統計比較による歴史発展の検討」

と言う方が内容を正確に反映していると思う。

社会科学の本になるけれども、普通の文系の本のように
(観察)→仮説→仮説の検証
という筋道にはなっていない。その代わりに検討したいこと、その動機が語られ、その上で、データに基づいた分析が行われ、分かったことが記述されている。この流れは理科系の研究者にとっては容易に受け入れられるものだ。適当な仮説を提示され、恣意的に集められた証拠と称するようなものにより仮説が検証されたと主張されるのより、遙かにきちんとした方法を用いた仕事である。

これまで、文系の研究における仮説の意味についてのエントリーを書いており、文系の研究手法は理系のものとはまったく別のものであると思っていたのだけれど、文系でもまっとうな科学的手法による研究を行えば、仮説→検証ではなく、理系の普通の論文と同様の構成になるのだと納得している。

そういう意味では興味深い本で、アマゾンのレビューでも高評価なのだけれども、訳文は私にはとっつきにくかった。まあ、英語のレビューでも、

Tough read

なんていうのもあるくらいだから、原文(あるいは内容理解)にしても、楽に読めるものではないのは確かなのだけれども、

Traditional historians will thus find the approach of the first four studies in this book familiar in that they develop evidence in a narrative style, compare small numbers of societies, and do not present statistical comparisons of quantitative data in the text. The approach of the remaining four studies differs from that of most traditional historians but will be familiar to some historians and to scholars in related social sciences, in that they are explicitly based on statical comparisons of quantitative data and they compare many societies.



従って従来の歴史学者は、本書の前半で紹介する4つの研究のアプローチに親近感を抱くだろう。ナラティブに話を進めながら証拠を見つけ出した上で、少数の社会を比較しており、テキストの定量データを使った統計比較は行われていない。後半の4つの研究アプローチは従来の歴史学者や定量分析に明るい研究者の一部は馴染み深い印象を受けるだろう。定量データの統計分析をどだいにしながら、多くの社会を比較している。


なんて訳されると、まず「ナラティブ」のところで頭を抱えることになる。業界人にとっては、わかりきった用語なのかもしれないけれども、あの表紙で帯に「銃・病原菌・鉄」を持ち出しているからには、もっと広い読者層を想定しているはずだ。その相手に「ナラティブ」をそのまま使うのは、いかがなものかと思う。実際、上の文をgoogle翻訳にかけると、

したがって、伝統的な歴史家は、この本の最初の4つの研究のアプローチが、物語の形で証拠を展開し、少数の社会を比較し、テキストに定量的データの統計的比較を提示しないことを見いだすであろう。残りの4つの研究のアプローチは、ほとんどの伝統的な歴史家のアプローチとは異なりますが、定量的データの統計的比較に基づいており、多くの社会を比較するという点で、関連する社会科学の学者や歴史学者にはよく知られています。

と「ナラティブ」を「物語の形で」とちゃんとした日本語に訳してくる。これは、ナラティブの用例が少ないためだろうと思う。

個人的に、どんな具合の日本語ならなじめたかというと

最初の4章は物事の記述を通して根拠を積み重ね、少数の社会の比較を行っている。定量的な統計処理は行われておらず、従来の研究手法を行う歴史学者にとってもなじめる手法であろう。残りの4章の方法は従来の歴史学者の手法とは異なったものだ。多数の異なる社会を統計データを用いて定量的に比較検討しており、このような研究手法を用いている関連分野の研究者や、一部の歴史学者にはなじめるものであろう。

ぐらいかなと思う。


by ZAM20F2 | 2018-10-29 07:03 | 文系 | Comments(0)

雑談メモ:ブルーレイの目に影響の大きい波長について

たまたま話をした人から、375nmの波長の光が不足すると近眼になりやすいという話を聞いた。そのあたりの波長の光を受けないと、目が成長を続けてしまうのだという。文明開化以降の屋内光には、この領域の光がほとんど含まれていないわけで、近眼予防に、この波長の光を環境光に含めるような研究がなされているらしい。
この話を聞いた瞬間に思ったのは、375nmの光って目に悪いんじゃないかということ。近年、ブルーライトが目に悪いという話がある。紫外線を浴びると皮膚癌の危険性が増すように、一般に短波超の光は生体に対して影響を与える。一般論として波長の短い光の方がエネルギーが高いので影響が大きい。美術館などの絵が紫外線から保護されるのはこのためだ。

と言うわけで、当然のように目に悪いんじゃないかと質問したのだけれど、帰ってきた答は、「ブルーライトで問題となるのは430nmで、そこから外れると影響は小さい」とのこと。答を聞きながら、でも、吸収端より高エネルギー側の光も吸収されれば,同様に光化学プロセスの出発点となるわけで、何で430nmとかなり不思議だった。

その後、黄斑の吸収端と関係があるのかなぁなどとも思案したのだけれど、目の吸収波長を調べてみると、440nmあたりが吸光度のピークで、375nmの吸光度はピークの数十分の一になっているようだ。どうやら、430nmが良くないというのは、S錐体の吸収曲線が関与している話で済みそうだ。
ただ、そうなると、不思議なことが2つ生じる。一つ目はS錐体は青色系に視角を引っ張る錐体なのだけれど、そこからの信号強度は吸収光量に依存するだろうから、430nmの光は吸光度が高ければ、より弱い光量で、青色に十分引っ張れる。それに対して、たとえばあ390nmの光だと吸光度は1/20程度なので、同じ程度青色に引っ張るのは20倍の光量がいる。つまり、光量比だと、430nmが影響が大きいけれど、青色を同じ程度に感じる状況では、影響は波長には、あまり依存しなくなる気がするのだけれども、どうなっているのだろうかと言うこと。
もう一つは、そうなると、375nm光で近眼が予防できるのは、錐体のどれかが光を吸収するためではなく、錐体以外の何者かの光化学反応が関与しているという話になるけれども、それは何なのだろうかということ。

なかなかに不思議だ。
by ZAM20F2 | 2018-10-27 18:50 | 科学系 | Comments(0)

日本の報道機関の科学部について

小倉さんの本の中には、科学ジャーナリストについて考えさせられる部分がある。
前のエントリーの坂田さんの解説に関しては、湯川さんから小倉さんに私信が届いているし、それ以外にも、自然の記事に対する感想が私信で送られいてる。それ以外にも矢野健太郎さん渡辺慧さん、江上不二夫さん、玉虫文一さんなどからも私信が送られているようで、科学者と編集者の間に交流があったことが伺える。今の世の中、こんな感じの科学ジャーナリストがいる気があまりしない。まあ、科学者側の問題でもあるわけだけれども。

もっとも、極東の島国の科学ジャーナリスト、記者の数もレベルも高くはないのは昔からのようで。ソビエトが人工衛星を打ち上げた直後には

多数の新聞記者に押し掛けられた東京天文台は『全く有史以来の』混雑を呈し、台員達は応接のいとまに苦しみ安眠を妨げられ、観測にさえ支障を来しそうになったといわれる。新聞社は今まで冷遇した科学記者を見直して急に科学部を新設するなどの狼狽ぶりを示したところさえある。

中略

政府もいささか狼狽したようだ。急いで理科系学生の大増員を文教政策として発表した。 中略 科学を尊重し、人類の幸福のためにその発展を望むことはよいが、『花咲爺』のお伽話に出てくる悪い爺さんのように肥料も与えずに収穫ばかりあせっては、却って不幸な結果を生する。

という状況が生じたそうだ。その後、半世紀以上の時間がたったけれど、新聞記者の科学に対する知見は相変わらず低く、ノーベル賞の記者会見でもまともな質問が出てこないようだし、そしてまた、政府の『かけ声だけ』という姿勢もまったく変わっていない。

by ZAM20F2 | 2018-10-25 07:27 | 文系 | Comments(0)

弾圧に抗して―編集者・小倉真美の回想

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小倉真美さんは、自然の初代編集長。文系ばっかりの編集者の中央公論において科学系雑誌の自然を立ち上げた人だ。この本は回想という表題だけれども、

私・小倉真美には日記はない。日記は生活するのに不可欠なものとは思えないが、生活に区切りを付け、後日の反省素材になる効用は無視できない。しかし、それを十分承知したのに日記を書く気持ちになれなかったのは、言論弾圧の具に使われる危険性があったためである。

と回想の元となる日記が存在しないことから始まる。

小倉さんは岩波書店で書籍を担当した後に雑誌の編集を行いたく中央公論に移っているのだけれど、その中央公論と改造社は軍部と特高に目をつけられて解散させられている。また、完全に言いがかりの嫌疑で多くの人が拘束され、亡くなった方もいる(横浜事件)。
小倉さんは中央公論で「図解科学」の編集に携わり、そこには、後に「光る原子、波うつ電子」としてまとめられることになった伏見康治さんの解説も掲載されていた。
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図解科学は、中央公論の解散時に朝日新聞社に移ったのだが、小倉さんは朝日に移ることはせず戦時下を過ごし、戦後になり中央公論が再建に参加し、中央公論から科学系雑誌「自然」を発行した。
さて、その戦後の始まった「自然」は小倉さん自身によれば

『自然』は高校以上の理科系学生の基礎知識を基準に、広く科学に興味を持つ一般的知識層と研究者を読者対象とした。科学分野の本質的究明の解説を中心に、科学の進歩をはばむ障害を排除するための啓発的論文を掲載、無視されていた社会科学と自然科学の連携をはかるなど、民主日本のかどでにふさわしい意気込みで出発した。

「民主日本のかどでにふさわしいもの」と記してあるけれども、創刊号で伏見康治さんが進駐軍による理研のサイクロトロン破壊を「進駐軍の犯した非文化的措置」と書いたのがGHQの検閲に引っかかり跡形もなく削除することを要求されたことから、決して無条件の自由ではないことを感じながらの出発であったようだ。

その時代に出回っていた言説は、戦前の体制に対する反発から今から見ると過剰なものも混ざっている感じもする。
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これは、たまたま入手した戦後に出てきた雑誌だけれども、目次を見ると、自然科学というより、哲学か社会科学という気すらしてしまう。

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さて、そのような社会の流れの中で、中央公論の6月号に羽仁五郎さんが「科学と資本主義」という記事を書いている。
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小倉さんによれば、
「科学と資本主義」と題して湯川秀樹氏に対し誹謗に近い独断的論文を発表した。このため『自然』八月号に坂田昌一氏に「湯川理論発展の背景」を執筆させ、湯川氏を擁護しようとしたことが波紋をおこした。羽仁氏は社員に私を「ギャングだ」と非難したそうだが、一部の進歩的文化人の行きすぎも目にあまる時代であった。

とのことで、簡単に話を紹介すると、羽仁さんは湯川理論の発展を唯物論的弁証法に結びつけて、武谷さんや坂田さんといった弁証法を理解した人々が湯川さんから引き離された結果として中間子論が戦中に発展しなかったと主張しているのだけれど、坂田さんはアメリカからの実験物理に関する情報の途絶が理論研究の停滞を招いたときっぱりと説明している。

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羽仁氏の好きな唯物論的弁証法を理解している坂田さんの解説を掲載したことに対して、羽仁さんが小倉さんのことを「ギャングだ」と非難する正当な理由がまったく見当が付かないのだけれども、イットリウム君の発言は、こんな騒動を受けているように思えたのだ。

調べてみると8月号以降の伏見さんの記事は9月号、12月号で、イットリウム君が出てくるのは12月号である。9月号では8月号の内容を受けることは無理だから、羽仁さんと坂田さんの記事に反応するとしたら、12月号が最初の機会となるだろうと思う。


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その12月号の記事タイトルは「言葉のつまずき」。
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日常的な概念が原子の世界には通用しなくなる話ではあるのだけれど、最初の節のタイトルは「民主的な説明」第2段落を書き出すと
「戦争が終わって民主主義の世の中になりました。民主主義とは何でしょうか。それはすべての人が樹種的にものを考え、判断し、その意見を言い、行うことであると思います。他人の指図に盲従することはたやすいことですが、自分でものを考えることはむずかしいことです。すべての人がそうするためには、何よりもまず言葉づかいをやさしくして、一部の人が占有していた知識を誰でもわかてしまうことが必要でしょう。むずかしい言葉を使って学問を習うことをやめ、本当のことはもともとやさしいはっきりしたことなのですから、飾りけなしに言ったならば、誰でも真理が分かるはずです。」
このあと、気体の分子論の話が続き、それにより2原子分子の比熱の説明が可能であったが、原子の構造となると、古典的な言葉は通用しなくなり、まとめの部分で
「今日の話の要旨をまとめてみましょう。気体の分子運動論は物質構造の初期の成功の一時期を画しておりますが、そのはなばなしい成功の裏に古典的力学の崩壊がひそんでおりました。私たちは、気体運動論の自己矛盾の中に、単原子分子が回るべきで回っていない事実の中に、古典力学に代わるべき新しい言葉の体系、量子力学発生の萌芽を認めるのです。」
と述べたあとで、イットリウム君の質問が飛びだしてくることになる。

それにしても、質問者がイットリウムの理由が思いつかない。原子番号が82(羽仁)とか56(五郎)の元素だったら、「伏見先生、お茶目すぎますよ」と大爆笑なんだけれども、残念ながらイットリウムの原子番号は39。どうしても、イットリウムを選んだ理由が見いだせない。



by ZAM20F2 | 2018-10-23 07:19 | 文系 | Comments(0)

イットリウムの謎

伏見さんは驢馬電子の他に、戦前に「図解科学」に、そして戦後に「自然」に原子物理の解説を書いている。図解科学も自然も中央公論の雑誌で、編集者は両方とも小倉真美さんだ。
驢馬電子と光る原子、波打つ電子は単行本として出されているが、自然に掲載された解説は著作集にしか収録されていない。

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というわけで、著作集を買い込んで読んでいたのだけれど、次のところで思わず吹き出してしまった。

「回るはずで実はまわっていないのを止揚したのは弁証法ですか」とイットリウム君がすまして言ったのです。

これだけ見ると何で吹き出したのか分からないと思うけれども、並木美喜雄さんの解説にも
「戦後の科学評論には、哲学またはイデオロギー過剰ともいえる風潮があり、その中で武谷方法論をめぐって激しい論争が続けられていた。伏見先生が知らないはずがない。しかし、今ここでそれを詮索することはやめよう。それに戦前派の先生方は、激しい論争を続けた間柄だったとしても、私たち戦後派にはうかがい知れない友情で結ばれていたようだ-うっかりsたことはいえない。いずれにしても、その風潮の中で、「原子物理シリーズ」は哲学的・イデオロギー的用語を一切使うことなく量子力学の解説を続けてゆく、ただ一つの例外はイットリウム君の発言「回るはずで実は回っていないにを止揚したのは弁証法ですか」であった。何となく面白い。」
とあり、にやっとするところであるのは間違いなさそうだ。吹き出したのは、この解説を読む前なんだけれど、何で反応してしまったかというと、少し前に読んだ本に関係ありそうな話があったためだ。
その本のことは次回に。


by ZAM20F2 | 2018-10-21 07:16 | 文系 | Comments(0)

計算尺と関数電卓

伏見康治さんの本を古本サイトであさっていたら、「直交関数系」という本が目に飛び込んできた。復刻版もあるようなのだけれど、古本の方が安く入手できるので、適当なのを選んで京都の本屋からやってきた本は、明倫館経由だった。
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本は最小自乗に関する話から始まる。このあたり、使ってはいるのだけれど、きっちりと原理を理解していないことを改めて納得するのによい。
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細かい式は追わずに、ザックリしか眺めていないのだけれど、色々とへえとなるところがある。その中で、直接的な役に立たないけれどへえだったのが次のところ。近似式に関する話だ。

前略

sinx≒x,tannx≒x など

sinxなどの近似式は、正弦曲線を曲がりくねった曲線と思い込んでいる人からは、よほど小さいxに対してでないと使えないだろう、と誤解されそうだが、案外そうでもない。計算尺の三角関数の目盛り(S尺、T尺)が小さい方は6゜くらいまでしかないのは、6゜以下には、計算尺の制度(有効数字3桁)で、上の近似式が十分成り立つことを意味しているのである(愛用者の多くなったポケット電卓では、残念ながら、こういった目安がつけられない。)

S尺やT尺といっても、分からない人も多いと思うので、写真を掲載する。
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左側に上からTKPSという文字があるけれども、このTとSが話題のものだ。他の目盛りは使用者には当たり前なので書いてない気もするが、それもきちんと書くとT,K,A,B,CI,D,C,P,Sとなる。

本の「6゜以下には、」という部分は、S尺の最小値が6程度であることを意味している。このS尺だけれども、角度の目盛りで、その上にあるC尺の値が、そのときの正弦関数値になっている。だから、S尺の30゜のところを見ると、C尺の値は0.5となっている。
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T尺も同様に、T尺の値を角度として、そのときのC尺の値をみれば、その角度の正接値となる。C尺とD尺は1桁の範囲の数値を対数目盛で刻んでいる。A尺とB尺は2桁の範囲の数値を対数目盛で刻んでいる。それ故、C尺の目盛り値の2乗がA尺のメモリ値に対応する。逆にA尺の下のC尺を読めば、ある数の平方根が求められる。K尺は3桁の範囲の数値を刻んでいるので立方や立方根の計算に役立つ。




by ZAM20F2 | 2018-10-19 07:10 | 科学系 | Comments(0)

科学者そしてサイエンスライター(II)

 伏見さんは、「光る原子、波打つ電子」の中で波束としての電子の解説を行った後で、
「以上、話はたいへん難しくなりましたが、皆さんも一奮発して、何度も読み返して下さい。何しろここでお話ししていることは最も難しい物理学の理論すなわち量子論に関係していることなのですから、そうすらすらとわかるべきものではないのです。
今までのところをまとめて言いますと、エネルギーがEで、運動量がpであるような粒電子に、それぞれに比例する振動数ν、波数kの分散性の波を対応させて考えますと、この波の塊として電子の粒としての性質がある程度まで理解することができるということです。」

と記している。注目すべきはこの前半部分で、伏見さんが読者の努力を要求していることである。最近のグラフィカルな科学雑誌も、そして、多くの科学教室の説明も、対象者には、あまり努力を要求してはいない。科学雑誌の場合は、下手に努力を要求すると読者が付いてこなくなるとう面はあるだろうけれども、努力なしに理解出来ることは、基本的にはその人が既に知っていた程度の事でしかない。それでは、基本的には賢くなれないだろうと思う。

読者に努力を要求する一方で、それに食いついて来る人のためには、惜しげもなく物理的な考え方を伝えようとしている。例えば、

「デカルトがその「方法序説」で一つの格率として「研究しようとする問題の各々を出来るだけ多くのそうしてよりよき解決のために要請され得るかぎりの小部分に分割すること」と説いているのを、今引用するのは索強附会かも知れませんが、全体として眺めていてはどうにも手のつかない多くの物理上の問題が、その微分要素に考察を向けることによってどんなに近づき易くなるかは苟(いやしく)も物理の初歩を学ばれる方には分かるはずです。」

なんて言うのは、問題の取扱の基本的な事の一つだけれども、あんまり明示的には教えられていないことである気がする。そしてまた、

「新しい見慣れない現象に出会った時、人々のとる態度は何でしょうか。それは先ず第一に既得の知識を使ってそれを説明しようとすることでしょう。それがどうしても旨く行かない時、人々は今度は自分の知識の体系を変更しなければならないことに気付くのです。これは全く正しい生き方と順序です。その第一段の手続きを怠るならば、私どもは不断に現象の驚異に曝され、決して自然の秩序に思い至ることがないでしょう。私共は野蛮人のように、事毎に独立不覊(ふき)の神を認めて多神教を信奉するようになるでしょう。
 私は今まで物理学就中理論物理学の最前線で、どんなに古い知識体系が崩れ去って、新しい革命的思想がとって代わったかを話してきました。このような瞠目的な前進の物語をするのは、話をする方も叉聴く方も面白いには違いありませんが、それには一つの危険の冒されていることを強調しなければなりません。このような目覚ましい事件というものは要するに珍しければこそ人々の注意を集めるのでありまして、物理学全体の前進はもっと地道な生き方を辿っているのであることを充分に知らなければなりません。
 先ず大部分の新しい研究領域では、古い慣れた考え方が(その外見が甚だしく見慣れないものであるにしましても)その儘運用するのであります。私共の長い戦線からの報告は、結局「異状なし」であることが多いのであります。」

は、ものすごく大事な内容だ。なにしろ、こんな忙しい世の中になってくると、人目を引くために、見つけたことを既得の知識を使って説明する努力を省いたような仕事も発表されるわけで、それに対する警告にもなっている。

一方で、より具体的に役に立つ話もある。

「物理学者は不必要な精密ということを嫌います。問題問題に依って何が大切な肝心なものとなるかをよく知らなければなりません。会計検査官に取っては最後の何銭の桁が問題かもしれませんが、何十億円の国病予算の審議に一議員がこの最後の何銭を問題にしたとならば、私共は彼の常識を疑うことでしょう。常識の健全なる発達であります科学は、今一度言いますが不必要な精密さを嫌うものです。かかる立場にあれば「高い山に登ると太陽に近づくのに何故寒くなるの?」という子どもの質問に対して、あまりびくびくしなくてもすむことになりましょう。大気の温度分布に就いて気象学者がどういう説明をするか私は詳しくしりませんが、少なくとも子どもの疑問が無意味なものであることだけは判ります。假令ヒマラヤの山頂を極めたとしたところで、私共は太陽にいくら近づいたというのです。九牛の一毛も近寄ってはいないのです。」

なんかは、もっと具体的に有効数字という概念を感覚的に分かりそうな例を使って説明している。確かに、学生実験などを通して有効数字の扱い方は教わるわけだけれども、そもそも、何桁の有効数字で物事を扱うかは、有効数字の扱いとは別の話で、そっちの感覚も大事だと気づかせてくれる。


伏見さんは、理論家なのだけれども、実験に対する感覚もきちんと持っている印象がある。たとえば、
「『自然は真空を悪む』という言葉があります。近頃科学教育ということが頻りに問題になっておりますが、そういう論の中に「自然は真空を悪む」などという言葉はけしからん、こういう擬人的な言葉こそ凡そ非科学的で、客観的真理を記述する科学精神とは相容れないものであるという方があります。私をして言わしめて下さるものでしたら、そういう批判こそ、一知半解も甚だしいと申しあげたいものです。近頃の物理学の実験を試みられた方なら、先ず十中の八までは真空を取り扱われた筈でありますが、およそ一度でも真空を作って見られた方なら、此の「自然は真空を悪む」という言葉をつくづく身を以て味あわれることでしょう。よく言い表したものであると感心しないわけにはいきますまい。」

なんて言うのは、真空度の上がらない装置と格闘したことがある人なら実感を持って受け入れられる所だろうと思う(もっとも、最近では出来合の装置の性能が上がってしまったために、真空が上がらなくて苦労するなんて状況にも余りお目にかからないようだけれど。)。さらに、実験あるいは実験家について

「けれども実験がどんなにむずかしいものであるかを知る人は少ない。学生は大抵の場合、頭の悪い奴は実験へ廻れと教えられています。それは単に技術を習得するというだけならば或いは当たっているかも知れません。併しいやしくも独創的な仕事をしようとする人ならば充分の頭の働きが必要です。その上にあらゆる人間の徳、強固な意志、粘り、注意力、厳格、正直、思想の自由性、体力がなければなりません。此のあらゆる徳を以てぶつかって行った時、初めて頑固な自然はその秘密を私共に開いてくれるのです。」

とも記している。今の世の中、趣味の工作が廃れてしまったためか、物を扱う経験量が全体的に低下している。そうなると、出来合の装置を使って、ボタンを押せば済むような測定は出来ても、何かを作り上げて新しいことを測定するのは困難になっていく。




by ZAM20F2 | 2018-10-17 06:07 | 文系 | Comments(0)

科学者そしてサイエンスライター(I)

大分前の「専門家とサイエンスライター」「専門家とサイエンスライターまた」では、専門外の事についてはある分野では専門家である人も1人のサイエンスライターでしかなく、間違った内容を記してしまう場合もあることを取り上げた。逆に、世の中には科学者としてもサイエンスライターとしても一流で、書いた物を読むだけで、目から鱗が何枚も落ちてしまうような素敵な本を書く人もいる。物理分野のガモフや生物系のグールドなどはこのような人々だし、そして、ガモフの著書を戦前から戦中に訳した伏見康治さんも、優れた科学者兼サイエンスライターの一人であると思う。なにしろ、卵の実験なんて意表をついた本まであるのだ。


著作集からだいぶ経って出版された「伏見康治コレクション」は数学セミナー、科学朝日などに連載されたものをまとめたものらしく、それなりの予備知識を持つ読者を対象にしている感がある。しかし、戦前に書かれた「驢馬電子」や「光る原子、波打つ電子」は掲載雑誌から考えると、少し背伸びをしたいぐらいの旧制中学生ぐらいも視野にいれた解説だ。だいぶ前のエントリーで驢馬電子を取り上げたときは、もう少し年上向けと記したけれど、考えが変わったのは、驢馬電子の中には兄弟による問答形式の話があり、そこに出てくる弟が旧制中学程度の年齢だからだ。あえて、その年齢を選ぶと言うことは、そこを対象読者として考えているということになると思う。

 少し話はそれるけれども、「小国民理科の研究叢書」にも問答形式は結構使われていて、あるいはこの時代には、この手の科学読みもの(だけでなく一般的な子ども向け読み物もかもしれないけれども未確認)に一般的な記述形式だったのかもしれない。

 さて、その解説において、伏見さんは流石に大学の教科書に出てくるような数式は使わずに、原子物理や原子核物理の話をしていくのだけれど、そこでは、単に知識を伝えるのではなく、科学の考え方を伝えようとする意識が働いているのが色々なところににじみ出ている。例えば、驢馬電子の前書きには

「こんな懸け離れて小さい世界に私達の探求の手が延びていく時、粗大世界で私達の慣れた言葉、概念が重大な障碍に出会うことは予め覚悟していなければならないことでありましょう。こんな遠い世界の涯まで私達の日常の言葉がそのまま通用すると考えるのは、世界中どこでも英語が通用するとするイギリス人よりも思い上がった考えと言わなければなりません。事実はそれ程心配しなくても宜しいので、驚くべき程私達の粗雑な言葉は極微粒子の世界でも通るのであります。勿論適当な補正を加えて。
 もしこの偶然ともいうべき幸運がなかったなら、私はこんなお話を始める勇気を持ち合わせなかったことでしょう。ただそのような小さい世界の現象に浸り切ることによってのみ体得できる言葉を、いわゆる術語を使って皆様にわかる話をしようとしたとて、無理なことは明らかですから。物理学が科学の華と言われる程の大発展を遂げましたのも此の好都合が幸いしているために違いありません。
 けれども此の幸運になれてはいけません。私は多くの類推を並べたてることでしょうけれども、学問というものは類推だけで成り立っているわけではありません。類推が理解を援け、叉専門家が新しい領域に踏み込む時の足場の役を務めることも確かでありますが,併し試みに踏み出した足先が堅い地盤に触れたかどうかを審判するのは、ただ実験事実、現象そのものであるのです。つまり、現象に慣れ親しむことによってその言葉と文法とを体得する,現象に即して考えるという純粋な思惟が本質的な役目を果たしているのであろうことを御注意下さい。」

と、これから行うであろう類推を用いた説明には限界があることを読者に示している。(ついでに記すと、自分のやってることがグローバルというのは第二次大戦前からのアングロサクソンの感覚なのだなぁと思ってしまった。)

さらに、二原子分子の分光のところでも

「人々はよくギリシア、ローマの哲人達が近代の科学の獲得した思想に似たものを既に所有していたことを説きますが、私共はかような先走った空想に何の価値も認めることは出来ません。私共は一歩の飛躍は尊重しますが、千歩の飛躍はこれを肯ずることが出来ません。一歩の飛躍の後には左右を見渡して自分の足場を確かめることが出来ます。千歩の飛躍の後にはそれは不可能でしょう。」

と一足飛びの議論ではなく、着実に前に進むことの重要性を記している。このような意識があるために、原子核物理二十話という副題のある本の中でも、真空を作る話、霧箱、ガイガー計数器など実験のことに随分と頁を費やしていて、その後で、

「一体私のこれまでのお話では、少し世の中の慣習をはづして道具のお話を詳しくし過ぎた惧がないでもないのです。普通ならば、今度の話あたりから始めるべきものであったのでしょう。原子級の世界に於ける微粒子同士の様々な交渉、衝突や崩壊や放射能の現象に就いて私共物理学者が現在抱いている像をお知らせするのが本筋であったかも知れません。併し私はそのような話が齎(もたら)す危険を思ってみました。原子級物理の応用は宣伝的には色々なされてはおりますが、現在のところ電気とかラジオとかのように私共の日常生活と密接な結び付きを持っているわけではありません。この通り世界にいきなり皆様を連れて行くとしましたなら、それは実はおとぎ話の世界へご案内するのと大差ないこととなりましょう。世の科学通俗化を目指すお話の大部分はこの遠い世界のことを面白おかしく説いているようですが、それでは「科学」の通俗化にはならず、科学の成果の文学的記述で、驚異に満ちているという点でアラビアン・ナイトや西遊記と選ぶことがないこととなりましょう。」

などと、寄り道をしていることの真意を改めて説いている。それにしても、「現実とは解離した原子級物理の応用の話は驚異に満ちているという点でアラビアン・ナイトや西遊記と変わらない」という指摘は、クラークの「十分に発達した科学技術は魔法と見分けが付かない(1973年発表らしい)」という指摘に通じるところのある内容を30年程も前に記しているわけで、東西を問わずに似たようなものだなと思うし、クラークの発表から40年経過した今でも、西遊記と変わらない科学読み物が結構ありそうなことを考えると、時代を超えて注意しておかなければならない事柄であると感じられる。なにしろ、科学技術・学術政策研究所の「科学雑誌に関する調査」では、若年層の科学技術離れをなくす手段の一つとして、研究者・研究機関側からの情報提供を上げているが、伏見さんが注意点を書いた時代から、さらに先に進んでしまった先端の科学研究を伝えることは、伏見さんの時代以上に文学的記述となる危険性があるはずであるにも係わらず、伏見さんの指摘された危険性はほとんど意識されていないように思える。アラビアン・ナイトや西遊記は元々がお話であるという認識にあるものだから、それらが面白かったからといって、学校の理科が難しくてつまらないものにはならない。しかし、科学の成果の文学的記述を読んで、それが面白いと思えば、より面白くない学校の理科から離れていく理由にはなるわけで、これまでも、同じような事を書いているので、繰り返しになるけれども、荒唐無稽な物語とは違って、科学に害をなすものになりかねないのである。

 話はそれてしまったけれど、伏見さんに限らず、きちんとした科学者でありサイエンスライターでもある人の書く読み物には、知識というより考え方を伝える意識があるように感じられる。科学によって得られた知識というよりは科学という考え方を伝えようとしている印象がある。もう少し、伏見さんの言葉を拾ってみたい。
 
by ZAM20F2 | 2018-10-15 06:57 | 文系 | Comments(0)

驢馬3兄弟

前にも出したことがある伏見康治さんの「驢馬電子」。
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科学知識に連載されたものをまとめたものだ。科学知識はこんな感じの雑誌。
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残念ながら、伏見さんの連成は載っていない号だ。


前にも出した驢馬電子は、戦前の発行だけれど、確認した限りで戦後に2回ほど別の出版社から出ている。
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1つは、中央公論の自然選書版。タイトルは「ろば電子」となっている。そして、もう一つはみすず書房の著作集に収められたもの。
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こちらもタイトルも「ろば電子」だ。

驢馬電子はだいぶ前に買込んだのだけれども、戦後に「自然」に書かれていた解説シリーズが読みたくなって、収録されているのが著作集だけだったので、著作集を丸ごと買い込んだ結果として2冊目がやってきて、持運んで読むのに手頃なのが欲しくなって3冊目がやってきてしまった。

本の表装はなんと言っても「ろば電子」の2冊より「驢馬電子」が気に入っている。
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とても原子物理入門とは思えないユーモラスな光景だ。驢馬電子は、電場によって普通の電子とは逆方向に動くような電子のことなんだけれども、この本で驢馬電子の話が出てくるのは随分と後の方。殆どの頁は驢馬電子以外の話となっている。そういう意味では、「驢馬電子」というタイトルは、なかなかに意表をついたものであるのだけれど、それがタイトルとして使われているのは、その時代には驢馬が身近な存在だったためなのかと思っている。

by ZAM20F2 | 2018-10-13 07:52 | 科学系 | Comments(2)

小角鋭敏色板による低リタデーション試料のコントラスト増強

雲母板を通常の鋭敏色板と超鋭敏色板で比較する画像を載せたエントリーの最後に、普通の鋭敏色板を使って、よりコントラストを高くできる方法が見つかったと記した。それが書いてあったのは、
Journal of Microscopg, Vol. 180. Pt 2. November 1995, pp.127-130, Polarized light microscopy of weakly birefringent biological specimens, R. H. NEWTON. J. P. HAFFEGEE & M. W. HO
という論文で、通常の鋭敏色板を偏光子(検光子)の軸に対して45度ではなく、10度以下程度の角度で入れるとコントラストが良くなるよという内容だった。

通常の偏光顕微鏡では鋭敏色板の軸角度を変えることはできないので、試そうと思ったら、偏光子と検光子の直交状態を保ったまま、いつもの角度から回していく必要がある。というわけで、早速試してみた。試料はネマチック液晶をガラスの上に薄く広げたもの。

まずは、通常のクロスニコル下。
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全体的にくらい。カメラの露光時間をかなり延ばすと
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文様は、よりはっきり見えるようになる。
そして、普通の鋭敏色。
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こちらは、露光が短めの方がコントラストがはっきりするのだけれども、あんまり見やすい状況にはない。
続いて超鋭敏色。
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ここまでの比較だとたしかに超鋭敏色がコントラストが一番付いているように見える。
続いて、小角で鋭敏色板を入れる手法。角度は何種類か試している。
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いずれも、コントラストは段違いに良い。鋭敏色板の軸が偏光子の軸に近いと色調は変らないけれども、透過光量は減って暗くなる。実際、通常の鋭敏色や超鋭敏色に比べると画像は暗くて、カメラの露光時間は延びているのだけれど、コントラストは明確にあがっていて感度はよい。

ついでに、低リタデーションプレートによるコントラスト増強も試みてみた。オリンパスサイトにはブレースケラーがリタデーション測定だけでなく、コントラスト増強にも使えると書いてある。これを試みるには、リタデーションが数十nm程度の位相差板が必要になる。流れとしては、薄く剥いだ雲母板なのだけれど、今回はスコッチクリアテープ1枚を使っている。リタデーションは50nm程度。
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by ZAM20F2 | 2018-09-21 07:04 | 顕微系 | Comments(0)